B.Y.L.M.

ACT8-scene1

ふと、カイトは顔を上げた。呼ばれたように雨降る窓の外へ目をやって、小さく首を傾げる。

「カイト様?」

気配を察し、どうしたのかとすぐさま声をかけてくれた昼の夫へ、カイトは曖昧に揺れる瞳を向けた。不可解さを拭えないままの表情で、おずおずとくちびるを開く。

「雨が、止む。――あした」

きっぱりと言いきりながら、カイトの表情は戸惑って晴れない。いったいどうしてそんなことを言いだしたものか、自分で理解が及んでいないのだ。

受けたがくぽといえば、長椅子に仰向けで寝そべるという自堕落な姿勢まま、ぱちりとひとつ、瞬きを返した。

否、そう、今日のがくぽは珍しくも、カイトの前で規律正しい騎士であることを止め、自堕落だった。

それも、ただの自堕落ではない。気合いの入った自堕落ぶりだ。

――いったい『自堕落』という言葉と、『気合いが入った』という言葉の組み合わせというのはどうかとカイトも思うのだが、そうとしか表せない。

普段、昼の青年の背には闇すら明るい射干黒の巨大な翼があって、仰向けという姿勢と、あまり相性が良くない。寝転ぶときのみならず、ただ椅子に腰かけるだけでも、翼と背もたれとが頻繁に争うくらいだ。

その、昼の青年がだ。

いつもはカイトひとりを置く長椅子に、体を伸ばしてごろりと、寝そべっていた。それも、うつぶせではない。仰向けでだ。

翼はどうしたのかといえば、『折り畳んだ』。つまり、例の、原理も不明なまでに小さく折り畳み、背に完全にしまってしまう、あれだ。

いつもなら、『字義通り、骨が折れるのですよ。まあ、失敗するとですがね』などとぼやいて、滅多なことではやりたがらないものを――

どうしてもやるとしたら、やらない場合の労と比べてみて、天秤が非常に大きく傾くときという。

それを、ただ自堕落に長椅子に寝そべり、日中を過ごしたいからという理由だけで、やった。

当然だが、自堕落に過ごすこと――『仰向けで寝転ぶ』ことと翼を畳むことの天秤は、翼を畳む労のほうこそがあからさまに大きく、重い。

そもそもただ自堕落に過ごしたいなら、うつぶせでもまったく構わないはずなのだ。

それでも、やった。

これはもう、今日は自堕落であるために気合いが入っているとか、本腰を入れて自堕落に過ごすつもりであるとか、とにかく『自堕落』という言葉とそぐわないはずの言葉ばかりが、添えものとしてカイトの脳裏に浮かぶのも、致し方ない。

とはいえカイトに、そういう夫を咎めだてる気持ちがあってのことではない。むしろ、歓迎だ。大歓迎だ。

なにしろとにかくがくぽとは、きまめな夫なのだ。休んでいるさまを、滅多に見ない。

普段のがくぽといえば、庭の世話をして屋敷内の用事を片づけ、騎士としての鍛錬もやったうえで、カイトの世話もなにくれとなく見るという。

朝、起きてから、夜、眠るまで、ほとんど休みらしい休みがない。わずかにカイトに付き合って茶を啜ることはあれ、ふと気がつくとあれがそれがで、立って動き回っている。

でなければ、カイトを組み敷いているか――

これはもちろん、『休んだ』うちに数えない。がくぽがなにをどう言おうと、カイトはこれを『休憩』とは、断じて認めない。

そしてそういった日常を、がくぽはカイトを娶ってから毎日まいにちまいにち、休みなく続けていた。

確かに鍛えられた騎士であり、動いているほうがよほどに楽だということはあろうが、だとしてもだ。少しは休んでくれないと、さすがにカイトのほうが、気が気でなくなってくる。

それにどうにも、雨が降りだしてからというもの、がくぽの顔色は今ひとつ、冴えないような気がする。ことに、昼の青年の――

『昼の』だ。

夜の少年と違い、青年のことは、明るい日の光の下で見るものだった。

だから今の、分厚い雲の垂れこめる、薄暗い環境で見ることに馴れていないだけかもしれないとは、カイトも思う。翳ってもいないものでも翳って見せるのが、今の天候だ。

そうは思うが、動き回ることが好きな手合いに、たまに見られる傾向のこともある。雨などに降りこめられて動きを制限されるや、こころ模様まで引かれ、しおれてしまうという。

