4-しろくいさぎよいと書いて、

ある一定の年齢層のための呪文をつぶやくことでとりあえず切り替えた八桂月は、そうとはいえ険悪さを消しきれない眼差しのまま、ぴしりと固まって青褪めるカイトへ顎をしゃくった。

「とりあえず、いい。状況を見る。一フレーズだけ、ヤってみろ」

「ぁ、う………」

そうだ。うっかりがくぽの勢いに負けて押されてだだ流され、どんぶらこっことこうなってしまったが、そもそもカイトはうた録りの合間、小休止でリビングに出て来ただけに過ぎなかった。

小休止が終わったら、先には二人で頭を抱えて進めなくなったところをもう一度――

そんなときに、1回だったかよく確信の持てない1回のキス、濃厚にしてしつこいにも程があるキスのために、舌が痺れてまともに言葉が出せませんなど。

腰砕けの快楽にぷるぷるに震え、声に力が入りませんなど。

「ぇう……っ」

ぐすんと洟を啜り、カイトはがくぽを少しばかり押しやった。

なにをやりたいのかわかっているがくぽは、一応は素直に体を離す。ただし、完全ではない。未だ腕は回しているし、足の囲いも解こうとしない。

それでもなんとか背筋を伸ばし、カイトはわずかに上向きとなって咽喉を開いた。

「♪」

――案の定で、ひどいものだった。

舌が回らないことに意識が逸れて音程が飛び、腹にわだかまる解消されない快楽のもやつきに、咽喉から出る声も震えて弱い。

「ぇうぅ……っ!」

言われた通りに一フレーズうたって予想に違わず、カイトはがっくりと床に手をついて項垂れた。

「じ、じかん……あと、もぉちょ……っ、やしゅ、ん……っ」

「あ゛?」

ぷるぷるしながら懇願するカイトを、八桂月は険しい表情で見下ろす。

普段、溺愛するカイトには向けない類の目線ともいえたが、だからといってがくぽに向けていたようなものとも違う。仕事人の、プロとしての職人目線と言おうか。

その視線は戸惑いながら、がくぽにも向けられた。

「なんだ?」

「ち…っ」

こういうときには敏く反応するがくぽにきっぱり見返され、八桂月はごくまっとうに険悪な舌打ちをこぼした。

「悪びれろ、ちったぁ」

「色っぽくていいじゃないか」

「わる……っ!!」

相変わらずの悪びれなさに、カイトは愕然と、ある意味絶望を浮かべてがくぽを見た。

そういう手合いだとわかってはいるが、わかっていることと納得できること、受け入れられることというのは違う。

がくぽはそんなカイトを、にっこりにこにこ、悪意の欠片もない無邪気な笑みで見返した。

「色っぽかった。ぞくぞくする。カイト、やっぱり誘って」

「ねえよ」

「にゃいっ!!」

主従に揃って否定されたが、がくぽはめげなかった。

いわばこの、情報処理能力の高さと感情面の機微の繊細さゆえに、精神面の脆さが一部弱みとなる『がくぽ』シリーズとしては突出した打たれ強さ、メンタルの強さこそ、本来的に彼のマスターの育成の成果の最たるところなのだが、諸々に打ち消されてあまり評価されない部分でもある。

しかして評価されようがされまいが、がくぽには知ったことではなかった。なぜならメンタルが強いからで、メンタルが強いとはそういうことだった。

「否、誘っているかどうかじゃなくて、それで誘ってくれたら最高だよなっていう。誘わない?」

「ねえよ!」

「……………」

「カイト?!」

否定の言葉を吐かず、ぶすうと拗ねた顔で黙りこんだカイトに、八桂月が悲鳴を上げる。

なぜといって、カイトはくちびるを尖らせ、拗ねた顔こそつくったものの、目元はほんのり染めて恥じらう様子だったし、俯いて殊更な上目となって、ちらちらとがくぽを窺っていたのだ。一度は離れた体も寄り添うようだし――

