B.Y.L.M.

ACT9-scene2

――ゆるされなかった。

響く、幼い声。

――ちがう!!カイトさまは、ゆるしてくださったこれまで、なんども、なんども!!

――いまだって、たすけてくださったんだ南王から、のろいから、ときはなってくださったんじゃあ、ないか!!

南王と打ち合うがくぽ。血みどろだ。

革製の軽装でもいいから鎧を、せめて鎖帷子だけでもつけてくれればいいのに、南方特有の薄い生地の衣装、一枚しか着ていないからだ。しかも白いそれはなおさらに、血朱が映える。

さぞ痛いだろう、つらいだろうに、そんな言葉ではとても表しきれないほどの状態であるのに、がくぽはほとんど、体の傷を感じていなかった。

自分の体の痛みなど、なんだろう。傷に重ねられる傷、増えていく痛みの、それがなんだというのだ。

戦いの直前の、カイトの様子――

呆然と、していた。愕然と、――現実の、世界のすべてを拒絶して、虚ろに逃げ、閉じこもった。

閉じこもらずには、逃げずには、拒まずには、おれなかった。

それだけで、わかるではないか。

カイトは赦さなかったから、『昼』を消したのではない。赦されないがために、『昼』は消されたわけではないと。

ただ、力を与えてくれようとしただけだった。

困難な戦いに赴くがくぽへ妻として、自らの精いっぱいを尽くそうとしてくれただけだった。

カイトのあの様子を見れば、赦されていなかったどころか、受け入れられ、慈しまれていたのだと――

男として、夫として、愛されていたのではないかとすら、思うではないか。

――ゆるされないだろう。

幼い声が、虚ろにつぶやく。

――カイトさまに、てをかけさせた。カイトさまに、けさせた。

――あいしてくださったなら、なおのこと……『花』みずからに、あいしたものを、ほうむらせた。

――ゆるされないだろう、こんどこそ、カイトさまは、おゆるしにならないだろう………

何度、南王に斬り飛ばされ、跳ね返されても、がくぽはなにも感じなかった。

ただただ、カイトのことだけだ。早くカイトのもとに戻って、『謝らなければ』。

これまでがくぽは大小取り交ぜ、多くのことをしでかした。そのたびにカイトは鷹揚に容れて、赦してくれた。

謝れば赦してやるのだと、赦してもらえるのだと、疑り深いがくぽに根気よく教え続け、どれほど強情を張っても決して諦めず、見捨てずに付き合ってくれた。

それこそが、なにより――なにより、しあわせで、うれしかったというのに。

これが終わったなら、カイトに促されるまでもなく、自ら進んで謝ろうと思う。

謝ろうと思うけれど、ようやくそう思えるようになったけれど、自ら思うようになったというのに――

カイトはきっと、赦してくれないだろう。もうずっと、赦してくれることはないだろう。赦される日は、永遠に来ないだろう。

赦せるわけもない、赦せることではない、赦されない、ゆるされない、カイトに、カイトに、カイトに!