そういったことなどもあったから、がくぽが今日は気合いを入れて自堕落に過ごす、もとい休むというなら、カイトはむしろ、歓迎するのだ。

いつもはあれこれと甘え、使いだてしてしまうが、今日はカイトも大人しく、控えて――

そのこころに偽りはないが、カイトにはどうしてもひとつ、納得いかないことがあった。

つまり、どうしてこの格好でさらに、カイトを抱えこむことに固執するのかという。

いつもはカイトひとりを置く長椅子に、翼を畳んだ体をながながと伸ばし、寝転んで座面を埋めたがくぽは、そのうえで選択肢をふたつ、カイトに突きつけた。

曰く、上に横たわるか、膝の上に座るか、だ。

「………私には、この部屋にはもうひとつ、空いている椅子があるように見受けられるのだが」

すでに抵抗の余地もなく膝に抱え上げられていたカイトは、ひたひたとした口調でがくぽに訊いた。否、口で言うのみならず、その空いている椅子を指差しまでしてやった。

いつもならがくぽが座る、背もたれのないそれだ。

がくぽが今日は、自堕落に過ごすために長椅子を使うと言うなら、カイトはその、背もたれのないほうの椅子に座るので、まったく構わなかった。背もたれなら、別になくとも、カイトは気にしないからだ。

カイトは幼いころから、なんであれ、背もたれに頼って座ることは控えるようにと、しつけられてきた。

臣から見て繊弱に映り、不審と不信の呼び水ともなりかねないし、尊大であったり、傲岸に映ることもあり、いいことなどなにもないのだからと。

どのみち書を読みこんでいれば――これもこれでよろしくない癖ではあるが――、前傾姿勢となる。

なんにしても、背もたれなど二重、三重に不要だ。

冷然と指摘してやったカイトを、逃げられないとわかっていてもしっかり腰を掴んで抱えこんだ昼の夫は、曖昧な笑みで見返した。

「まあ、確かにですね、私の体はどこもかしこも筋張って硬いですから、快適な座り心地、寝心地とは言えないでしょうが……膝に座るのがお厭なら、腹の上でもいいですよ些少な差でしかありませんが、ほかの部位よりか、多少は、やわいかと。それに、そう座るのだと、いずれにせよ尻が痛くなるかもしれませんが、寝そべる分には、決して長椅子にも引けを取らない心地であると」

「なんの話をしている?!」

噛み合わない――正確に言うなら、我を通すため、がくぽが意図して噛み合わせないでいる会話を交わすこと、しばらく。

結局、今日は夫を休ませてやろうと決意していたカイトが折れるしかなかった。議論の時間を費やせば、それだけ休む時間が削られるからだ。

たわごとをほざいてはいたが、カイトがどこに座ったところでいずれすぐ、『痛く』なるのはがくぽのほうだ。

なにしろ花とはいえ、カイトの体は成人した男のものなのだ。鍛錬を怠らない騎士より、もろもろ全体に劣るとはいえ、そうそう少女のような華奢さや小柄さを取り柄とするものではない。

短時間の移動程度なら苦もなくやれるから、なにか誤解されている節があるが、じっと座っている分には、そこそこの重みがかかるはずだ。それに言うなら、カイトの尻だとてがくぽに負けじと『筋張って硬い』のだし。

――というわけで、カイトはがくぽの膝と膝の間に嵌まるように腰を落として座ることで、双方、手打ちとした。

「私の妻は、実に奥ゆかしくていらっしゃる……………」

しつこくぼやいていたがくぽだが、とにかくカイトは手の内――膝の内にはいるのだ。渋々と受け入れた。

渋々と受け入れたが、実際、この姿勢だとがくぽの足は片方、外側のそれが不安定で、長椅子から落ちる。

カイトはその足を自らの膝に預かってやる気でいたのだが、もちろんこの騎士がそう諾々と、主の重しとなることを容れるわけもない。

がくぽは騎士ではなく夫で、カイトも主ではなく妻だが、この場合は、どちらであっても結果は同じだ。妻の膝に頭を預ける夫は愛しまれても、足を乗せる夫は、傍若無人か傲岸不遜で厭われる。

それでがくぽは、落ちるほうの片膝を折り曲げ、カイトの膝からは浮かせた。

くり返そう――『膝からは』だ。それを寝そべって遠い腕の代わりとばかり、巻きつけるようにカイトの腰に回し、がっしりと押さえつけた。背には膝があり、腹にも膝がある。そして脇腹には太腿であり、食いこむ踵だ。

そもそもカイトは足が動かないのだから逃げようもないというのに、この包囲であり、拘束だ。

座り心地をどう喩えればいいものかが、カイトにはちょっと、わからない。

頭痛を堪えるようなカイトに、がくぽはしらりとして告げた。

「膝に書を置いていただいて、構いませんよ。書見台とでも思って、便利に使ってください」

それで――それで、あと、この夫がどうしていたかだ。

大人しく昼寝でもしていてくれればまだ、かわいげもあるものを、自分も書を読みだした。カイトとは別だ。しかしカイトが絡むものではある。

カイトが求める知識は、広範だった。最終的には『花』を調べたいわけだが、その礎となる部分、背景事情をまず把握したいと、歴史や地質学などから手を出した。さらには政治、経済、天文、数学と――

