B.Y.L.M.

ACT7-scene8

ひとときは止んだかとも思った雨だが、翌朝、起きたときにはまた降っていた。さすがに滝のようなというものではなかったが、いい降り具合だ。少し出れば、全身が濡れそぼるだろうという。

その翌日もだった。朝は止んでいたが、起きてしばらくするとまた、降りだした。

「夏季が終わるようですね」

三日経っても晴れ間が覗かず雨が続いたところで、昼の青年がそう言った。カイトの前の小卓にことりと、湯気立つ椀皿を置きながらだ。

「終わ…る……?」

――常夏の国でもなければ、確かにいつかは夏季も終わるだろう。

だとしても唐突だと、カイトは目を見張って顔を上げた。

ごく間近にある青年の美貌がぼやけ、揺らいで、カイトは見張った目を癇性に瞬く羽目に陥った。

日が出ず、雨が降り続けば、いかに南方とはいえ、相応に気温も上がらない。

カイトはこの数日間、書を読みこむことに明け暮れていた。

起きてから寝るまで、ひたすら読み続けだ。それでも次に読むためにと積んだ山が低くなることなく、むしろじわじわと高くなっているという。

なにしろ南方の知識に関しては、まるで白紙と言ってもいいほどしかないのが、カイトの現状だった。読みたいものを読むにも、前提としての知識をまず、仕入れなければならない。

一冊を読みだしたが、結局不明が多過ぎるからと、予備知識を得るための別の書に流れ、その予備知識の予備知識に――

――カイト様はやはり、まじめすぎませんかね。飽きないものですか。

一日目を終えたあたりで、カイトが次から次に求める書物をこまごま運んでいた夫が、小さく音を上げた。

――飽きられるほど、数を重ねた覚えはないぞ。

カイトはしらりとして返した。

実際、飽きる飽きないの問題ではない。カイトの王太子としての日常はずっと、こういったことのくり返しだった。

ここしばらくは折衝など実務の時間も増えていたが、そうなるまでにはとにかく知識を容れ、赴けるだけ現地に赴いて実際を確かめ――の、くり返しだ。

実地の感触と知識とに食い違いがある気がすれば、一度容れた知識をもう一度、洗い直すということもしばしばあった。

カイトは神憑りの発想を閃くような型の、天賦の才持つ統治者ではなかった。あくまでも地味かつ地道な作業を倦まず続けられ、怠らずくり返せるというところで、才能を発揮する型だった。

もしも王と成っても、斬新な、あるいは飛躍的な発展を遂げるような治世ではなかっただろう。

けれど崩れることもなく盤石で、安泰した、平寧の国を築いたはずだ。

刺激を求めるものには退屈で、不正を企むものには居心地が悪く、不幸を求めるものにとっては、もっとも正しく不幸な――

今やカイトは王と成るどころか王太子ですらなく、見知らぬ異国で同性相手の妻と納まってはいたが、だからと素養が損なわれるわけではない。

自らの足で動き回ることもできず、夫任せに篭められるだけの『花』たる身に必要かどうかといったことも斟酌せず、ただ知識は要るとの実感に基づいて、ひたすら貪欲に求めた。

がくぽといえば、そういったカイトの司書たるに音を上げても表向きだけのことで、協力は惜しまなかった。求めるものが屋敷の書庫にあるならすぐに持ってきたし、なければ取り寄せる手配をした。

合間にカイトが問えば、丁寧に答えもする。答えられないものは自らで改めて調べ、もしくは解説している書を探す。

もちろん『がくぽ』だ。そればかりではない。

雨が降っていても、滝のようなというのでなければ庭の様子を見に出て、なにかしら手当てをしてくる。騎士としての鍛錬も怠らず行い、屋敷内の仕事もこまごまと片づけて――

まじめすぎると言うなら、むしろこちらではないかというのが、カイトの感想だ。

倦まず飽かず、よくよくきまめに働く。

夜の少年もこまめに動くが、持てる活動時間というものがある。必要に気がつけるかどうかといったことも。

比べると昼の青年はもはや、いっそ嫁に行けと言いたくなるようだった。否、嫁に来いだろうか。

なぜこの男は夫であることにこだわるのかと、よほど妻らしいのにと、カイトの思考は微妙な混迷を得た。

今、目の前に置かれた椀皿とて、そうだ。

この屋敷に来た当初、まだひとの身の名残りがあったころには『食事』もしたが、花として完全に咲き開いて以降、口にするのは果実水か茶程度となっていたカイトだ。

さらにここ最近といえば、あまりに暑いため、もっぱら冷えたものばかり口にしていた。朝の起き抜けだけは熱い茶を供されたが、昼になるともう、冷たいものしか受けつけない。

