B.Y.L.M.

ACT8-scene12

南王は珍しくも見ていられないとばかり、上げた片手で両の目を覆った。覆ったまま、天を仰ぐ。

「戦慄すべき嗜虐性……やはり極めて、変態………」

慨嘆する、声が震えている。

まさか人智を超えたとして、『魔』の冠まで与えられたほどの南王に、そうまでされる謂われなどない。

カイトは一瞬だけ、尖った瞳を南王に向けた。しかしすぐ、目の前に跪く夫へ戻す。

花色を見張って固まるがくぽはどうやら、うまく息ができてもいないらしい。心の臓はなんとか脈打っているようだが、肺腑は動いていないような気がする。

このままだと息が詰まって倒れるかもしれないが、そのほうがきっと、絶対的にしあわせだ。

憐れな夫のことを深く思いやりながら、カイトは差しだした剣を引かない。浮かべる笑みを、決して変えない。

まるで張りついたように――張りつかせて、変えない。

「か………かぃ、………っ」

ひっ、ひっ、と、なんとかか細く息を通し、がくぽが懸命に声を絞りだした。嘆願をこめ、縋り見る。

「な、ぜ」

――問いは当然だ。聞かないまま剣を受け取ることは、決してない。

がくぽはカイトに裏切りを抱いて、剣を返すと言ったわけではない。むしろ逆だ。

カイトを想えば想うほど使えず、やむなく返納を願い出たのだ。

カイトもまた、すべて理解していた。

理解していて、くだらない矜持だとも思って、けれど容れられない。

決して、容れられないことというのが、主であり、花であるがゆえに、ある。

カイトは全身全霊をかけて精いっぱいの愛らしさを保ち、小首を傾げた姿勢でにこにこと笑いながら、くちびるを開いた。

「だっておまえ、がくぽ………こちらで、使っていた剣うんそれ、――つまり南王より、下賜されたものだろうが。違うか」

「…っ!!」

カイトはこれでも懸命に抑え、でき得る限り愛らしいままでいたいとは願ったが、やはり最後あたりで思いきり、声が低くなった。差しだす剣を持つ手にも、力が入る。

笑みも歪み、隠しきれない腹立ちが露わとなった。

対するがくぽは今度こそ、完全に、息を止めた。

いっそ気絶してくれと、駄々をやり通しながらもカイトは密かに願い、祈る。

衝撃で、心の臓が止まるのは困る。しかしむしろ、意識は失ってほしい。

起きたときに、カイトは南王に根を掻き取られてここにいないかもしれないが、この剣で戦わなければいけないということからは、逃げられる。

おそらく今回、南王の主眼はカイトの根を掻き取ることにあって、がくぽを殺して喰いきるところにはない気がするのだ。実のところそちらにはあまり、乗り気ではないと。

カイトの根を掻き取るのを妨げるから、がくぽにも剣を向ける。

邪魔をしないなら、がくぽに手出しをする気はない――

根拠は薄いから、これも賭けだ。

そもそも南王に関して、根拠や確信があって言いきれることも、一か八かで賭けずに済むことも、滅多にないが。

加えて言うなら、がくぽの反応によって、カイトの推測が確信に変わった。

がくぽが南方で以前に使っていた剣とは、南王から与えられたものなのだ。

適当な、練習用の安いぼろ剣ではなく、南王との戦いでも持ちだそうと思えるような、頼れるとわかっている、しっかりとした名工の手になるもの。

たとえ末の、最弱の子とはいえ、南王の子として恥じないでおられるような、銘品――

がくぽがこころおきなく、全力でもって戦えて、勝利を得られることこそが、もっとも大事だ。

戦い終えても、いのち永らえていることが、なにより優先すべきことだ。

理屈はわかる。

理屈はそうだが、感情が納得しない。まるでまったく、感情が受けつけない。

花の悪いところが、これでもかと出た。

もしもカイトがひとのままであったなら、腹を多少もやつかせたとしても堪えて呑みこみ、理屈をこそ通しただろうに――

しかしもしもカイトがひとのままであったなら、そもそも剣を返納しなければいけないような事態にも陥りはしなかったのだが。

これでかまをかけた結果、がくぽが以前に使っていたという剣が、南王から下賜されたものではなかったなら、カイトも今、差しだす剣を引いた。いかなるものであれ、その剣で戦うことを赦しただろう。

しかし代替の剣は推測した通り、南王が下賜したものだった。

南王だ。『王』だ。王が下賜した剣だ。

カイトではない、カイト以外の!

――おまえは私の騎士であるというのに、よその王より与えられた剣で戦うつもりか!!