「カイト……」

「ふゃ……」

がくぽの笑みが無邪気から無の冠を取り、爛れた色香を漂わせ始める。

「んだぁらぁ、てめえ、このイロ紫……っ!」

懲りない相手に一歩踏み出し、八桂月は実力行使とばかり、カイトもとい、うっかりめろりかけているねこにゃんこの首根っこを掴むと、大型わんこの下から引きずり出した。

「おい。カイトに乱暴するな?」

「しねえよ。俺がかわいいカイトに……」

ふいと、花色の瞳を冷たく凍らせて鋭く投げたがくぽに、八桂月はいつもの決まり文句を返そうとして口ごもった。

「ましゅ?」

相変わらず腰砕けから復活していないカイトは床にへたりこんだまま、襟首を掴んで固まった八桂月をきょとんと振り仰ぐ。こちらはがくぽと違い、八桂月が――マスターが自分に痛い目を見せるなど、欠片も疑っていない。

いわば無垢で無邪気な信頼に満ちた瞳で見つめられ、見返して、八桂月は表情を凄惨に歪めた。

「ましゅ……」

「ああ畜生ッ!」

呂律が回らないまま、懸命に案ずるカイトに叫び、八桂月は思いきった。

ところで補記すると、八桂月は自分のあまり土台のよろしくない三白眼由来のアレコレ想定内なお約束的人生経験の中で、非常に思いきりのいい性格となった。

非常に、だ。

険悪だったのも凶悪だったのもそこまでで、思いきった八桂月は一瞬で普段の通りに戻り、微妙に腰を浮かせて臨戦態勢を取ろうとしていたがくぽを見た。多少の含みはあれ、もはや先の怒りはない瞳で。

そして言った。

「てめえも来い、がくの字。時制もんだろ。仕様がねえからな。間に合わなかったら、も一回ヤれ」

「……は?」

「あぇ?」

ロイド二人が字義通り、目を点にしていたが、思いきった八桂月は気にしなかった。

未だ自力では立てない、生まれたての仔鹿同様にぷるぷる震えるカイトをひょいと腕に抱え上げると――ところでまた補記すると、八桂月はそれほど体格に恵まれているほうではない。日本人的一般男性の標準といったところで、中肉中背、カイトとがくぽの中間あたりといった体型なのだが、筋肉のつきはさすがにアレコレな経験の結果、この場にいる男三人の中では一番で、ついでに言うなら『運搬』についてもこの三人の中ではもっとも、物馴れていた。

言っても、これまでの人生で『運搬』したアレコレと比べれば、カイトだ。一目惚れした挙句、人生を百八十度方向転換させた相手なので、自分の子供でも抱くようにしぐさは丁寧だったが、それにしても幼子でもない体格の相手を軽々と腕に抱え上げた。

そうして『餌』を確保すると、八桂月は未だ中腰で固まっているがくぽをちらりと、流し見た。

「てめえは抱えねえぞ。自分で歩け」

「って、待て。それはもしかして」

「これだと思うんだな」

予感を確信に、意図を手繰るがくぽに、八桂月は多少の忌々しさは含め、しかしさっぱりと答えた。なぜといって、先までもやついて明確に掴みきれなかった『なにか』がようやく掴め、すとんと落ちて、ある意味非常にすっきりしていたからだ。

ということを、八桂月は、きっぱり言った。

「この色香だ」

「にゃ゛っ?!」

大人しく抱えられていたカイトだが、示された方向性に震撼し、ぴしっと仰け反った。そんなことをされても小動ぎもせず、八桂月は考えかんがえ、眉をひそめて方針を説く。

「音程が飛ぶのぁ、まあ、あとで調音できるだろ。呂律と滑舌は、様子を見ながら調整するしかあんめえよ。で、調整役だ。がくの字、使ってやっから、感謝してへえこらついて来い。ああ、ヤり過ぎンじゃねえぞ。あくまでも『調整』だからな。調子こいたらゲンコだ」

「『調整』って、使ってやるって……」

今のカイトの呂律と滑舌だ。なにをどうした結果の産物かという話だ。ナニをどう――

調整の仕方といえば、同じことをしろということだろう。アレを再現しろと。

付けこむ隙は見逃さない男、それががくぽだ。

そうだとしてもだ。

「いくらなんでもそれは、虐待だろう?!性的虐待だ!!そんなやり方で、カイトにうたわせようだなんて……ハチミツは、ナニを作ろうとしている?!」

轟と吼えたがくぽに、『本物』の修羅場に馴れきったカイトのマスターは飄として、いつもの決まり文句を返した。

「ナニを作るだなンざ、決まってる。俺のかわいいカイトの、最高な声でうたわれる、うただ。虐待だとはッ、俺がかわいいカイトに、ンな真似すっかよ」