ひとであれば胃腸など、内腑の負担を慮れば無理に熱いものも摂ろうが、カイトは花だ。

花に水をやる庭師はいても、湯をかける庭師はついぞ、見かけない。

がくぽもまた、カイトへ熱いものを強く勧めるようなことはしなかった。

が、今日、ひと息入れようと持ってきたものは杯ではなく椀皿であり、そこには黄金色の、湯気立つ汁がなみなみとよそわれていた。

具材はなく、透き通った、よく濾された汁だけだ。

くんと鼻を蠢かせれば、香ばしいにおいが胸を満たした。南方に来てから、あまり嗅がなかった類の香りかもしれない。

こういった形態の食事を摂っていないということもあるが、とにかく南方は花の香りが強い。

花と、熟された果実の、いっそ息詰まるほどに重苦しい、甘いあまい香りが。

「雨が降り続いているでしょう夏季の終わりになるとね、こうして急に、雨が降り続くんです。夏の暑さを、ひと息に流そうとするかのようにね。長いときなら、十日から二十日余り――短いときでも、五日かそこらは降り続けです。この勢いですからね、炎害のあとは水害…」

窓の外を窺いながら答えたがくぽは、そこでカイトに顔を戻し、くっと咽喉を鳴らした。笑いを堪えたのだ。

季節の変わりも気になるが、目の前の椀皿も気になる――

どちらについたものか決めかねる、いかにも優柔不断なカイトのさまが、おかしかったらしい。

否、おかしいことだろうと、カイトも思う。微妙に不貞腐れた心地でだ。自分で問いかけておきながら目の前の食べ物に気を取られるなど、まるきり子供の所作だ。

カイトが自覚して、恥じていることもわかるのだろう。がくぽは肩を震わせつつも、なんとか笑いを堪えた。しぐさばかりは上品に、手を振って勧めてくれる。

「どうぞ、お召し上がりを。……お口に合えば、いいのですが」

「……ありがとう」

それ以外になにか言えば、きっと青年のあの、爆発的な笑いを呼ぶ。

わかっているので、カイトは恨みがましい目をしたが余計なことは言わず、礼のみに止めた。募る羞恥にうっすらと肌を染めつつも、意地を起こすことなく椀皿に手を伸ばす。

持ち手はなくただ丸く、小ぶりで、両手のひらにちょうどよく収まる形の椀だ。色は真珠のような白で、中身の黄金色がよく映える。

匙はないから、杯と同じような扱いで、このまま口をつけて飲めということだろう。

南方式なのか、どのみち掬わなければいけない具材もなし、不足があるわけではない。

カイトは啜る前にもう一度、くんと鼻を蠢かせて香りを入れた。香ばしさのあまり、口に入れる前からじゅわりと、唾液が湧く。行儀は悪いが、油断すると涎が垂れそうだ。

こっそりと唾液を飲みこんで備えてから、カイトはそっと、汁を啜った。

啜ったのは汁だが、まず広がったのはやはり、香りだ。よく火が通された香ばしさに、花や果実とはまた違った、やわらかで丸みを帯びた、菜特有の甘い香り――

馥郁たる香りが抜けていっぱいに満たし、こくりと飲みこんだあとに味を覚える。久しぶりの塩みだ。

とはいえ、きついものではない。いっそなくとも平気なほど濃く、菜の味が出ている。あとは、髄だろうか。

見た目の透明感に違わない軽やかな滑り心地だというのに、飲みこんだあとにも濃厚に香り、蕩かされそうなほどの旨みが舌にまといつく。

「ん…っ!」

おいしいと、早く感想を言ってやりたいが堪えきれず、カイトはもうひと口、含んだ。それで表情は綻ぶどころか、完全に蕩けた。緩みきって、まるで締められない。

だらしがないとは思ったがどうにもできず、カイトはそのまま、給仕よろしく傍らに立つ青年へ笑みかけた。

「おいしい…っ」

「ありがとうございます」

言葉以上に雄弁な、カイトの表情がある。もとより告げた称賛に嘘もまやかしもないが、伝わり方が違う。

いつものあの、頑是ない幼子でも相手にするような風情で見守っていたがくぽだったが、掛け値なしの賛辞には強い歓びを宿し、笑みを深めた。騎士の礼というより、芝居がかったしぐさで胸に手を当て、恭しく頭を下げてみせる。

