がりくった道

1-8

目が離せなくなった。

聞いた当初、『関係』を知った当初は、疎みすらした相手だ。

自分たちの詳細な経緯はわからなかったし、どの程度の付き合いだったのか、互いの想いの深さも強さも計れず、ただ咄嗟に疎んだ。

怯えたのだと、今はわかる。

怯えたのだ――愛し愛された相手を忘れた、得難く尊い期間を失った可能性に。

がくぽには溺愛の気質があり、相手に傾倒する癖があった。傾倒のあまり闇に堕ちることも、珍しくはない。

情が強いといえばそうだが、あまりに繊細に組まれた精神バランスが、『恋愛』という感情ストレスの超負荷に耐えきれず、崩れてしまうのではないかと言われる。

とにかく、そこまで愛する相手を忘れた、記憶を失ったという可能性――実際は『可能性』ではなく厳然たる『事実』なのだが、あまりに怯えたがくぽの思考は結局、最後までそこに『事実』という言葉を当てられなかった――に、がくぽは怯え、過ぎて反った感情は、相手を疎んじた。

記憶がないからだ。愛し愛されたという。

記憶があれば、それこそそんな自分を憤激とともに惨殺しただろうが、記憶はないのだ。戻らない。

だから疎んじた。

疎んじて、別れを選択し――

目が、離せなくなった。

KAITO――カイトというのは、実に不思議なキャラクタだった。不思議な、不可思議な、理解に苦しみ悩む。

「じゃあ、コイビト。じゃないので、もうキスしません」

「………まあ」

「アイサツも?」

「否、別に、それは……」

「『しません』?」

「否、その、挨拶は、別に」

「『しません』」

「違うっやりたいならやれお主に抵抗がないなら、俺は構わんっ!!」

「じゃあ、します」

「なにゆえ敬語だ?!」

…………………『するます』……?」

「……疑いを持ったなら立ち止まれ、カイト。車ではないのだから、急でも止まれるはずだ。実際、その疑いは正しい。大人しう、ですます言うのを止めろ……」

――おまえのことなど忘れたので別れろと迫った元恋人と、親愛の挨拶を交わす。

がくぽには計り難い感覚で、思いつきだ。

確かにこのあとも同居人であることに変わりはないし、なるべく禍根なく、仲良くしているに越したことはないだろうが、それにしてもだ。

しかし罪悪感を伴って戸惑うがくぽと違い、むしろカイトは面白そうだった。してはだめなこととしていいことの確認を、とても楽しそうな様子でやった。

「ぎゅうも。しません」

「……………まあ、……」

「ぁっ!!っハグも?!」

「ぎゅうとハグでなにが違うかわからんが、だからお主に抵抗がなくてやりたいならやれ!!」

――計り難い感覚で、思いつきなのだ。

苛立って叫ぶこともあるが、わけがわからないと頭を抱えることも頻々だが、不快ではない。不愉快ではなく、むしろ快い。心地よく、たのしい。

しかも付き合いもしばらく経てば、身に沁みてわかることがあった。

計り難い感覚で思いつきだが、やさしい。カイトはとにかく、やさしい。

たとえばカイトの話し方は、いくらスペックの低い旧型ロイドとはいえ、独特だ。

どもって閊えることは当たり前。

正しい文法どころか、文章が文章としての体裁を整え、まともに発話されることが、まれだ。ほとんどない。

句読点も滅茶苦茶なら、言葉の順番も自由そのもの。

挙句、途中で疲れて『まあいーや』で放り出す。飽きて、『もういーよ』と投げる。

初めは会話に苦慮したがくぽだが、そのうち気がついた。

カイトは言葉を選び過ぎているのだ。

相手のことを考え、言葉を選び、選び過ぎて結果として、解読に非常に難を要する言葉遣いになる。

選び過ぎて考え過ぎて、疲れて飽き、放り出して投げる。

なんたる不器用。そしてなんたるいい加減。

なんとも不器用にして、いい加減極まり、突き抜けてやさしいイキモノ――

「おひるねは?」

「――その前に訊きたいが、カイト。昼寝をそう頻繁にするのか成人でありながらしかも枕を並べてまさか日常だったのかそれが幼稚園児か、俺たちは」

「し、しまっ、………『しません』っ………っっ?!」

「心底から落ちこむなっ今期最大級の衝撃ぶりだな?!キスよりハグより昼寝のほうに比重なのかお主?!いいっわかったっだから何度も言うがな、お主の好きにせいっ付き合えと言うなら、俺も昼寝に付き合おうからっ枕を並べてだろうが膝枕だろうが腕枕だろうが、いくらでもしてやるわ!」

「ひにゃ、ひ、ひにゃたぼっ………おぃるにぇえぇ………っ」

「わかったから、そう情けない声を出すなそれこそいくつだ?!ひなたぼっこだな暑さに弱いロイドをなんだと思っているのかさっぱりわからんが、ひなたぼっこで昼寝くらい、毎日やってやる!」

「んいーーー。しょうそぉーーーー」

「用法が違う………たぶんだが、おそらくの推測だが、用法が違う、きっと、カイト………」

そうやって。

会話を重ね、関係を見直し、習慣を検め、態度を改め、あるいは継続し、新しくつくり――

気がつくと、カイトから目が離せないがくぽがいた。

なぜといって、こんな不器用なイキモノ、目を離したりしたらなににどう嵌まるかわからない。

自分が傍で支えてやらなければ、助けてやらなければ、どうなってしまうかわからないではないか――

すべてが苦しい言い訳で、不要な気遣いなのだと、がくぽにもわかっていた。

わかっていたが、目が離せない。

常にカイトの姿を探し、動きを逐一目で追い、――

挙句、追うのは視線だけで終わらない。離れないのは、視線だけではない。

やがてすぐに体が動く。立ち上がり、カイトの後を実際に追い回し、もしくは傍らに行って抱えこむ。

抱えこむと、カイトは笑う。

「がくぽ!」

笑って、がくぽの名を呼んでくれる。疎まれることはない。うるさがられ、煩わしがられ、避けられることは。

カイトはいつでも笑って、がくぽを受け入れてくれる。無邪気に、無垢に、しあわせに満ちて、まるでなにもなかったかのように――

節度ある距離を保て、と。

理性のささやきのなんと小さく、力ないことか。むしろ聞こえない。ささやき程度でしかないからだ。理性は叫ぶべきなのだ――がくぽの動きを圧するべく、制するためには。

けれど理性はささやきの程度で、そして日々、がくぽは焦燥と、行き場のない、名前をつけることを赦さない感情を募らせていく。

過ぎる怯えに駆られ、半ば衝動的に別れを選択した。

そして今。

このざまだ。