がりくった道

2-6

「ます、………」

意想外にも過ぎることを言われ、カイトは瞳を瞬かせた。

驚きが過ぎたらしい。涙が止まった。止めるすべもわからず、もはや生涯止まらないのではないかとすら危ぶんだ、涙が。

現金なと、カイトは思考の片隅で罵倒する。

ならばもっと早く、止まっていてくれたらよかったのだ。どれだけ自分が面倒な思いをしていたことか、迷惑極まりなかったことか――

しかし今、問題とすべきはそこではない。

先には自分の皮に爪を食いこませていたカイトの手は、今度は狭曇の手首を掴んでいた。縋るようでもあるし、逃がさないとするようでもある。

震えるのは、ともすれば入れ過ぎて傷つけかねない力になる自分を抑えるためだ。興奮のあまりといえ、前後の見境もなく狭曇を傷つけるようなことがあれば、カイトは発狂しかねない。

こんな、思いもかけない『希望』を見せられたあとに、発狂はしたくない。

狭曇はそれこそ、カイトにはないアイディアの塊だった。

口説くだなんて。

がくぽを――事故とはいえ、自分と恋人であった期間の記憶を、すべて完全に失った相手を、口説くだなどと。

記憶以外に障害を負ったところがないかと精密検査中のがくぽは、未だラボにいる。

しかし検査の数も知れているし、今のところこれ以上の障害も見つかっていないというから、ほどなく帰還するだろう。

見舞いに行ったのは一度だが、それも分厚い医療ガラス越しに姿を見ただけのことだが――そのときの感触では少なくとも、帰還後に関係の解消を言い渡されることは確実だった。

それは別に、がくぽが薄情だという話ではない。反対だ。情が強過ぎるのだ。

情が強過ぎて、まさか恋人を忘れたなどということが――『恋人』とするまでに情を注いだ相手の記憶を失ったなどということが、がくぽには堪えられない。

堪えられないが生きていく必要がある、『自死』に制限のあるロイドの自衛手段として、関係を切り離す――

がくぽを苦しめたいわけでもないし、その必要性もわかるから、カイトはそこでぐずるつもりはなかった。

むしろ深く『がくぽ』を知ればこそ、早急に関係を切ってやらないとまずいとすら、思っていた。

だからとにかく関係を切ることだけ、解消し、なかったことにすることだけ、それしか考えていなかったというのに。

狭曇はいたずら気を含んで笑んだまま、恐ろしいほどの瞳で凝視するカイトを穏やかに見返す。

「ぼくは、大丈夫だと思うんだ。なんといっても、がくぽさんだからさ。たとえばこれが、初期化がかかって、全部違う、初めっからの『がくぽ』ってなったら、少し違うんだけど。いわば『地続き』の『がくぽさん』だからさ。じゃあ、おんなじだと思うんだ。おんなじなら、いっしょにいる限り、またカイトのことを好きになるよ。カイトを求める。カイトのことを好きになって、恋して愛して独占したがって、ぼくにまでケンカ売ってきて、………うん。そうか………そうなるとカイトまた、おたおたするんだねえ………」

「ぅくっ……」

かわいそうにと、心底から憐れまれてしまい、カイトは別の意味で咽喉を詰まらせた。

がくぽが好きだ。

がくぽのことは、好きだ。初めて狭曇以外に、興味を持った相手だ。時として狭曇と同等にまで、心を奪われる。いや、まるで認められないが、狭曇以上に気にかかることも――

だからこそ、情が強過ぎるがくぽが『マスター』にまで妬心を募らせ、咬みついたのはとても困った。それはもう、往生した。

がくぽのことが嫌いか、せめてなんとも思っていなければともかく、とても好きであればこそ悩みも深く、増した。

あれはそう、言ってもまだ『恋人』という形が確定する前で、お互いにお互いへの想いを探っていたような時期だったが――

「あ」

気がついて、カイトは狭曇の腕を掴んでいた手に力をこめた。一瞬だ。すぐに力を抜いたが、これはそう難しいことでもなかった。

ここしばらく、晴れることのなかった表情が、明るく煌く。

見つめていた狭曇もまた、くちびるを綻ばせた。

「うん。そう。ちゃんと『恋人』になったら、安心して、ぼくとも仲良くなった。いや、違うか。『恋人の』マスターだから、ぼくとも仲良くしなくちゃって。恋人が大事にするマスターだから、自分も大事にしようって、考え方を変えて、動いてくれるようになった。がくぽさんって、そう。律儀」