カイトは哥の国、西方でひと通りを修め、基礎知識があるという自信のもとに、そうやって気軽にあれこれと手を伸ばす。が、ものは南方だ。異邦であり、独自の考え方や発展があって、文字が読めても解釈しきれないということが、相応に起こる。

それをがくぽに確かめ、がくぽが説けるなら説いてもらい、あるいは解説する別の書があるなら取り寄せてもらいとしていたのだが――

そこで改めて、カイトにもわかったことがあった。がくぽが『なにも知らない』ということだ。

嫁いだ初めのころ、カイトはがくぽの、植生や薬学といったものの知識が豊富であることに、驚いた。

容貌優れ、体格にも恵まれ、騎士としての腕も申し分なく、指先の器用さに加え、挙句の知識量だ。もしかしてこの男は万能を極める気なのかと、危惧もしたものだ。

が、言ってみれば『それだけ』だった。

植生や、薬学――がくぽがここまでに修めていたのは、自分と関わりが深いもの、あるいは興味が向いた、わずかなものだけだったのだ。

がくぽは南王の子、いわば王子だ。十二人いるうちの、末の十二番目とはいえ、王子に違いない。ましてや今は、生き残った唯一だ。

けれど『花』が絡まなければ、自分が生まれ育った地である南方の歴史を、まともに唱えることもできない。地理はなんとか覚えていたが、それは花の分布図と絡めてだ。氏族分布や、歴史的、政治的な観点から話を始めると大体において理解が及ばず、きょとんとする。

政治、経済、数学、修辞学といった、いわば『王子らしい』素養となると、ほとんどお手上げだった。

カイトが訊いても、なにを訊かれているかがまず、理解できない。説けないのはもちろんだが、どういった書物を求めていいかも、すぐにはわからない――

初めの二、三日はともかく、以降、カイトの知識が深まれば深まるだけ、がくぽは問いに答えられなくなっていった。だけでなく、探せばいい書架の目安すら、つかない。

結果、あくまでも西方の考え方とはなるがと前置きしたうえで、とりあえずの基礎教養をカイトからがくぽに説く時間も、ここ数日は多かった。

こうなるとカイトが気にせずにおれなかったのは、所領の扱いをどうしているのかということだ。

がくぽはこの家屋敷を、父親から譲り受けたと言っていた。その父親はといえば、もとは家なしのイクサ場暮らしであり、南王から子の親として身を整えよと、家屋敷及び、所領を預かったという。

その、所領の扱いだ。父親がいなくなった今、継いだ息子もこうで、いったいどうしているのか。

――どうと、いうか……確か、あれのほうで、家宰に預けたか、渡した、か………ひとりになって、けれどそちらには戻りたくないと言ったら、ここにいてもいいが、どうせ面倒は見られまいとか、そう……

昼の青年はひどく曖昧ぼんやりと答え、それから軽く、肩を竦めた。

――どのみち父だとて、同様に家宰に丸投げでしたし………不自由はありませんよ私が生きている間、最低限の取り計らいだけはされますから。ほら、そこそこの状態は保って生かしておかないと、いざ喰いきる段になって、喰いでがなくて困るのは、あれでしょう?

これだ――すべての問題の根幹であり、起因であり、難所中の難所であるところ。

まるで疑問もないまま、さばさばと言いきるがくぽに、カイトは激しい頭痛を覚えたものだった。

がくぽには、いずれ王位を継ぐものとして、目を掛けられた形跡がいっさい、ない。

教育の放棄は、十二人もいるうちの、末の十二番目の子だからではない。

上の十一人がすべてそうであったように、がくぽもまた、いずれ南王に喰いきられるだけのものとして、扱われてきたのだ。

結果が、今だ。

南王は未だ生きており、あと十数度は首を掻き飛ばすか、心の臓を貫くかする必要があるらしいが、そうしたなら、がくぽが王だ。

けれど、なにもない。

この王子は見捨てられてきて、そして今でもまだ見捨てられたままでいるものと思って、これから先もきっと、見捨てられたままでいられると――

がくぽが南王の首を掻き飛ばしたのは、まだ、ただの一度だけだ。

通常、首というものは一度だけ掻き飛ばせば十分なのだが、相手が人智を超えたとして『魔』の冠を与えられるようなものだった。ためにあと十数度、やり合わねばならない。

一度は掻き飛ばしたのだし、その優秀であることにカイトも太鼓判を押すが、がくぽと南王と、力の差が歴然としていることも確かだ。

次、必ず勝てるという目論見はない。旗色は悪い。

だから今、次の王位を見据えるのは気が早いといえば、早い。

それでもと、カイトは思う。

ただびとの国を治めるのすら、カイトは幼少期からずっと修養を積み、それでも不足を痛感していた。時間が足らないと、喘ぎもがいていた。

人智を超えたとして『魔』の冠を与えられるようなものでなければ、王として立てないような地を治めるのであれば、備えるに早いなどということは、まるでない。

南王に勝ちきることが、生きる目的の最終ではない。

南王に勝ちきったあと、どう生きるのか――