B.Y.L.M.

ACT7-scene13

ふっと意識が戻り、カイトは暗闇に目を見開いた。

完全に、目が覚めた。が、暗闇だ。闇の種類が、濃さが違う。きっと夜も夜の最中だ。

であろうにも関わらず、妙に冴え冴えと目が開く。

「ん……?」

いったいなにに反応してと訝り、カイトはきゅっと、くちびるを引き結んだ。ふわりと、頬が染まる。羞恥を堪え、目が眇められた。

隣に、夫が寝ている。少年の夫だ。

夜であり、日の出前なのだから当然といえば当然だが、実のところこれは、まったく当然ではなかった。

カイトはがくぽの寝顔を見ることが、ほとんど、――否、まったく、なかった。

カイトが朝の早く、がくぽが起きるより前に起きることはないし、がくぽがカイトより先に寝につくこともまた、ないからだ。

そもそもがくぽの起床は、日の出のわずか前だ。

日の出のわずか前には起き上がって寝台から離れ、あるいは寝室からすら出て、日の出とともに少年から青年へ――あの、多大な苦痛を伴う一連の時間を過ごす。

それで朝の起き抜けから疲れきるはずだが、だからといって寝台に戻って寝直すことを、がくぽはしない。そのまま身支度を整えると庭に出て花の世話をし、あるいは屋敷内の用事を片づけ、もしくは騎士としての鍛錬をこなす。

さらには、寝る際だ。

気配に敏感な騎士の性分なのか、がくぽはカイトが寝につくまで、眠りこむことがなかった。カイトが健やかな眠りに沈んだことを確かめて、ようやく寝につくようなのだ。

ここは大半、推測だ。きっとそうらしいという。

なぜならだから、カイトは常にがくぽより先に、寝つくからだ。確かめようがない。

もしもカイトが起きていようとすれば、なにか具合でも悪いのかと思いやられる。挙句、カイトが早く寝つけるようにと、がくぽは横になっていることすら止めて、あれこれ動きだしてしまう――

とにかくカイトはがくぽより早くに寝てしまうし、ことに起きなければいけない理由もない今、日の出前に、自ら目を覚ますこともない。

隣で確かに寝ている夫の姿というものを見たことが、半年も経って今さら、初めてなのだ。

それでカイトが、妻たる自らの有りように忸怩たるものを抱えていたわけではないが、まったく思うことがないかといえば、それも違う。

思うことなら、多大にあった。

なにもなければ早くに起きないはずのカイトだが、夫が寝台を出てしばらくすると、起きる。日が昇った直後あたりだ。夫が拷問にも似た苦痛の時間を経て、青年へ変じ終えたくらいだろうか。

疲労が治まって、自然と目が覚めたというのではない。夫がいなくなった、その空白に耐えかねてというのが、正しい。

夫がカイトを残して寝台を降り、寝室からすら出た。待った。――戻らなかった。

否応なくといった感で、引きずられるようにして目を覚まし、そして隣が確かに空白であることを知る――

あの瞬間にカイトが覚える感情は、ひと口には表し難い。

単純に『寂しい』というのでは不足だが、絶望とまで評すれば、さすがに言葉が過ぎる。

けれどとにかく、愕然とさせられる。

カイトが『根づいた』ことを知ってからは、がくぽもこころを残していってくれるから、まだましにはなった。それでも、夫そのものがいないという事実の前には、まったく不足だ。

起きて、傍らに、夫がいない。眠りのうちに、嫌々目を開けただけのはずなのに、カイトはすっかり覚醒しきってしまい、もう眠りに戻る気にはなれない。

それでカイトは仕方なしに起き上がって、がくぽが戻ってくるのをじりじりと待つ。

疲れきったはずなのに、庭仕事に屋敷内の用事に騎士の鍛錬までもこなしてくる、きまめが過ぎる夫を。

きまめなのも善し悪しだと、カイトは沁み入るように思う。

少年から青年へと変わるさまを見られるのが厭だとしても、せめても終わったなら一度、疲れた体を休めに戻ってきてくれればいいのにと。

あの時間であれば、たとえ目を覚ましてしまったとしても、カイトは戻った青年の腕のなかに大人しく収まり、また寝に落ちることができる。それこそ健やかに、安らかに、しあわせに――

「は………」

身勝手な話だと自嘲の笑いに歪みつつ、カイトはわずかに半身を起こし、夫の寝顔を覗きこんだ。

日の出前で闇が濃いとはいえ、目が馴れている。壁一面の、透明硝子を嵌めた大きな窓には鎧戸を落としておらず、雨雲に覆われて星月がないとはいえ、透かし見る程度の明るさはあるものだ。