嗚呼、ああ、ああ――

がくぽは啼きながら、南王へ向かっていく。

絶望しきって、それでも必ずカイトに謝らなければと、自らカイトに謝るまでは犬死の権利すらないと、それだけを胸に立ち上がり、地を蹴り、剣を振りかざして、南王へ。

「痛々しい」

カイトは眉をひそめた。

かわいそうな、憐れな子だ。未だ『ゆるされることはない』という呪縛の深くにいる。

南王の呪いこそ解いたが、あれはまだ易かったかもしれない。こちらの呪縛のほうが、よほどに面倒だ。

先に謝られた際、謝ることではないと、つい叱ってしまったが、間違えた。

これならきちんと、『赦す』と言ってやらなければならなかった。さもないと夫は、いつまで経っても自らを責め続け、赦せないだろう。

「は………」

今すぐ取って返したい気分ではあったが、ため息ひとつで思いきり、カイトはすでに結末を知る親子の戦いから目を逸らした。

瞬き>。

「っ!」

目を開いて映った景色に、カイトはびくりと竦んだ。

暗い。ひどく暗い。真闇だ。これほどの闇を――

カイトは、よく知っていた。

ともに感じる、咽喉が張りつくような、乾燥した空気。かすかに砂が混ざる、風の香り。

西方――哥の国だ。南方のそれとは、まるで比べものにならないほど小さな窓がひとつ開いていて、そこから閉ざされた室内に、風とともにわずかな夜明かりが差しこむ。

「陛下」

思わず、カイトはつぶやいていた。

開いた窓のそば、置かれた椅子に、歌王が沈むように座っている。疲弊しきった王は頭を抱え、止まることもなく、怨嗟を吐きこぼしていた。

――南王め、南王め、南王め、南王め!!南王めぇえええええ………っ!!

くり返し、くりかえし、くり返し――どれほどくり返し、何度くり返し、幾度くり返しても、ことは覆らない。

次の哥王と成るはずであった王太子は、尽くした手の甲斐もなく、南王に引き渡さざるを得なくなった。

それも、質として預かられるならまだしも、嫁ぐのだ。嫁がせるのだ、南王に。

嫁すと――王太子が、ここまで懸命に育ててきた息子が、まさか他国の王に嫁すと!