「おまえが作ったのか?」

それ以外にないとはわかっていても弾んで訊いたカイトに、がくぽも素直に頷いた。

「ええ。芋やら玉ねぎやら、根菜を山ほど剥いて、あとはいくつかの香菜と、牛の髄といっしょに、鍋に入れましてね。先おとといの夕べりから、灰汁を取りつつひたすら煮込んだものを、先ほどさらしで濾して、仕上げたものです」

「先おととい………」

これほど複雑な、妙味だ。ずいぶん手間がかかっているのだろうとは思っても、普段のこともある。

ひと声うたうかなにかで、一瞬で仕上げたかと思えば、どうもほんとうに、自らの手と暇とを注ぎこんで作ったものらしい。

目を丸くしてがくぽを眺め、カイトははたと思い出した。

先おとといといえば、雨の降りだしの日だ。厚い雲のせいで時を読み違えた青年が、少年に変わる前にカイトを寝台に運べなかった。

結局、少年を謀るような形で、カイトがどうにかしてしまったが――

そういえばあのとき、寝台で抱きついた少年からも、ほのかに香っていた。さすがにこうまで濃厚ではなく、調理したてのという感ではあったが。

がくぽといえば、いつもは雄の香りか、さもなくば花の香りかだ。珍しいこともあると、少し不思議に思った。

とはいえ諸々の流れもあって訊く機会もなく、そして今の今まで忘れていた。あの日以降、香ることもなかったからだ。

あの日、あのときは、少年もひどく慌てていた。身支度を整え直すのもそこそこでカイトの元へと飛んできたから、きっと香りを飛ばし忘れたのだろう。

ともあれ、そうだとするなら――

「もしかして、厨房に篭もっていたか」

きまめな青年だ。きまめで、きまじめであり、几帳面な。

雲が厚かろうと、本来的にはそれだけで時を読み違えるとは、考えにくいのだ。だからカイトもあのとき、ひどく戸惑った。

だが、雲が厚く、読み難いところにもってきて、どこか奥部屋に篭もり、なにかの作業に集中していれば――

そう考えれば、合点がいく。

几帳面であればこそ、こまかな作業に掛かったときの集中具合も違うからだ。

気がついた顔で訊いたカイトに、がくぽは軽く、肩を竦めた。笑みが苦みを含む。

「鍋をひっくり返さなかったことが、不幸中の幸いというものでしょう。ちょうど煮え立ったところでしたからね。もしもひっくり返していれば、幾重にも滅入る結果となるところでした」

迂遠ながら、肯定だ。厨房で、鍋の様子に気を取られていた。ちょうど手間を求められるところで、うっかり時間を失念し――

たとえどれほど気が利いても、常に完璧で、まったく間違いを犯さないものなど、いない。

長く付き合えばこういうこともあるだろうと、納得したつもりでどこか引っかかっていたことが晴れ、カイトの表情はさらなるやわらかさを宿した。

確かに、常に完璧で、まったく間違いを犯さないものなど、いない――

だとしても、その内訳が知れることは、大事だ。

ほんとうに犯すべき間違いであったのか、他に抱えるものが重なっての、あり得ない誤りではなかったか。

未だ隠されるなにかが、あるのではないか――

そういった、余計な当て推量をしないで済む。

改めて安堵を覚えつつ、カイトはもう一度、椀に口をつけ、啜る。

旨い。

何度口にしても、まるで飽きない。きっと飲み干してもすぐさまもう一杯、強請りたくなる。

そんなカイトの心中を察したかのように、笑みから苦みを消し、悪戯気を含ませたがくぽがすかさず言った。

「おかわりでしたら、いくらでもどうぞ。ついつい癖で、大鍋に仕込んでしまいましたのでね。その皿だと、私とふたりがかりで飲んだところで、十ツ日ほど持ちそうなくらい、あります」

「十日……?」

それはまたずいぶんなと呆れた顔を上げてから、カイトはぱちりとひとつ、瞬いた。

「――『癖』?」