苦々しい自嘲の笑みは自然と消え、カイトは表情を緩めた。

背に余計な瘤があるせいか、もとからの癖か、がくぽはうつぶせに横たわっている。顔だけカイトの側に向けているのが、なんともいじらしく、愛らしい。

いとけない、幼い顔だ。翳りもなく、ただ眠りのなかだけにある。

夢は安らかなのだろうか。そうだといい――カイトの傍らにあっての眠りが、騎士として気を張ったものではなく、夫としてくつろいだものであってくれるなら、望めることはほかにない。

「……んー…」

カイトの腰から下は、相変わらず重い。

考えることもなく動いていたときには、なんの気もなくしていた姿勢でも、こうなると負担があるものだ。たとえば今の、上半身だけ起こしておく姿勢でも、意外に下半身もこまごまと動いていたのだなと、新たに発見するというような。

下半身が協力してくれないまま、上半身だけ起こしておくことにすぐ疲れたカイトは、ぽふんと、落ちるように枕へ頭を戻した。

けれど目は、がくぽから離さない。枕に埋もれるぶん、多少、見にくくはなったが、それは距離を詰めればいいだけの話だ。同じ寝台にあるから、ほんのわずかに頭をにじらせれば、十分に。

距離を詰めれば、闇に融けていた長い睫毛も見える。

呆れる話で、こうして闇に透かし見る寝顔ですら、カイトの夫はうつくしい。いとけないのは確かだが、少女めいた美貌が健在だ。

この、少女めいた美貌で、しっかり夫だ。なにがといって、閨の話だが。

――カイトさま。

「…っ」

思い出してずくりと腹が疼き、カイトは息を呑んだ。くっと奥歯を食いしばり、疼く腹に力を入れる。

悦楽に染まり、かん高く、甘く熱を含んだ声が、カイトを呼んだ。懸命に、縋るように、必死に――

『戻った』のは、親を求めるに似た、憐れな幼い声に呼ばれたがゆえだったろう。

そんなことを言えば夜の少年のみならず、昼の青年までもが、不満に頬を膨らませそうだが。

カイトとしては思い返すだに羞恥の極みであり、穴を掘って埋まるか、さもなければ頭から布団を被って篭もりたいような話だ。

が、思い返せば、諸々極まった挙句、カイトは情けなくもあっさりと理性を瓦解させ、正気を失った。そして結局、昼の青年を『だんなさま』と呼びさえずりながら、日中を過ごした。

途中、場所を長椅子から寝台に変えたが、あまり意味のあることでもない。していたことは同じだ。

青年は丁寧に、大事に、カイトを壊し続けた。

日の入りあたりで、きっと一度、離れたはずだが――おそらく、意識を飛ばされでもしただろうか。記憶は曖昧で、あやふやであり、経過の詳細を覚えていない。

カイトがふと気がついたときには、夫は少年だったと、そういう。

少年に変わった夜の夫を前にしても、カイトがすぐさま正気を戻すことはなかった。相変わらず『だんなさま』と啼きさえずりながら、飽きもせず求めた。

カイトの求めを無碍にもできなければ、拒むことも、なかなかできない夫だ。傾向は夜の少年に顕著であり、たとえ正気を失ったうえでの沙汰だとしても、諾々と容れてしまう。

ましてやこうまで『こわした』のは、ほかならぬ『自分』だ。

それでがくぽはカイトに求められるまま、手を取ってくれた。

――カイトさま。

懸命に、必死に、呼び縋った声を、覚えている。快楽に染まり、甘く熱を含んでかん高くなりながら、まるで泣いて親を探す幼子のような。

それにカイトも正気を呼ばれて、――最後の記憶といえば、そうだ。

――がくぽ。

小鳥がさえずるにも似た『だんなさま』という呼び方を止め、カイトはきちんと、がくぽの名を呼んで返した。甘く熱を含む声ではあっても、カイトが呼ぶ夫の名には、確かな正気があった。

