7-よかれ悪しかれとは言えど

「まあ、言ってもがっくんだってそうそう、お子さま顔なんかしていれないから。嫌でもなんでも、ね」

「あぁん?」

ひとしきり爆笑して気が済んだところで有為哉がそう言い、体格的にも性別的にも自分より遥かに力の劣る彼女が抑えるまま堪えていた八桂月は、険悪な表情を向けた。それはもう、腹を決めた幼子であってもおもらししながら大泣きするような表情だ。

もちろん、腹を決めた幼子も脅しつけてはいけないが、愛を誓って籍を入れた相手に向けていい表情でもない。

けれど有為哉が制止のために肩に掛けた、そう、実際のところ『掴んだ』レベルではなく『掛けた』程度の力の手を、払い退けることもないのだ、この夫。

有為哉は笑い過ぎて滲んだ涙を指先で掬いつつ、不器用な伴侶へ小器用なウインクを飛ばした。

「そういうもんでしょ?」

「………そういや、ヴィイ、おまえ」

不審を宿しながら身を引き、再びチェストに腰を預けた八桂月は、カイトの次に愛する、つまり人間としては一番めに好きな相手を上から下からじろじろと、無遠慮に観察した。

「まだ聞いてねえな。医者だよ。病院。結果。報告しろ」

横柄な口調で命じる八桂月だが、有為哉が気分を害することはなかった。むしろ生き生きと輝いて、得意顔で胸を張る。

「んっふん聞いておどろけ見てひれふせー!」

なんだか仰々しいことを前置いたうえで、さらに仰け反るほどに胸を張る。否、正確に言うと、腹を突き出した。

「フェアリーちゃん確定でーすッあたしきょぉから、ニンフたん!!」

「ほえ?」

得意満面と主張されたが、言っていることが謎だった。

フェアリーでニンフで、つまり人外生物、ファンタジカな転身を果たしたと、神話時代ではなく現代の、科学もいい感じに進んだ、この日本で――

否、考えようによっては、クールジャパンなどと言ってオタク文化、ファンタジカを売りにしていた日本であればこそ、科学の発展がそちら方向に進んでしまい、うっかり迂闊に医者に行ったが最後、カフカ的、否、カフカより少しはましかもしれないがどのみちアレ的転身を以下略。

言っては難だがしかし、実にKAITOシリーズらしい思考のぶん回し方でもって混乱に陥ったカイトだったが、有為哉の発言が処理不能できょとんぱちくりとしたのは彼だけだった。

こういう手合いと理解したうえで結婚した八桂月は、やや呆れた様子で眉をひそめ、彼女の発言に訂正を入れた。

「『今日から』じゃねえだろ。症状を自覚したうえで、陽性反応まで明確に出るころにゃあ、月単位経過してるもンだ」

――残念三白眼で、若く、否、少年期のアレコレに荒れた生活の賜物から、物腰や言葉遣いも非常に残念めな八桂月だが、妻の発言に対する訂正の入れ方をよくよく考えるに、とても真面目なのかもしれない疑惑がある。少なくとも、律儀は疑いようがない。