言うなら、こうだ。つまり、そうだ。

所有欲であり、独占欲であり、嫉妬だった。

がくぽはすでにカイトに仕える騎士ではなく夫で、カイトももはやがくぽを従える主ではなく妻なのだが、あながち、間違ってもいない。

なにしろカイトが与える剣は、妻として夫の勝利を願い、無事を祈って、こころと力を尽くしてやったものだからだ。

だというのに夫はこの大事な一番で、最愛の妻がこころと力を尽くした剣は振るえず、よその王がこころなしに与えた剣を選ぶという。

しかも件の『よその王』は、今まさに対する敵だ。これから首を掻き取ろうとする相手だ。

なおのこと、譲れない。

――カイトも実際、こんなことはくだらないこだわりであると、わかっていた。

こだわるべきではない、悪しき矜持であると。

先に希った際、鋼のきょうだいに懇々と諭されたのもここら辺のことだった。

さすがは誇りとともに長子を自認するきょうだいである。単に気難しい頑固者というわけではない。道を間違える下のきょうだいに、反論もできない正論を説きに説いてくれた。

ただし反論もできない正論をくどくどしく説いたとしても結局、道を間違えた願いを聞き届けてくれるのが、鋼のきょうだいなのだが。

そして反論もできない正論を説かれると、さらに意固地となるのが、ひとというもの――

カイトはもはやひとではなく花だが、ひととしての感性を残している。ついでにこの傾向は、花でもあまり変わらない。

そういうわけで、カイトはひたすらにこにこと、張りついて固化しきったにこにこ笑顔で、がくぽへ剣を差しだしていた。

受け取るまでは、引かない。もうどうあっても、決して引かない。これでたとえばがくぽが、見えない、聞こえないふりをして、代替の剣を取りにでも行こうものなら、――

「………ゎ、かり、まし………っ」

崩れていく体を支えきれないまま地面に手を突き、がくぽは息も絶え絶えの様子で承諾を告げた。完全に、土下座だ。誇りある騎士たるもの、主相手であったとしても、そう簡単に土下座などするものではない。

しかし土下座だったし、そうならざるを得ない心理は痛いほど理解できるので、カイトは指摘しないでやった。

「わかれば、いい」

ただ鷹揚に、告げる。

崩れたままのがくぽが壮絶に恨みがましい目を向けてきたが、カイトは耐えた。

致し方ない。それだけのことを、やった。それ以上のことを、やった。

夫は、夫こそはやはり、鷹揚で、やさしい。

この夫に、なんとか報いてやりたいものだと、カイトは願った。

わりと取り返しもつかないほど酷いことをやらかしてしまったが、だからこそそのぶん、少しでも埋め合わせをしてやりたい。

花たる身のカイトにしてやれることなどほとんどないが、もしもできることがあるなら、すべてやってやりたい。

身を尽くし、力を尽くし、こころを尽くしきって、夫を慰め、癒してやりたい。

決意し、方策を探り、カイトはふと、思い出した。

そうだった。それで夫が、どれほど慰められるものか、知らないが――今となってはむしろ、忌々しい思いとなるかもしれないが。

ひとつ、あった。

そもそも今日、必ずやってやろうと思って、固くかたく誓っていたことだった。

南王の訪問で、四阿もろともに潰されてしまって、未だ果たせないでいる。

諸々重なり、きっと必ずという決意ばかりが怯むことなく強くなっていくのに対し、いつになったら果たせるのかがわからなくなっていくという、ろくでもない悪循環。

「がくぽ。それでな?」

いい機会だからと、カイトは口を開いた。言いながら、刃先の扱いに気をつけつつ、膝に剣を下ろす。未だ地面から起き上がる気力もないらしいがくぽに剣を差しだして待つのは、さすがに腕が疲れるのだ。

「私はおまえに、伝えなければいけないことがあったのだが――」

「えええっ?!」

驚声とともに、がくぽはがばりと体を起こした。声だけではない。表情も、ほんとうに驚いている。そして翼といえば、戦慄していた。

――先からずっと戦慄しっぱなしではあったのだが、剣の件がひと段落するとともに、一応、疲れきって『寝て』いたのだ。

それがまた、羽を起こした。一瞬で、ぶわりと毛羽立つ。

先に、南王のもとから引き戻した直後だ。カイトはがくぽに、『話がある』と告げた。伝えなければいけないことがあるのだがと。

がくぽは件の『話』というのを、きっとその後の、自分を正気に戻すための、迷いを振りきるための一連と思っていただろう。ならばもう、『話』は終わっているはずだと。

しかしもちろん、違う。まるで違う。掠りもしていない。

カイトは伝えたいことの片鱗も伝えられていないし、あの一連はまったく関係のない、別の話題だった。

未だ座っているとしても、腰を浮かせるがくぽのほうが、目線がそこそこ上にくる。

カイトは図らずも上目遣いとなって夫を見つめつつ、淡々と告げた。

「しかしどうもおまえはやはり、忙しいな忙しいだろう。私の話をきちんと聞く暇はなさそうだ。だから終わるまで待ってやる。終わったなら、伝えよう。ので、とっとと片づけてこい」