呼ばれて、――がくぽは、笑った。泣いているような笑顔だった。安堵と、疲労と、苦痛と、すべてがないまぜとなった。

「は…」

思い返すだに、胸が痛む。カイトは知らず、小さくため息をこぼしていた。

ほんとうは抱きしめてでもやりたいが、そんなことをすればきっと、がくぽを起こしてしまう。そのうえに、どう考えても幼子扱いだ。『子供』扱いですらない、『幼子』だ。

夜中に大した理由でもなく起こされた挙句の幼子扱いでは、どう考えてもカイトの真意など伝わらない。面倒なことにしかならないと、考えるまでもなくわかる。

「世話を、かけた」

だからカイトは、つぶやくだけだ。吐息のような声で。

さすがにこの程度であれば、たとえ気配に敏い騎士であっても、眠りを覚ますことはないだろう。

――そう、信じる。

そもそもカイトには、どうして『あれ』で自分の理性が飛び、ああまで正気が損なわれたものだかが、まずわからなかった。

いくらどうでも、そこまでのことではなかったのではと、今になって思い返して、カイトは首を捻る。

確かに『今』、思い返したところで、恥ずかしいことに変わりはない。羞恥の極みの求めだ。よくも思いつけたものだと、昼の夫の悪知恵ぶりに、涙目にすらなる。

だが、理性が瓦解し、正気を飛ばすほどのものであったかといえば、さすがにそうまでとは――

自らが『妻』として扱われることに、まるでいっさいの抵抗がなくなったかといえば、否だ。カイトにはどうしても、気後れが付きまとう。気後れと、あえかな抵抗感とが。

カイトの生まれ育った哥の国含む西方において、同性間でのそういったことが一般ではなかったというのが、理由のひとつとしてあるだろう。

これでカイトが『夫』という立場であればまた、違ったかもしれない。が、『妻』であるとなると、思うことが増える。気がする。

これだけ夜昼となく、飽きず夫と体を重ねておきながら、なにを今さらと、カイトこそがまず思う。それでも悩み、ためらいがあるなどとぬかすとは、いい気なものだと。

昼の青年がそういったカイトの姿勢を詰りたくなるのも仕方がないことだと思うし、よくぞこれまで耐えてくれたと、感謝すらある。

同じほど、自分に対して忸怩たるものを抱えもするし、未だ踏んぎりのつけられないことには、なおのこと、情けなさが募る。

募るが、なにをきっかけとしてこの壁を崩せばいいか、こともここまでくると、手がかりが難しい。

そう、手がかりだ。『きっかけ』と言い換えてもいい。

「………『だんなさま』、か…」

つぶやき、カイトは目を眇めた。

気恥ずかしさが、ある。今も、呼びかけではない、独り言としてつぶやいただけだというのに、かっと頬が熱くなった。じんわりと、全身に汗が滲む。

その熱を持った体を、冷えた風がさらりと撫でていって思考も冷まされ、カイトは小さく息をついた。

まったくもって、きまめな夫だ。きまめで、よく気が利く。

夏季の間、カイトは昼こそ暑さにうなだれたが、夜に眠れない不自由まで抱えたことはなかった。

日が沈んで夜となったところで、あまり大きく気温も下がらず、本来なら寝苦しいはずだが、これだ。

がくぽは夜の寝るときには必ず、涼やかな風を起こし、寝台を取り巻かせて温度を下げてくれた。あるいは体が一定以上の熱を持つと風がくるんで、吹き冷ましていってくれるように。

おかげで睡眠不足まで抱えて昼の暑さに耐えるという、難業を架されたことはない。

ありがたい話だが、それでふとした瞬間、カイトは足元が崩れるほどの衝撃を受けるのだ。

世話になりっぱなしの夫へ、自らが報いられることが、あまりにも少ないと気がついて。

だから、きっかけが欲しい。きっかけ、もしくは手がかりが。なんのきっかけであり、手がかりかといえば――

「ぅ、……ん」

ためらいがちに、カイトは思考を巡らせた。

妻と扱われることに気後れや抵抗があるにしても、どうしても拒みきらなければというほどの気概でもない。そこはかとなしに、なんとなくという程度だ。

そんな程度であるから、あとひと押しがあればいいのではと、カイトはこれまでの経験から考える。

その、あとひと押しだ。手がかりであり、きっかけだ。

妻としての振る舞いはわからないままだし、手本もない。

しかしとにかくがむしゃらに行動してみたなら、結果があとからついてくるということは、ままある。

同じように、まず言葉にしてみて、こころがあとからついてくるということもだ。これも、ある。

ならば振る舞いは置いて、まずは言葉だけ、変えてみたならどうだろう。

すべてを変えるわけではない。女言葉など話しつけないし、最終的な望みがそこにはないカイトがそれをやってしまうと、きっと笑うことすらもできないような、ろくでもない事態に陥る。

だから、言葉すべてではなく、ただ、呼称を、夫への呼び掛けのみを、そう。

「……ぅ」

――『だから』、ほんとうに自分が情けないと、カイトは歯を食いしばった。

面と向かってがくぽに対し――主に、昼の青年を想定してだが――、『だんなさま』などと、自分がしとやかに呼びかけるさまを想像しただけで、腹が踊った。胸がざわつき、思考が沸騰する。

