2-とやかくとひとはいうけれど

そもそもどういう状況かということだ。

実のところ、カイトは少しばかり落ち込んでいたところだった。言い換えるなら、こころが弱っていたところだ。付けこむチャンスだ。

――だからといって付けこんでいいかどうかは一旦置くとして、カイトの状況とがくぽだ。

本日カイトは自分のマスター:八桂月-はちかづき-とともに、新曲のレコーディングに臨んでいた。

別に今日が初めてのことでもないし、サビの部分に関してはすでに録り終えてもいる。途中の部分で少し直しを入れたいところが出てきたからと、――

呼ばれて、挫折したところだった。誰がといって、八桂月とカイトと、双方だ。

――なにかが違う。

と、八桂月が『なにか』の部分に嵌まりこんでしまったのだ。

しかも『なにか』で止まってしまって『なにか』から進まない、進めなくなったそれは、カイトに対しても『なにか』以上の、具体的な指示として『どうしろ』を出せない。

カイトもカイトで懸命に『なにか』を汲み取ろうとはしてみたが、八桂月自身も明確化できない、曖昧模糊で暗中模索、五里霧中な『なにか』だ。

結局、双方音を上げて、小休止を挟むことで頭を冷やそうということになり、八桂月はそのままスタジオに、カイトは悩むマスターを置き、スタジオから出て来たところだった。

ちなみにスタジオは、自宅の地下にある。建築的に正確な表現を取れば半地下だが、どちらにしても趣味に金を注ぎこむことに躊躇いのない家ではある。

それはそれとして、カイトはちょっぴり意気消沈して半地下から地上、1階にあるリビングへと出て来た。

マスターはカイトを責めなかったし、むしろ自分の曖昧で掴み切れない感覚のほうに苛立ち、それによってカイトに的確な指示を出してやれないことにこそ、『マスター』としての自分の力不足にこそ腹を立てていたが、――それでもだ。だからこそだ。

カイトのうたが、カイトの声が、彼の疑問を吹き飛ばすようなレベルに達せなかった。

達していない、足らない、不足だ。

そういうことではないかと、カイトは思うのだ。

――マスターの期待に応えられなかった。

ロイドとして、これほど堪える感覚もない。

けれど八桂月がはっきりそうと責めないからカイトも推測の域に留まり、不確定要素が多く確定感の低い推測がゆえに、落ちこむにしても『ちょっぴり』しか落ちこめず、それがまた辛い。

はっきり責めてくれれば、『うんそう力不足でほんと残念!』と力いっぱい落ちこめる、もとい、反動的な勢いで浮上できるのがカイトというものなのだが、『ちょっぴり』という、これまた非常に曖昧な程度に治められてしまうと――

というわけでもやもやが、さらにもやもやうもうもして、カイトはいつも以上に警戒心がお留守だった。

否、常であってさえ、警戒心などなきに等しいと言われる在り様なのに、そのなきに等しいものがお留守なのだ。

これを付けこむチャンスと言わず、なんだと。

――だからといって容赦なく付けこむ男はどうかという話だが、これも一旦置いて、しかしそろそろ本題の主眼に持って来るべきタイミングなのだが、がくぽだ。

そうやって無防備を極めるカイトの背後を取るや、耳をはぐはむちゅっちゅと甘噛み愛撫し、挙句、耳が嫌ならキスに替えろと、無茶も甚だしい交換要求を、わりと平然とやらかす男だ。