「だれか……っ、だれでも、いい。南王の首を、掻き飛ばして……っもしも、してやってくれるなら、妾が与えられるものは、なんでも与えように………っ!!」

夜闇のなか、臣も侍女も下がらせた、ただひとりの室内で、歌王は悶えもがき、祈る。怨嗟とともに、ひとり――

違った。

「その言葉は、まことか」

「っっ!!」

突然問われ、歌王ははっとして顔を上げた。慌てて辺りを見回す。カイトもまた、声のもとへ顔を向けた。

射干黒の、塗りつぶされた闇のうちから、さらに凝ったような小さな影が、歌王の前へと進み出る。

「南王の首を掻き飛ばしたなら、誰であっても、なんであっても、与えるか」

小さな影、少年、あまりに美麗な、――王太子の従属騎士団の、正規騎士のイクサ装束に身を包んだ。

しかし歌王は正直、彼のことを知らなかった。ただ噂に、王太子の騎士団にやたら美麗で、やたら年若い正規騎士がいると、その程度だ。

名前も顔もおぼろであり、つまりそこにいるのは不審者だった。

それでも構わず歌王が飛びついたのはだから、それだけ追い詰められていたということだろう。

「ああ――ああ、ああ与えようとも南王が首を掻き飛ばしてくれるなら、望むものはなんであっても求めるものは、すべて!!」

「たくさんは要らない。ひとつでいい」

激情を堪えきれず、震える声で叫ぶ歌王に、少年――がくぽのほうは、落ち着き払って答えた。

どれだけ落ち着いていたかは、次にがくぽが放った問いが明らかにしている。

「首を、掻き飛ばせばいいのだな南王の首を、ひとたびのみ、胴から切り離したなら、それで」

――歌王には、がくぽの問いの意味がわからなかっただろう。

知らなかったのだ。まさか南王が腹にいくつものいのちを貯めこみ、一度、首を掻き飛ばした程度では『殺せない』などということは。

もちろんがくぽは知っていた。南王の末の息子であれば、誰よりもよくよくと。

それで巧妙に、歌王の求めをすり替えた。南王を『殺しきる』ことを条件とはせず、一度だけ、首を掻き飛ばせばいいと。

そういったふうに、少年はいつもの様子が嘘のように手際よく話を進め、まとめた。歌王に、正気に返る隙も与えず。

「では、南王の首をひとたびのみ、胴から離して掻き飛ばしたなら――王太子を、始音カイトを、我がものに」

自らに有利に、破綻を避け、注意深く言葉を選んで告げ、がくぽは咽喉を開いた。

「<之をもって契約と成す>」

いつもはまるでわからないうたの、言葉の意味が、カイトにはそう聞こえ、理解できた。

呪術をもって契約の履行を絶対と為すものであり、この詞をもって締結したものは、容易く覆せるものではない。南方に於いて、もっともよく使われる術のひとつであると。

当然ではあるが、がくぽは常に意味も効力もわかったうえで言葉を選び、うたっている。このときもだ。

たとえ王とはいえ、ただびとでしかない歌王には、こうまですれば覆すすべはないとわかったうえで、謀った――

カイトは呆れた。

いかに追いつめられたとはいえ、歌王もおかしな布告をしたものだと思っていたが、――布告どころか、密命ですらなかった。

一種の騙し討ちだ。ひとりであればこそこぼす戯れ言を、勝手に拾われて。

「そ……の、ことばっ……っ!」

うたを耳にして、うたに聞こえる韻律の言葉を耳にして、歌王の瞳に正気が戻った。はっとして、――

けれどすでに、ことは為された。済んでしまった。終わったのだ。

王であってもただびとたる身に、もはや為すすべはなかった。

「ああ――!」

悲痛な声が、歌王のくちびるから漏れた。再び、椅子に沈む。深く、ふかく、先よりよほどに深く沈み、歌王は頭をきつく、抱えた。

「カイト――カイト、ああ、カイト…取り返しもつかない………謝って済むものではない。それでも妾は謝る。終生、おまえに謝る。けれどおまえは決して――決して妾を、妾を赦すな、カイト!」

――よくもやってくれたものだとは思え、カイトは呆れ果てるだけで夫の所業を流し、赦した。

所詮、わかっていたことに過ぎないからだ。こうしてどこかしら、なにかしら、あるいはすべてのことに裏切りが潜んでいるなどということは。

ことの初めから、夫はあまりに隠しごと、秘めごとが多く、今をもっても全貌が明らかでないほどなのだ。

『わからない』ことが逆の意味でわかりきっているものを、覚悟もなしに愛せるほど、カイトはうぶではない。裏切られることなら予定調和に過ぎず、意外性の欠片もない。

そこまでの覚悟を固めたうえで、そういう夫を愛し抜くと、添い遂げると決めたのだ。

だから『この程度』のことであれば、呆れ果てるだけで済ませ、――闇に塗りつぶされて見えない、それでもあまりに懐かしい景色を名残り惜しく眺めて、カイトはふと、気がついた。

そういえば、きちんと別れを告げていなかったのだった。ひたすら後ろ暗いがくぽは、そんな暇を与えずカイトを連れだしたし――

『ここ』で言ったところで、言ったことにならないとして、それでも。

椅子に頽れ、沈む歌王の足元に跪き、カイトは一度、頭を垂れた。

――哥の王太子教育は、ずいぶん、厳しくはありませんか。

最前、がくぽに問われたことが、カイトの頭を過る。自らが王子としてほとんど教育を受けていないのは確かだとしても、だからとカイトが受けてきた、哥のそれもどうなのかと。

哥の臣民にとっては当然の、しかし時至るまではおろそかに口にしないよう、注意深く避けられた話題はやはり、他国から潜入していたわずかの間に、がくぽの耳に入ることはなかったらしい。

知っていれば、訊き方が変わったろう。むしろ訊くこともなく、納得していたかもしれない。

垂れた頭を上げると、カイトは最上の親しみをこめ、歌王へ笑みかけた。

「お暇をいただきます、陛下――あなたはいつでも私の幸いを祈り、願って、最善を行おうとしてくださった。此度のことも、きっとそうなのでしょう。そしてあなたの息子は確かに、なにより誰より愛する夫を、伴侶を得た。あなたの息子は、あなたに感謝しています――おかあさま。どうぞ幾久しく、ご健勝にてあられますよう」