初めて呼んだ日にはきっと、例のあの、爆発的な大笑を浴びせられるに違いないと思えば、なおのことだ。

これはもう、青年の日頃の行いが悪い。悪すぎる。結局、自業自得ではないか。

こころの内でそう、きれいに責任をなすりつけて落ち着け、カイトは小さく息をついた。

まあ、確かに、ものの難易度というものがある。それでも、変わりたいと思うのだ。変えたいと。

その、変わるきっかけとして、少しばかり難易度が高いものを自らに課すということは、よくある手段だ。常套というものであって、それ自体は珍奇な試みというわけではない。

ただしその肝心の、難易度を高めた試みの中身が珍奇だということは、ままある。あることにする。

たとえば、夫に対して『だんなさま』と呼びかける。それだけだ。たかが、それだけのことだ。それだけ――

「く……、っ、ぅ、う………っ」

首だけがくぽの反対側を向き、さらには端を持ち上げた枕に顔を埋め、カイトは呻いた。ほんとうは寝台を平手で打ち叩きつつ、羞恥に悶え転がりたい。

もちろん下半身が自由にならない今、カイトにそんなことはできないが、もしもできたとしてだ。

そんなことをすれば、必ず夫が起きる。今のこれでも、限界だ。起きないでくれるのは、たまさか眠りが深いからか、とにかく僥倖に過ぎない。

息もできないほどきつく、枕に顔を埋め、カイトはしばらく、じっとしていた。ひやりとした風が全身をくるみ、心地よく汗を散らし、熱を吹き冷ましてくれる。

ほんとうに、ありがたいことだ。こうして外から冷ましてもらえなければ、汗みずくになっても思考が冷めず、どころか焦りは募る一方でと、カイトは実に往生したことだろう。

それで、不穏な気配を察知した夫がとうとう起きてしまい、いったいどうしたのかと、カイトに訊くのだ――

考えただけで、ぞっとする。

訊かれたところで、気兼ねなく答えられる考えではない。なにより、カイトよりよほどに動き回って、よほどに疲れ、にも関わらず、よほどに短い夫の睡眠時間をさらに削るのかと思えば、さすがに罪悪感が過ぎる。しばらく浮き上がれる気がしない。

そしてカイトが浮き上がれず、沈んでいると、夜にしても昼にしても夫は気が気でなくという、すばらしいまでの悪循環に次ぐ、悪循環に次ぐ、悪循環――

ほんとうに、心底からぞっとする。

「まあ、あれだ。難易度だ。下げよう」

カイトは枕に埋めてもそりとつぶやくと、意を決して顔を上げた。

心底からぞっとしたおかげで、思ったより早く立ち直れた。決意して上げた顔の、瞼は意気地なく震え、つぶやいた声もおそろしく平板だったが。

しかし立ち直ったことは、立ち直ったのだ。

カイトは再び、夫へ顔を向けた。

寝ている。だろうか。そうだと思う。

耳を澄まして、聞こえるのは変わらぬ寝息だ。静かで、沈み、ともすれば聞こえないほどの。

そして、相変わらずの幼い顔だ。安らかで、健やかな――

安らかであってくれと願い、健やかであれと祈りたくなる。いとけなく、愛らしく、なによりも――

小さく息をつくと、カイトは頭をにじらせ、夫へ寄った。

わたし、の、だんなさま。――おやすみ」

吐息も同じ声でつぶやくと、こめかみにくちびるを掠らせる。

すぐに自らの枕へ頭を戻すと、カイトはみっともないまでにへらりと、笑み崩れた。

しかしそれは先の、昼の青年に強いられ、理性が、正気が瓦解したときのものとは、違う。

やりおおせたという、いわば得意満面のそれだ。

たかが呼び方ひとつ、しかも寝ている相手にこっそりやって、しおおせたもなにもない。

それでもカイトには、一歩を踏みだしたという興奮がある。一歩とも呼べないほどであろうが、進んだことは進んだのだ。

しばらくはこうして、夫の聞いていないところで、もしくは聞こえないように、こっそりと。

それで馴れて、こころがつられたなら。

いずれ、こころがつられるころには、きっと――

期待と希望を胸に、カイトは緩んだこころの招くまま、眠りに戻った。

なにしろ今夜、今、ここには、夫がいる。夫がいて、カイトとともに寝てくれているのだ。

これ以上の安眠剤を、知らない。

これ以上に望めることも、望みたいことも、ない。

――数瞬後。

カイトが寝入ったことを十二分に確認したうえで、幼い夫の目がそっと、開かれた。

そんなことは、安心しきって眠りこんだカイトの知るものではない。