B.Y.L.M.

ACT7-scene9

この屋敷に今いるのは、カイトとがくぽ、新婚の夫婦ふたりだけだ。

使用人のことごとくがいないわけだが、厨房を担う料理人もまた、いない。

そしてその夫婦のうち、妻たるカイトはいっさいの厨房仕事ができない。

立つも歩くも難しいという事情はあるが、それ以前の問題で、カイトは基本、食べる以外のことを知らないのだ。

たとえば騎士団の野営に付き合い、つくるさまを見ていたことはある。が、王太子だ。

赦されるのは見ているか食べるかだけで、つくる手出しはさせてもらえない。

カイトのほうでも思いつかなかったのだが、たとえ思いついたとしても、団員こぞって止めただろう。主たる身がなにをする気かと。

そういったふうに、カイトがいっさいできないのに対し、夫たるがくぽはひと通りのものがつくれるようだ。少なくとも屋敷に来た当初、カイトが未だ花として咲ききらず、ひととしての食事が必要であった時分には、がくぽがつくって供していた。

それでカイトはただ漠然と、がくぽは料理もできるのかとだけ、思っていたのだが――

そういえば難はあれ、言っても王子たる身で、がくぽはいったいどうしてこんなことを覚えたものか。覚える必要があったのか。

カイトは椀に残る、黄金色の液体を見た。それから、未だ明らかなことの少ない夫を。

「くせ。…と、は?」

最適な言葉を探しあぐね、結局そう、端的に問うたカイトに、がくぽのほうは深く考える様子もなかった。つまりは調理技術を得た過程に物思うことはなかったということだろうが、答えは軽やかに放たれた。

「私が料理を覚えたのはごく最近、あなたの騎士団に入ってからのことですのでね。入った当初、見習いのころには、洗いものや皮むきなどの、下働きを主に………騎士に叙勲されてからは、野菜の切り方、肉の始末の仕方、魚の捌き方、火加減の仕方と判断方法など、基礎の基礎から叩きこまれて――それでも最後の仕上げの味つけといったものは、先輩騎士のやりようを横目に見るだけで、まだまだ任せてはもらえなかったのですが」

「そ、れは………」

なんとも答えかねて、カイトはそっと、がくぽから視線を外した。

確かにカイトの従属騎士団において、食事とは自分たちで賄うものだった。野営地にあるから、自炊していたのではない。普段から、彼ら自身で賄っていたのだ。

言うが、王太子の従属騎士団だ。予算がないということもない。それでも専門の料理人を雇うのではなく、騎士の鍛錬の一環として、日常から当番制で回していた。

補記するなら、『鍛錬の一環である』とカイトに説明したのは当時の騎士団長だが、なんの鍛錬であるものかは、明らかとされなかった。

ので、厨房仕事が騎士のなにに役立つものかというところが今ひとつ、カイトには理解が及んでいないのだが。

とにもかくにも、まさか王子たる身に調理技術を仕込んだのが自分の騎士団だったとはという、気後れするようなところが、ひとつ。

もうひとつは、しかしそもそも身を偽って入団したのだから、いかなることであれ自業自得だという――

複雑な心中を持て余すカイトに、がくぽは笑う。愉しげに、うれしげに。

「で、仕込まれたのが騎士団でしょう人数がいるうえに、一日中、鍛錬だなんだと動き回って、皆が皆、よく食べる。ために、なんであってもとにかく大鍋でという癖が」

「な…るほ、ど………」

微妙な後ろめたさを解消できないまま頷き、カイトは両手のひらに抱えたままの椀皿を見た。

黄金色の、澄んだ液体だ。たっぷりの菜と髄とを、じっくりと数日間かけ、煮込んで――

「あ……」

ふと、カイトの記憶に閃くものがあった。

カイトに、厨房仕事も一流の騎士たるに大事な鍛錬の一環に御座いますゆえと、しらりと説明してのけた騎士団長だ。

彼の得意料理――カイトによく振る舞ってくれたのが、同じものだった。

多種類の根菜と数種の香菜、牛の髄骨と脛肉とを鍋に入れてひたすら煮込み、灰汁を取りつつ、根気よく旨みを引きだす。

今のように、中身を濾して汁のみとしたものを供することもあれば、口に入れてもいっさい噛まずに飲みこめるほど、やわらかく煮とろけた具材を山のように盛って、出すこともあった。