こころが弱っている相手の隙に付けこむことに、まるで躊躇いも覚えない――のもどうかという話だが、根本的なことをまず糾せば、つまり相手はカイトだということだ。

新旧の差はあれ同じ男声型ロイドのカイトだ。少々の衝突やなにかはあれ、出会って間もないとしても、とりあえずは良き『友人』としてやって来た。少なくとも、今朝までは。

その良き関係の相手に、なぜ隙を見せたからと付けこむのか。

がくぽには――『がくぽ』には、見せられた隙には相手構わずなにがなんでも付けこまなければいけないという強迫機能でもついているというのか。

もちろんそんなオモシロ機能もとい、最近そろそろ世間の声も高まりつつある、ロイド虐待に類されそうな特異機能など、『がくぽ』にはついてはいない。

ではどういうことなのかというと――

「ん、んん……っ、ぁ、ふぁ、あ………んん、んちゅ……っ」

「は、カイト………」

「んーーーっ」

さて問題は、『1回』とは『何回』のことであったかという、非常に難解なところに差し掛かっていた。

がくぽは言った。

耳をはぐはむちゅっちゅと甘噛み愛撫されるのが嫌ならば、キスの1回と引き換えだと。

1回だ。

1回というのは、カイトは『1回』だと思っていた。

いくらカイトが低スペックな旧型ロイドで、頻繁に数の計算を放り出すとはいえ、さすがに『1回』程度はカウントできるし、する。

がくぽであればもちろん、言うまでもない。

そもそも新型ロイドであり、デフォルト値であってすらKAITO以上の高スペックを誇り、ことに情報処理能力の優れることを謳われる機種だ。

『1回』のカウントなどそれこそ朝飯前、馬鹿にしているのかと疑問に思うことを通り過ぎ、いったいナニをデキるかデキないかと訊かれているのか自分はと、愕然とするほどの――

で、問題だ。

いったい『1回』というのは、何回のことを言ったものだったろう。

「ぁ、ぁう、ぁくぽ………んんんっ……っ」

「んー♪」

くちびるがついばまれる合間にカイトが呼ぶ名前は、蕩けて覚束ない。

否、蕩けて覚束ないのは呼ぶ名前だけでなく、カイトの体、カイト自身もだ。ついばみながら時折捻じこまれる舌に口腔を好きなように嬲り回され、弄られとして、そうでなくとも耳への愛撫で笑い踊っていた膝は完全に崩れた。もはやカイトはまるで自分で自分の体を支えられない。

そうやって自重を支えきれず崩れたカイトを思うつぼとばかり、がくぽは床に転がし、伸し掛かってくちびるをついばみ続ける。もはや抵抗もままならない体を、念入りに抑えこむ所業だ。そしてカイトのくちびるを、非常に愉しそうについばみ、貪り続ける――

だからつまり、『1回』だ。いったい『1回』とは何回のことであったかという。

それは確かに、先にもあったような価値観のずれがある――かなり大きなずれのある相手だが、さすがに『1回』は『1回』だと思うのだ。

だと、思いたい。

確信が揺らぐ、信じられない現状がまさに今、進行中なのである。

「ん、くふ……っ、は、ぁ……っ」

「カイト……」

「ぁう……っ」

くちびるが束の間離れて、呼ばれる名前が甘い。否、はっきり言おう――淫靡だ。

呼ばれる名前の、声音の淫靡さに、瞼をきつく閉じ、それでも堪えきれずにぶるりと震えたカイトを、がくぽは伸し掛かったまま愉しげに眺める。

眺め下ろすがくぽの、花色の瞳に宿るのが獰猛な捕食者のそれで、覗いた舌が赤みを増したくちびるをてろりと舐めずるしぐさが、余計に淫猥さを掻き立てる。

そうでなくとも、研究者たちが粋を凝らしてやり過ぎたと言われるような美貌の持ち主が『がくぽ』、がくぽだ。

ほんのわずかに色を刷くだけでも取り返しがつけがたいのに、やる気漲って隠しもせずに芬々に雄を香らせるともはや、カイトには抵抗の余地がまるでない。

そもそもが警戒心をお留守に、だだ流され気味な日常だというのに――

「ここまでしても、まるで抵抗しない………やっぱりカイト、誘ってる……?」

「しや……」

知らないと。

覚束ない口で、カイトは答えようとした。否、一応答えた。

が、答えががくぽに届くことはなかった。