9-かわいいあのコのお年頃

「ない、だろうか……」

非常に疑わしげに、がくぽは瞳を細めた。なんだかあまり、情操教育に良くない気がとてもする。

しかしまあ、八桂月ひとりで子育てをするわけではないし、母親が母親である。アレだ。言いたくはないが、なぜならがくぽにとっては自分のマスターのことであるので、非常に言いづらいことこのうえないが、アレだ。

しかもすでにいる家族には、研究者連中がちょっとばかり気張り過ぎてやり過ぎたと言われるような美貌のがくぽと、一般的な評価はどうあれ、少なくともこの家の夫婦からは揃って『天使ぱない』と太鼓判の、おっとりふんわりさん保証付きなカイトがいる。

「………まあ、なんとかなるか」

――平和なところに結論を落ち着けたともいえるが、そもそもまっとうに生きる八桂月に対し、非常に失礼な疑惑を抱いたうえで、失礼そのまま結論に達したとも言える、がくぽだ。

幸いにというか、がくぽが思考を遊ばせていたのは情報処理能力の高さを謳われるシリーズらしく、ほんの一瞬、束の間のことであり、そして八桂月が突きつけられた自分のニコ中――ニコチン中毒の具合について、わりと真剣に検討し、外界情報が遮断されていたその瞬間だった。

無為ないがみ合いのネタをこれ以上提供することもなく、がくぽの一瞬の思考に気がつくことはないまま、八桂月は再び、鼻を鳴らした。

「俺が止めるっつったもンはな、止めンだよ。やるっつったこたぁ、やる。四の五の、心配してもらう必要は、ねえよ」

「僕が心配しているのは、マスターと子供のことだ」

きっぱりとした宣言につれなく返し、がくぽは肩を竦めた。

「しかし、そう言うおまえは評価しないでもない」

つれない声音まま、けれど言葉は肯定だ。

がくぽは用は済んだとばかり、くるりと踵を返し、八桂月に背を向けた。

ところで、多少、面食らったように瞬きした。

チェストそばで微妙に緊迫感を漂わせていた二人を、未だ抱き合ったまま、有為哉とカイトが見つめていたことに気がついたのだ。

しかも、わりとつぶらな、つまり特に心配だとかそういった感情はないが、ではどういった感情からかと問われると答えに窮する、強いて言うなら、とても無邪気な瞳で。

有為哉は抱きこんだカイトの頭にことりと頭をもたせかけ、くちびるを軽く持ち上げてがくぽを見返した。見たことのある構図で表情だと考え、がくぽはどこかの聖母子像を思い出した。なにかが思わせぶりな、けれど疑うべくもない愛情はきっと、そこにある――

対して抱きこまれたカイトは、概ね芯から無邪気なようだった。難しい話がこじれることなく終わったとだけ見て取ると、自分のマスター、八桂月へ、にっこり笑いかけた。

「マスター、今日、お祝いごはんご馳走!!なにする?!」

「あー、まあな。そうだな……」

にこにこと呼びかけられ、八桂月は顎に手を当てて目を上に向けた。そうやってメニューの候補を探る夫に、有為哉が元気よく手を上げる。

「はいはいはいデザートにケーキをご所望お祝いだしケーキけーきけぇえィくッなんか今日は、食べれる気するし!」

「気だけだろ。どうせ生クリームのにおいを嗅ぎゃあ、またおえおえ言うに決まってンだ」

元気いっぱいリクエストした奥さんを見ることもなく、八桂月は相変わらず上目でメニューを検討しながら、つれなく答えた。

とはいえ、それだけで終わるわけでもない。

有為哉が根拠もない自信を突き返す前に、やはり相変わらずの上目の上の空まま、続けた。

「だがまあ、確かに祝いだ。らしいもンがなきゃあ、締まらねえな……仕方ねえ、レモンゼリーをケーキ風に飾ってやるから、それで耐えろ。ああ、否……そうか。紅茶を買いに行かねえとか。あと………そうか。多いな。ちょいと大がかりに買い直しするしかねえか」

「マスター?」

どうやら思考内において、高速で冷蔵庫やらの中身を検めているらしい八桂月に、カイトはきょとんとして首を傾げた。

「紅茶、まだあるよ昨日、買い出ししたばっかりだし、お祝いでも、メインだけ買い足せば、なんとか…」

「うちにあンのはな、カイト。カフェイン入りばっかなンだよ。レスは買って来ないとねえンだ」

未だ思考内でリストを検めつつ、微妙に上の空で、八桂月は答えた。それでも答えたのはなぜかと言うなら、決まっている。かわいいカイトからの問いだったからだ。

対して、応じたのは有為哉のほうだった。

「なんでだってカフェイン摂るもんでしょ、紅茶って。コーヒーでもそうだけど。レスなんか買っても、使い道ないじゃん」

「あンなあ」

ほとんど無邪気な言いように、八桂月はぴりりと眉間を引きつらせた。ぎろりと、決して最愛の相手を見るものではない目つきで、大きなクッションに埋まるように座っている奥さんを睨む。