どう供するかは、カイトの状態次第だ。

カイトが幼くして王太子として立つと同時に傍らにつけられた彼は、肉体の護衛の要であるのとともに、こころの有りようにもこまやかに気を配ってくれた相手だった。

たとえば大きな負担が続いて、カイトの食欲が減退したときに――

あるいは、ひどく滅入ることがあって、食事がうまく咽喉を通らないようなときに――

わずかなれ、固形物が咽喉を通るようなら、ほとんど飲みこむのと変わらずに食べられる具材を、山と盛って。

水分だけであればなんとか摂れるというなら、中身を濾し、さらさらの汁のみとしたものを。

そう、つまり騎士団長がこれを供するのは、カイトが弱っているという、なによりの証だった。

――忠を誓うのみの騎士になら、隠しごともできましょう。しかしながらわたくしめは、殿下に誠をもって忠を尽くさんと誓った騎士に御座ります。忠のみならず、忠誠を誓いし騎士を相手に、もしも隠しごとができると思われるなら、殿下はまだまだ半人前、いやさ、四半人前というもの。四半人前の隠しごとなぞ、隠しておらぬも同然に御座ります。悔しければ、身には端から隠しごとなぞできぬのだと、開き直ってご覧なさい。

夜遅く、椀を携えて部屋に忍んでくる彼は、弱さを悟られるような主ではいけないと、無理に身を正そうとするカイトに、そう説いては笑った。

忍んできたくせに、その笑い声の豪放であったこと――

「……そうか。これは、彼の……」

つい、声に出してつぶやいたカイトの、断片でしかないそれを、しかしがくぽはきちんと読み取った。とりもなおさずそれこそが、カイトの推量が正しいということを示してもいる。

「ええ。団長が、たまにつくっていたものです。皮を剥くところから、ご自身でね。さすがに厨房当番など振られないはずですし、気晴らしの一環だったのか、よくわかりませんが……ただ、殿下に献上してくると言っていたことがあったので、もしかしてカイト様がお好きだったのではないかと」

「ああ」

カイトがこぼした片鱗を読み取りはしたが、真意までは知らなかったものらしい。

推測も混ぜ、窺うような口ぶりとなったがくぽに、カイトは穏やかに笑って頷いた。

確かに、嫌いではない。否、好きだった。

自分の不甲斐なさを突きつけられるものではあったが、そういうときにも見捨てず、思いやって時を割いてくれる誰かがいるのだと、支えてくれるものがいるのだと、なによりこころ強く知れた。

もちろん、そうそう頻繁に挫けるわけにはいかない。

が、まったく挫けてはいけないというものでもない――

そう思えるのは、いずれ国王となる重責に生きるカイトの肩をずいぶん軽く、楽にしてくれたものだった。

やわらかに笑うカイトに、がくぽの体からも力が抜ける。笑みが戻って、青年の口ぶりは再び軽やかとなった。

「基本、団長はこの鍋に関しては、おひとりでなさっていたんですが……なにしろ、灰汁を取りつつ煮込むに、三ツ日ほどかけるでしょうさすがにあの役職と肩書きで、ずっと厨房に篭もられるわけにもいきません。灰汁取りだけは平騎士の間で当番をつくって、面倒を見ていたんです。私は当番というか、懲罰の一環でやったんですが」

「ちょうば………………つ……?」

さらりと混ぜられた言葉のひとつが引っかかり、カイトは胡乱な目つきとなった。好青年ぶりが際立つ、爽やかな笑顔の夫を、じっとりと見る。

そういえばがくぽは、ひと言の詫びで済むものができず、ことをこじらせては懲罰を食らう常習だった。

最前にも、悪びれもせず言っていたことがある。剣の鍛錬という名目のしごきに関しては相手を喰らいきってやったと――つまり先に膝を屈することなく、しごいた側が逆に音を上げるまで、付き合いきってやったということらしいのだが。

主たるカイトがそういった懲罰を厭うていることを、見習いはともかく騎士ともなれば、よくよく理解している。年数も長く、上位ともなればなるほど、よくよくにだ。

だからがくぽが、詫びるべきところでひと言詫びることができれば、どちらかが膝を屈するまでなどというろくでもないことは行われなかったはずなのだ。

なにより、懲罰だ。懲りてくれないのでは、罰の意味がない。

がくぽは戦闘力というところでは文句なしの、将来有望な『少年』だった。

あとは仕上げ、騎士としての礼儀や作法をしつけるため、騎士団長らがなんとかと頭を絞り、あれやこれやと試していた可能性が、非常に高い。

雨降る外のような視線を向けるカイトにも、青年が悪びれることは、やはりなかった。

「先にも言いましたが、これに関しては基本的に、すべての行程を団長おひとりでこなしていました。それに私は未だ、厨房に関しては見習い扱いでね。なんであれ、仕上げには関わらせてもらえなかったんです。だから団長の仕上げを、盗み見して――あとは、三ツ日の間、灰汁取りをきちんと勤め上げたら、できたてを一杯、報奨として振る舞ってもらえたので。それで、味を覚えました」