「えええええ………っ!!」

非情だ。無慈悲が過ぎ越して、もはや非情で、無情だ。

愕然とするがくぽだが、カイトはなにも、どうせ取り返しがつけられないなら徹底的に夫を痛めつけ、いたぶり、嬲り尽くしてやろうと思って、こんなことを言いだしたわけではなかった。

与えたいのは、『約束』だ。

約束は、ひとが生き延びるため、もっとも強い力となることがある。どんな些細な、あえかなものであっても、それがあったから最後のさいごに足掻く力を得て、生き抜けるという。

概ねカイトの責任が大きいが、今のがくぽは精神的に、非常に弱っている。

こういった状態では、どんなにすばらしい剣を与えても、宝の持ち腐れだ。剣が折れずとも、先にがくぽが折れて、いのちを散らす。

なにより、カイトは密かにずっと、案じてもいた。

動機が弱いのではないかと。

最前、がくぽが一度目に南王の首を掻き飛ばしたときだ。

あのときは、カイトが懸かっていた。

カイトは詳細を知らないが、歌王は王太子を塔へ鎖したあと、南王を斃せばなんでも褒美をやると、密かに布告したものらしい。どんな無理難題であっても叶えようと。

それでがくぽは、カイトを望んだという。

歌王にしてみれば、本末転倒もいいところだったろう――カイトを手元に残したい、救いたいからこその布告であったろうに、まさか身中からすら。

それでもとにかく、きっと藁にも縋る思いでやらせてみて――

さらにはがくぽ曰く、そうでなくとも地力の弱い西方で、丈高い塔の最上階などという、大地から遠く離れた場所にあるカイトのいのちは、風前の灯火であったという。

早く、はやく、はやく、助けださなければ――

あのときのがくぽには焦る気持ちがあり、カイトのいのちが懸かっているのだという、責任感があった。

報奨もすばらしかった。ほとんど初恋であるひとを、自分の妻とできる。愛おしみ、自らの手で咲かすことができるのだ。

ひとつひとつがそれぞれ強い動機を、数重ねた結果、並外れたものを発揮し、がくぽは南王に競り勝った。

しかし今回だ。そういった意味で、『動機がない』。

喰われたくないというのは、がくぽのなかであまり強い衝動ではなく、すでに見切りをつけ、諦めている感がある。

あとは、カイトを奪われたくない、守りたいというものだが――

残念ながら、これに関してカイトはあまり、がくぽを信用していなかった。

いわばがくぽは夢を、願いを、しあわせを叶えたあとだ。

『もはやこころ残りもない』。

そういう雰囲気がたまに、醸される。

南王に奪われることは業腹ではあるが、どうせ奪われたときに、自分は死んでいる。喰いきられて、南王の力と化しているのだ。

遠く、近く、どこでもいいが、生きて歯噛みしながら、南王に弄ばれるカイトを見ていなければいけないわけではない。

死んで、土の下か、南王の腹のなかだ。見ようもない。

カイトのその後の境遇を見ず、知らず、わからないままでいられるのだ。

それよりも、これから先もずっと、倒しきるまでは南王と対峙し続けなければいけないことのほうが、ずっと、はるかに重荷だ。

重荷と言うのも軽いほど、重荷だ。あまりに苦しく、つらく、厳しく、おそろしい。

人智を超えたという意味で、『魔』の冠を与えられたのが南王だ。一度、首を掻き飛ばした程度では、ほんとうには斃れてくれない。

一度どころでなく、あと十数度もあの困難を、恐怖を、痛みを、味わい、乗り越えなければいけない。

欠片の光もなく道は暗く、ずっと暗く、ずっとずっと見通せず暗く、ひたすら暗く、ずっとずっとずっと暗く昏い。

並みのものに、耐えられる生き様ではない。

がくぽは南王の末の子として生まれ、育ったがために、たとえ最弱のと謗られても、並みのものよりは剛だ。ずっとずっと、はるかに強い。

それでも、耐えきれる範囲を超えている。

いずれ夫は、どこかで折れる。

花としての本能のみに因らず、王太子として磨いてきた目をもって、カイトはそう、がくぽを見切っていた。

ただし『夫ひとり』で、『なにもしなければ』だ。

なにか――もっとも愛おしいと、日々こころを懸け、尽くすカイトが力を添えてやれば、たとえば今のような、小さな約束でも、先へさきへと繋いでやれば、ほんのわずかではあるが、違う。変わる。