それはそれとして、有為哉の謎発言をきちんと理解したうえでの、八桂月の訂正だ。

そしてこちらはもっと明確に反応したのが、カイトを抱えこんでいたがくぽだった。

相変わらずカイトをぬいぐるみ抱きしているのだが、わずかに腰を浮かせ、身を乗り出し、きゃっきゃと無邪気にはしゃいでいるマスターを凝視する。

より正確には、その突き出され、誇張される腹部を。

「何か月だ?!いや、予定日はいつだと?!」

「ぁ……」

そこまで来て、カイトも会話の意味を悟った。

そもそも、本日のメンタル強豪主従こと、有為哉とがくぽの外出先だ。

医者、病院だが、がくぽは先にも述べた通り、禁煙の仕上げとしての口内クリーニングで、歯科医へ行った。

だが有為哉は、その保護者として付き添いに行ったわけではなく、もしくは自分も口腔内に問題を抱えて同伴したわけでもなく、彼女は彼女で別の医者に掛かったのだ。

産婦人科だ。

理由といえば、朝食の席で言っていたのが『レモンがおいしいのはお得かどうか、それが問題に、成り得ると思うどう思うハムサンドもといハニー?!』で、対するハムサンドハニーこと八桂月の回答が『俺が食ってんのぁ、ハムサンドじゃなくてハニートーストだ』だがつまり、要するに常になんだか難解な彼女の言い回しを解説するなら、フェアリーというのは妖精、『陽性反応』であったということの言い換えであり、もしくは腹に宿ったものを比喩的に称した言葉で、ニンフはそのまま、妊婦――

「あ……っ!!」

カイトは先とは違う意味で瞳を見開き、がくぽと同じく、有為哉の腹部を見つめた。平らだ。いい意味でということだが。

だが、わずかな知識を総動員するに、確か妊婦がいわゆる『妊婦らしい』体つき、腹具合になるのは本当に臨月も近づいてからで、まだまだこれから――

「んふふっ四か月だってはにむーべいべぁっハニーの子だけに?!ウケるッ!」

「いや、オヤジギャグもいいとこだろそれ。ウケてンな、二十代女子が」

「ジョシとかッニンフたんな以上、あたしもう、りッッパなオトナですからあッ?!これからはゴフジンと呼んでいただこうかしら、ハニー?!」

「あ貴腐人?」

「それでもイイッてかそッち?!のが、むしろイイッ!!貴腐人ッとうとうあたしもランク貴腐人ッ!!」

「イイのかよむしろイイのかッ度量広ぇな、もともとわかってたけどよ!」

――つまりいわば、この夫婦は似たもの夫婦なのだ。外見や言葉遣いや諸々差し引いて中身を見ると、実によく似たもの同士の、ウマの合った夫婦だと言うしかなくなる。

ので、放っておくと延々と、めおと漫才という名の、方向性の不明ないちゃつき倒しが続くわけだが。

「…っっ!!」

「カイトって、かい、っ!」

それまで非常に大人しくがくぽの腕に収まっていたカイトが、唐突に猛然と暴れ出した。否、正確に言うとがくぽの腕から出ようと足掻いているだけだが、それにしても前触れもなく突然で、しかも慌てるあまりに言葉が置き去りになっている。

意図が読めず、反射で抵抗しようとしたがくぽとの攻防数瞬、なにかやりたいことがあるらしいと察してくれたがくぽがようやく腕を緩めてくれて、カイトは飛び出した。

「……っ、っっ……!」

「んカイト?」

さすがの溺愛と言えばいいのか、めおと漫才で嫁さんといちゃつき倒していても、滅多になくあたふたとするおっとりさんに、八桂月は目敏く気がついた。

なにかあったのかと訊くニュアンスで名を呼んだが、当の溺愛される慌て中のおっとりさんもとい、カイトはそれどころではなかった。なぜなら、滅多になくあたふたと大慌て中で、大慌てということはそういうことだからだ。

マスターの呼ぶ声を右から左に流し、カイトはリビングの窓辺に置いてあった大きなクッション、座椅子的なソファの役割をもまた果たせるというのが売り文句のそれを、部屋の中央、自分たちのそばへ、あぶおぶと運んで来た。

運んで来たカイトはただ床に下ろすだけに終わらず、ぺふぺふぺそぺそと表面を軽く叩き、きれいに均す。

もとより形が崩れるような材質ではないのだが、カイトのしぐさも表情も真剣そのもので、もっと言うなら非常に丁寧なやりようだった。

「……んっ!」

おっとりさんにしては手早く、どうにか満足できるレベルまで整えると、カイトは擬音にするならぎゅりりんと、音が聞こえるほどの勢いで振り返る。

その、いつもは穏やかに揺らぐ湖面の瞳が狙いを定めるのは、自分のマスターである八桂月――の傍らに立つ、有為哉だった。

「ほぇッあたし?」

「んっ!!」

ぎょっとする有為哉に構わず、カイトはその細い手首を掴むと、ぎゅいぎゅいと引っ張った。