がりくった道

1-6

笑って言って、がくぽは顔を上げる。

カイトが笑い返すことはない。不思議そうな光を揺らぐ瞳に湛え、がくぽを見返すだけだった。

がくぽは笑みを浮かべたままさりげなく瞳を逸らし、カイトの頬を撫でた。

中途半端だ。なにもかもが。

揺らぐ瞳に掻き混ぜられるこころが堪えられず、さりとて離れることも選択できない――

「困ったときは、呼べ。遠慮などせず」

「こま?」

視線の力をやわらげようと、なんとか頭を捻って言葉を継げば、カイトはひとつ瞬きし、わずかに後ろに引いた。

「こま。……こま?」

戸惑うように、がくぽの言葉をくり返す。狙い通り視線の圧はやわらいだが、これはこれで頭が痛い。

出会った当初ならともかく、同居した状態でしばらく過ごせば、がくぽにもカイトのこの反応がなにを意味するかはわかる。

カイトが戸惑っているのは、『こまる』という言葉を知らないとか、わからないからではない。

がくぽが言う状況に、思い当たる節がない――要するに、まるで困っていたつもりはないという。

肩が落ちるようなこころ持ちで、がくぽは懸命に笑みを保ち、カイトと同じほうに首を傾げてみせた。だけでなく、指を伸ばし、形が崩れない程度にネクタイをつまんで引っ張る。

「これだ。――結べず、往生していたろう」

「っ、ああ!」

具体的な状況を示してやってようやく、カイトは納得の声を上げた。不可解さに閉じていた表情が、花のように明るく開く。

がくぽが記憶するにカイトは、長さに限界のあるネクタイでゴルディアスの結び目を作るという、非常な難題に挑戦していた。

――ようにしか見えなかった。

ネクタイの結び方がわからないまま延々と、無闇に結び目だけを量産するという。

だが、困った状況と言われて、咄嗟に直前の状況が思い当たらない。

それが示すのはひとつで、『カイトは困っていなかった』――困った状況だとは、思っていなかった。

実際、『そう見えていた』のではなく、挑戦していたのかもしれない。どれだけ複雑怪奇な結び目を、限りある長さのネクタイで作れるものかを。

確かにパーティ用などの特殊なネクタイの結び方になると、限界への挑戦を懸けている感も出てくる。だから先のカイトも、もしかすると――

もっとも基礎であるプレーンノットすら知らなかったわけだが、カイトだ。カイトなので、ありだ。少なくとも、がくぽの経験則上は。

「よ…」

「でも。ね、がくぽっだいじょぶっおぼえたっ、今次、がくぽのむすべる。よっ、おれっ!」

「っっ」

余計な世話だったかと、がくぽが拗ねた言葉を吐くより先に、カイトは花の笑顔で得意満面と主張した。

がくぽが覚えたのは、思いもかけない痛みだった。思いもかけないほどの、激しい痛みだった。

胸の奥のおくまで届く、致命傷となりかねない――

「覚えなくていい」

つい、吐きこぼした声は咽喉が潰れて掠れ、小さすぎてカイトの耳には届かなかった。

よかったと思いながら、聞いてくれと希う自分がいる。

――覚えなくていい。

自分を頼ればいいのだ。困ったなら自分を呼んで、頼ればそれで。

カイトが覚えるのは、覚えるべきは、困ったなら自分を、がくぽを呼ぶということ。それだけ――

「……がくぽ?」

「否……」

問う声に、返せるのがようやく、意味もない言葉だ。

引き裂かれる思いに歪む表情を隠すため、がくぽはカイトの肩に額を押しつけて懐き、目を閉じた。

普段なら、こうして懐けばカイトの香りに満たされて、荒れるこころはすぐにも落ち着く。けれど今日は、仕事前、衣装姿だ。髪も整髪料で固めて触り心地が良くないが、香りも違う。

がくぽから、切ったのだ。

記憶がない以上、もはや恋人とは思えないし、思えるようになる保証もないからと。

カイトは、受け入れた。

がくぽを責めることもなく受け入れて、生殺しでしかない友人関係も続けてくれている。

もうこれ以上、無理を強いてはいけない。

無理強いして、困らせたくない。傷つけたくない。自儘勝手な都合で振り回したくないし、挙句痛めつけるようなことは、決して――

カイトにこれ以上、なにも負わせたくない。なにも、なにも、決して、なにも――

「あの。さ、がく……」

「今回の役」

なにか言いかけたカイトだが、がくぽは強引に遮った。遮りながらも手放せず、がくぽのくちびるは凄絶な笑みに引き歪む。

歪みながら、がくぽはカイトの腰に腕を回して抱き寄せ、さらに懐いた。せっかく皺を取ったところだ。今度こそ力加減に気をつけなければと、思考の片隅には置いた。

目を閉じても香りが違うから安らがないが、目を開いても見えるのは衣装だ。真っ白な、純白の、――

「新郎役だったか。新婦は、……嫁役は、だれだった?」

日常的にネクタイをする稼業ではないから、ネクタイを結ぶ衣装というだけで、空間は非日常を醸す。

だが今日の場合、ネクタイだけが非日常の原因ではなかった。

カイトの衣装だ。真っ白なタキシード、新郎の、結婚式に臨む衣装なのだ。

チャペルの控室ともかく、普通のご家庭のごく日常的なリビングに、盛装した新郎のご降臨は、空間の捻じれレベルの違和感だ。

が、もちろん当のカイトは捻じれる空間など、どこ吹く風だ。

「ヨメめーこ!」

淀みもなく答えるカイトの声が明るく弾んで、がくぽは話題の選択を間違えたとくちびるを噛んだ。懸命に堪えたが、カイトの腰を抱く腕に力が入る。だから、せっかく皺を伸ばして、撚りを直して――

理性の声が、小さい。もはや聞こえない。

叫ぶこころが、表に飛び出す。

堪えきれず、もはや抑えることも叶わず、建前など吹き飛ばして、音に、声に、

「ルカルカに、ミクに、リンリン!」

「………」

不穏な様子にも気づかぬげで元気よく続いたカイトの言葉に、がくぽの体からあからさまに力が抜けた。共に、どす黒く立ち昇っていた瘴気も消える。

カイトはやはり、構わない。数えるために折っていた指、五本目の、最後の小指を折った。

「あと、レンレン『男嫁』さん!!」

楽しく数え上げたカイトは、声高く笑う。笑う様子は奔放で、無邪気だ。

「あー………」

非常に疲れて、がくぽは目を閉じた。

カイトの体は、抱き心地がいい。大き過ぎず、さりとて小さ過ぎず、弾力といい、すべてがすべて、がくぽにとって心地いい。

耽溺する前に頭を上げ、がくぽは無邪気に笑うカイトと見合った。

「モテモテだな。ハーレムだ」

からかう口調で評すると、カイトは大きく頷いた。元気いっぱい、拳を振って続ける。

「んっオトコノ夢っがんばるっ!!」

「っっ」

――ようやく立ち直ったはずなのに、すぐさままた、地獄に叩き落とされる。

短時間のうちに激しい浮き沈みをくり返させられて、がくぽは本気で疲れ果てた。疲れすぎて、もはや抵抗できる気もしないし、抗いきる自信も失った。

腕に抱くのは、愛おしい相手だ。

たかが友人でたかが同居人。

関係を自分から打ち切った、元恋人。

記憶もない過去の相手。

これ以上身勝手で、我が儘な話があるものか――