傷つき帰ってきた夫を抱きくるんで癒し、おそろしいと泣くときには寄り添い、小さくともしあわせを、歓びを、日々に積み上げる。

積み上げ、繋ぎ続ける。

そばに添って生きると決めた夫を、生かし続けるために。

であればこそ――

「片づけて、私のもとへ戻ってこい。きちんと話を聞け。伝えるべきを伝えてやるから」

「………」

言葉遣いはともあれ、カイトの心情は見つめる瞳に表れていた。

熱が溢れ、雫としてこぼれそうだ。がくぽの姿勢が姿勢であり、図らずもであったが、上目遣いでもあった。なおのこと、想いが募って見える。

凝然と、吸いこまれるように見つめるがくぽの瞳に、光が戻った。花色が鮮やかさを取り戻し、未だ多少の揺れは残しても、力強さを宿して定まる。

青年の手が伸び、見上げるに似た角度の妻の顎を、やわらかに撫でた。

あえかにだが指に力をこめ、さらに上向かせれば、よく躾けた証にうっすらとくちびるを開いて待つ。陶然と潤む瞳は恥じらい、そっと伏せられた。

異形の美貌が歪む。浮かべたのは、笑みだ。歓びの、愛おしみ、慈しみ、溢れて満ちる。

そっと顔を寄せ、異形の青年はささやいた。

「今――お聞きするわけにはあなたに優先するものなど、私にはないというのに」

誑かす甘い声に、カイトは伏せた瞳を開いた。間近に過ぎて、もはやほとんど見えない美貌を睨みつける。

「片手間に、私の話を聞くな」

「っははっ!」

つけつけと言ったカイトに、がくぽは笑った。昼の青年らしい、まるで日の光のように明るく、朗らかしい笑いだった。うれしげで、楽しげで――

間近に過ぎてぼやけても、カイトはそれをはっきり見たと思った。あまりに眩しくて、おかしな動悸が起こる。

この顔が、カイトが最後に見た青年の夫の顔であれば、良かった。

戦いに赴く夫が、帰還を約するくちびるをくれる。

その寸前、カイトは自分からがくぽの首に手をかけ、伸び上がり、先に、夫のくちびるを奪った。

常にではないが、カイトからくちびるを合わせると、どうしても力を渡してしまうことが多い。それも自分の身も顧みず、大量にだ。

カイトの身を案じたがくぽはそれで、カイトから夫に口づけることを禁じた。

カイトのための約束だ。カイトを愛おしく想い、慈しみ、いたわって案じればこそ。

約束は覚えていて、覚えていたからこそ、カイトは夫に先んじて、自ら口づけた。

口づけて、ひと息。

ありったけを、吹きこむ。

戦いに赴く夫の力と為すため、ありったけの想いを、ありったけの力を、カイトの、王の花の――

力の制御は、できない。ひどく困難だ。

力を与えるの奪うのといったところは、感情に由来して本能が預かり、理性の統括下にないためだ。

理性が関与できないから、時や場合、自他の体調や状態を考慮してといった制御の仕方が、できない。

今、急激に知恵や知識を得ても、その確信は強まるだけだった。理性による統御、制御は、できないのだ。

ただし同時にカイトは気がついていた。

『与えない』ことは、確かに難しい。

けれど夫に意図して与えることは、ほかよりずいぶん簡単だと。

花が力を与えるのは、情愛の表現だからだ。

それで、与えたい相手は『夫』だ。生涯を添い遂げると決めた。それだけのことだ。

剣を鍛え、約束を与えてこころを繋ぎ、それでもまだ南王には勝てないと、カイトは感じていた。

今のままでは、勝てない』――

本能的な確信の意味を、カイトはきちんと理解していなかった。相手が南王であれば、策を幾重に巡らせても不足で、当然だからだ。

それはそうだろうと深く考えず、ある意味、流してしまった。

剣も約束もやった。

それでも不足があるならば、自分の力も夫に与えよう――人智を超えたとして『魔』の冠を戴く南王相手に、備えはいくつあったところで、多いということはないのだから。

本能によって迷わず真実を掴み、偽りを払う花の力は、きっと南王の謀りごとを防ぎ、夫を守ってくれるだろう。

今のままでは、勝てない』。

ならば、与えられるものを与え尽くし、でき得る限りの力を尽くすだけのこと。

――このとき、自分がもしもこの、本能的な確信の正しい意味を理解していたなら、と。

あとあとになって、カイトはよく、思い返した。理解していたなら、どうしていただろうと。

ただくり返せば、このときのカイトは自分の、花としての本能的な確信の意味をまったく理解していなかったし、疑ってもおらず、だからほかの策を検討する余地もなかった。

それで、口づけた夫へありったけの力を、想いを、ためらいなく吹きこんだ。

「ああ――長の手間が、水の泡よ」

南王の慨嘆は、この場の誰の耳にも、届かず。