「……………は」

役得だったとしか思っていないとわかる口ぶりと表情とに、カイトはため息とともに、静かに瞼を伏せた。

今さらではあるが、騎士団長及び先輩騎士らの苦労が慮られる。うちの夫がほんとうに済まないと、カイトはこころの内で詫びた。

もちろん、そうやって手を焼かせていた当時、がくぽはカイトの夫ではなかったし、そうなるとも思っていなかったのだが。

運命の変転とは、かくも読み難い。

そしてまた、この男を悪びれさせることも、非常に難しい。主たるカイトに関わるようなことでないと、ことにだ。

その、非常に難題である夫といえば、そこで多少、神妙な表情となった。いつもは軽やかな口が、珍しくももたつく。

「まあ、つまり、その………少量を小鍋でつくったのでは旨みが出ないと、大鍋仕込みでは、あったんですが……それでも、全体に行き渡るほどではなくて、ですねそも、団長がつくるのも、いつと決まりはなく、滅多なことでは行き会えないというか……見習いだの新人だのといった下のものにとっては、いわば、なんというか、『幻の味』だったんです。私にしても、そうそう何度もというわけではなく、僥倖という程度で………」

「ん?」

懲罰での当番を、僥倖と言うのはどうなのか。

やたらにもって回った、はっきりしない言いぶりと、その表現とに、なにかこれ以上に言いにくいことがあると感ぜられ、カイトは眉を跳ね上げてがくぽを見た。

がくぽといえば、気まずく、微妙に視線を逸らす。

「がくぽ?」

いっそきょとんとしたカイトに、青年はらしからず、ぼそぼそとつぶやいた。

「覚えたとおりに、つくったつもり、――では、あります。ただ、なにぶん、経験が…」

言いかけて、しかしがくぽは結局、残りの言葉を呑みこんだ。言い訳をするなど騎士らしからぬと、自らを律したのだろう。

謝罪の言葉はこぼせずとも、こういったことはできる男だ。であればこそ、まるで望みがないわけではないと、周囲が頭を絞る羽目に陥るのだが。

カイトはしばらく首を傾げ、気まずく目を逸らしたままの夫を眺めていた。

目は逸れているが、こころはある。盛大に、カイトの動向を気にしている。気にしているが、直視することは耐えられない――

「………」

ぱしりと瞳を瞬かせ、カイトは手に抱えたまま膝上に置いていた椀を見る。持ち上げると、こくりと飲んだ。

こくりと、こくこくこくと、飲む。こんなふうにひと息で飲み干すようなことは、作法にかなっていない。ましてや飲み干したあとに、

「かふっ……っ」

――大きく息をつくようなこと、もってのほかだ。

よくよくわかっていて、理解しきっていて、それでもカイトは中身をひと息に飲み干し、幸福を誰憚ることなく、吐きだした。

ほとんど反射だろう。音につられ、がくぽがカイトへ視線を戻す。

受け止めて、カイトは笑った。

「そうだな。少し、違う。どちらも旨いが、おまえのつくったほうが、味がやわらかで、甘い。私はこちらのほうが、好きだ」

「…っ」

常に余裕綽々、幼子扱いも頻々という青年が、カイトの笑みと言いように隠しきれず、目を見張った。

次の瞬間には、そうでなくとも眩いほどの美貌が、ぱっと輝き、華やぐ。背では巨大な翼がさらに威容と大きく開き、ばさりと羽ばたいた。あれは、勝ち鬨だ。

「くっ…っ」

やはりと、推測が当たっていたことを知り、カイトは堪えきれず、吹きだした。不調法なやり方だとはわかっていても、どうしても堪えきれない。

くつくつくつと咽喉を鳴らし、肩を震わせながら、カイトはがくぽを見た。

「困ったやつだ。私は初めにきちんと、おいしいと告げたろうわざわざ比べさせて」

「あー………」

笑いながらのやわらかな糾弾に、がくぽは目線だけ、天を仰いだ。気まずそうに、口がもごつく。

口の回って舌の軽いこと、もはや災禍の域と達した青年だが、さすがにこれは咄嗟に返し難かったらしい。

わずかにそうしてから、がくぽは未だ笑うカイトに目を戻し、軽く肩を竦めた。

「つまり、ええ、そう――昔の男には勝ちたいと、いう……ですね?」

「………」

なにを言っているのかこの男はと、カイトの目は一瞬で胡乱さを宿し、眇められた。