もう一度、万感をこめ、カイトは頭を垂れた。

――誰にも難癖のつけられぬよう……足元は固められるだけ固め、少しでも支持を増やす必要があった。

なぜあれほどの教育が必要なのかと疑問を呈した夫に、カイトはそう答えた。

それはほとんど生まれたときからカイトにとって当たりまえであり、当然の危機感だったからだ。

父たる先代の哥王が不慮の事故で亡くなったとき、王太子たるべきカイトは未だ、生まれたばかりだった。

さすがに生まれたての赤子では、王として差配を振るえるわけもない。

摂政を立てるか、王のきょうだい、ないしは親戚のうち血の近いもの、有能なものを代王と立て、継嗣たるカイトが成長するまでを凌ぐか――

急の、予測し得なかった事態に議論は紛糾し、ことは混迷を極めた。

最終的には、王妃であったカイトの母が制して代王たる歌王の位につき、事態は収められたわけだが――しかし哥を含む西方全体の傾向として、女の地位はあまり、高くない。

たとえ中継ぎの代王に過ぎずとも、女を立てることへの反発は根強く、彼女には苦難しかなかった。

それでも彼女は息子のため、必死の思いで代王位を守り続けたのだ。

なぜなら、王のきょうだいや、親戚、なんでもいい。なんでもいいが、なんであれ男を王と据えれば、いずれ必ず、代理たるに飽き足らなくなる。

そうなれば、正統にして正当なる継承者であるカイトを亡きものにと、きっと企みだす。

けれど女たる自らであれば、決して長く持たせられないことは、哥に於いて自明の理。欲深に望むことこそ、生き地獄と同等。

なにより継嗣は、自らの胎を痛めて産んだ子となれば、王位を譲るになんの不満があるだろう――

火種はくすぶり、決して安泰たる代王ではなく、盤石なる王太子位でもなかった。

であればこそ彼女はカイトを厳しく律し、山のような修養を積ませ、育てたのだ。

誰からも異論の出せない王と為すべく、少しでも支持者を増やし、地位を盤石の、万全のものとすべく。

そして、ようやくというころになって――

――未婚で、継嗣もなかった私がこうなっても、『後継者』を案ずることなくおれるというのが、いいところだな。私を南王に引き渡すことが決まったところで、すでにくすぶっていた火種が熾きた。否、『私』を南王に引き渡すと決められたのがそも、熾きた火種が爆ぜればこそだったな。うん、こわいこわい。

むしろ清々したと笑って締めたカイトに、がくぽはどう返したらいいものか、戸惑うようだった。そのときは確か、口達者も過ぎる昼の青年であったのだが、それでも咄嗟に言葉が出ないようだった。

そもそも、自らも加担したうえでのことであるから、ますます言葉に悩むだろう。

ここに関してはがくぽがこれから考えるべきことであるから、カイトはなにも言ってやらず、ただ笑っていた。

それにしても、こうして歌王とがくぽの取引の詳細を知ることができたのは、いいことだった。

カイトは安堵すら覚え、感謝とともにそう思う。

こうまでとなっては、彼女はきっとこのあと、自棄を『極めた』はずだからだ。

カイトを塔に篭める直前までのような、中途半端な自棄具合だと、今後が案じられてならなかった。後継者争いの波にも抗することなく呑まれ、酷い扱いであっても、諾々と従いそうな――

しかし自棄も『極めた』ならもう、案じるべきはなにもない。もしかすれば今度こそ国内を制しきり、哥の国史上、否、西方初の女王として、務めきるかもしれない。

カイトが王位に就くまでという条件付きの代王ではあれ、決して盤石ではない冠を、彼女は女でありながら、これまで守りきった。

『王としては』ことに有能ではなくとも、それが彼女自身の力を信じるよすがとはなる。

「――我が母ながら、案じ甲斐のない方だ、あなたは」

カイトは静かに笑うとつぶやき、瞼を伏せ、――

瞬き>。