「んっ!」

笑う狭曇に、カイトも笑う。

現金なのは、がくぽもだ。二人の関係を特別なものにしたら、狭曇に絡むことも止めた。なにに安堵したといって、カイトがそれ以上に安堵したことなどない。

そのうえ、がくぽの溺愛ぶりと言ったら――

「でもさ、つまり、『律儀』なんだよ、がくぽさん」

しかし狭曇はすぐさま笑いを治め、またもカイトを窺うように覗きこんだ。言い聞かせるように静かに、緩やかに言葉を継ぐ。

「『恋人止めます』って言った相手のことを、すぐにまた、口説くなんてできない。きっと。前以上に、じたばたもだもだする。だからっていって、カイトがじゃあ、『止めません』ってごねても、いい方向にはいかないんだ。いったんは関係を終わらせないと、それはそれで進めない。終わらせて、始める。これがいちばん近道で、いい方法」

「………ん」

カイトは頷き、口をもごつかせて狭曇の言葉を追いかけ咀嚼した。

「ん」

まじめな顔で、もう一度頷く。異論はない。がくぽとは、そういう相手だ。がくぽとは――

「めんどい」

「ぁははっ!」

取りつく島もないカイトの感想を、狭曇は笑って流した。流して、手首を翻してカイトの手を外す。浮いたカイトの手が行き場を思いつく前に取ると、あやすように軽く、叩いた。

「だから今度はさ。カイトが、がくぽさん口説こう『わかってる』カイトが、もう好きになってるカイトが、今度は先に手を出そう。がくぽさんに目いっぱい色仕掛けして、フった相手なんだよなあとか、悩む暇もないくらい追いこんで、さっさとモトサヤにしちゃおう。で、この話は終わり。終わっても始まって、また続く。どうする?」

「んっ!」

やってみるかと最終確認されて、カイトは狭曇が弄んでいた手を握った。今度は、皮に爪を食いこませることはない。

気合いの拳にして、カイトは頷いた。

「ガンバル!」

「だめー」

「ぅいっ?!」

なぜか即座に却下され、カイトは仰け反った。微妙な怯えに引きつりながら、恐る恐ると狭曇を窺う。

「だ、だめ、めっ?」

自分からした提案なのにと、縋るカイトに、狭曇の浮かべる笑みは苦みを含んだ。

苦みを含んでもやわらかさを失わず、狭曇はカイトの揺らぐ瞳を見返す。

「うん。『だめ』。『がんばる』なら、だめ」

念を押すように言って、狭曇は瞳を伏せた。くちびるから、細いため息がこぼれる。

「『がんばる』っていうことは、カイトがムリをするかもしれないってことだ。カイトがムリして、我慢するかもしれないって。………ぼくはあくまでも、カイトのマスターだからさ。カイトを第一に考える。がくぽさんは火狩さんのだから、いちばんには考えない。だから、がくぽさんの幸せより、カイトの幸せをいちばんに、考える」

「………」

カイトはうつむく狭曇を凝然と見つめた。うつむいても表情はやわらかく、声音もやさしい。

けれどカイトは知っている。

カイトのマスターは、狭曇は、『できる』人間だ。

『やるべきことをできる』人間だ。

口先ばかりではなく、思うばかりでなく、狭曇は形に、行動にする。それも迅速に、確実に。

方向性さえ間違わなければ、ロイドにとってこれ以上に望ましいマスターはいない。物堅いプログラムの傾向が強い旧式のロイドにとっては、ことに。

だからこそカイトは狭曇のことを、依存するほど信頼したのだ。

信頼している。知っている。やると言った以上、本当にそうやる狭曇を。

見つめるだけで応えを返さないカイトを、狭曇は軽く瞳を上げて見た。笑う、表情はやさしいが、譲らない。

「だから、こうやって焚きつけは、したけどさカイトがムリして、苦しくて辛そうだってなったら、ぼくはカイトを連れてこの家から出る。がくぽさんと、引き離すよ。………うん、カイト。そうなんだ。カイトがほんとうにもう、がくぽさんといるのが辛いってなったら、『この家を出る』っていう選択肢があって、ぼくはその手段を取るって、それはきちんと覚えておこう。だからカイトは、なにがなんでもがくぽさんを口説き落とさなくちゃいけないって、がんばる必要は、全然ない。まったくない。むしろがんばっちゃ、だめ」

「ます、た」

閊えながらも呼んだカイトの声は覚束なく、まるで幼い子供のようだった。

「怒らないでって、言ったけれど、カイト」

狭曇は笑って伸び上がると、カイトの頭を胸に抱きしめ、ねこでも撫でるように髪を梳いた。

「怒らないよ、ぼくは………だってぼくには、がくぽさんを怒る権利がない。『恋人』としてのがくぽさんを怒って、なじって、責める権利があるのは、『恋人』のカイトだけだからねいくらカイトがぼくのロイドだとしても、その権利は、カイトだけのものだ。がくぽさんの『恋人』は、カイトだけなんだから――」

一度言葉を切って、次に狭曇が出した声はため息のようでもあった。

「そのカイトが、がくぽさんを怒ってない。ならばぼくも、怒らない。怒らないから………安心して、もう一回、口説きなさい。きみの大好きな恋人を」