「ニコもそうだが、妊婦に良くねえもンの代表格だろうが、カフェインなんざ。ったく、仕様がねえな、ヴィイ。そういうこと言ってンならおまえしばらく、外で飲むもん買うんじゃねえぞ。どうしても買うなら、水だ。色つき香りつきの茶が飲みたけりゃ、いつもの弁当にレスの茶をつけてやるから、しばらくそれで凌げ。ああ、ハーブ系にも絶対手ぇ出すなよ。ありゃあ、なンでもねえ人間にはクスリになっても、妊婦と胎児にゃあ、強過ぎて逆に毒だ。あとはな………ったく、放っとくと、ろくなもん飲まねえ予感しかしねえわ、畜生」

「うぁあぃー………」

まくし立てるように説かれ、くるりと目を回して呻くような返答をした有為哉はぽこぽんと、自分の腹を叩いた。

そこはまだ、平らだ。いい意味でということだが。

一般に有名な、赤ちゃんがおなかを蹴るだのといったあれは、もっとずっと先、この腹の形がそれらしく変形してからのことだと医者に言われた。

ちなみに有為哉は産婦人科医に妊娠を告げられた瞬間、『え、でもまだおなか蹴っ飛ばされてないよ!』と反論し、それに対しての医者の回答がそういうものだったのだがそれはともかく。

カイトも勉強して母体を支えると言ったが、実のところまったき当事者である有為哉に、妊娠や妊婦ということに関する知識が絶対的に足らない。不足甚だしい。

これでは周囲がいくら気遣っても、胎児にいずれ危険が及ぶ可能性は否定できない。

「うーん、買い直し――買い出し、ね。うん。カイトちゃん、荷物持ちついでに、あたしといっしょに本屋さん、行こっか」

「んうん、いいけど。絵本買うのなに買う?」

微妙に気が早いカイトの問いに、有為哉は笑いつつ、ぽこぽんと自分のおなかを叩いた。

「べんきょー、するの。カイトちゃんだけでなく、あたしもね。なにが良くてだめか、あたしもちゃんとは、知らないし……知らないって、わかったし今。うん。それに勉強って、たぶん、ひとりでするより何人かでしたほうが、たのしかったし。だからね、とりあえずなんか、教科書探しいこっ!」

「ぅん?」

元気いっぱいに言う有為哉に、束の間きょとりとしたカイトだが、それはつまり、女性というのはみんな、妊娠というものについてちゃんとした知識を持っていて、良いも悪いもわかりきっているものではないかという思いこみがあって、それを否定されたことになるからなのだが、どちらにしても提案としては悪くない。

いや、いいほうだ。

カイトだって、よく知らないことを自分ひとりでいちから勉強するなど、言いはしてもとても大変だとわかっていたし、正直どこから手をつけたものかが非常に悩ましかった。

有為哉の提案は渡りに船というものだし、なによりわからないことをわからないと誰かに訊くときに、これほど心強い味方もいない。

「うんっべんきょーいっしょにしよう、いうちゃん!」

元気いっぱいに答えて、カイトと有為哉とはぱんぱんぱんと、両手を打ち合わせた。

ある意味、こちらのほうが非常に『主従』らしくはある。なんというか、ノリやテンションといったものがという話だが。

ならば、八桂月と『自分』はどうなのかというと――

微妙な思考を転がしつつ、がくぽはメモ用紙に買い物リストを書き出し始めた男を非常に不審げに、胡乱気に――つまり、なんだかとても嫌そうに、見た。

母体及び胎児にニコチンが悪いと思い出させてやったら即座に禁煙を決め、そして今、うっかり気味な有為哉がやらかしそうな失敗を先に防ぐ方策を出し、それ以前に肝心の母体である彼女も知らなかったカフェインの有害性を指摘し――

「そういえば僕は、今、思い出したが……カイトはごはん作りだの掃除だのを手伝うと、マスターに言ってたけど、そもそも家事はほとんどすべて、おまえの担当だな、ハチミツ?」

「あああ、だな。弁当含め三食におやつ、掃除洗濯ほとんど俺だな。ああそうか離乳食のレシピも仕入れにゃあ、なンねえってことかそれはあれだ、まだ生まれてっからでも……否、なにがあるかわかンねえか。土壇場でばたつくより、予測できるもんは、先にヤっとくにこしたこたぁ、ねえな。転ばぬ先のなンちゃら憂いなしだ。したら、本屋組に、ある程度目星をつけて……」

がくぽの問いにさらに思考を飛ばし、八桂月はタブレット端末を取り出すと『離乳食』で検索を掛け出した。

これは、残念三白眼な男である。

そのご面相から想定できるお約束な人生を外れず歩いてきた、少なくとも途中までは歩いてきた、言動にも多少の過去を引きずる、ちょっとあちら気質な男である。

が、しかしだ。

がくぽはどうしても眉間に刻まれる深いふかい皺をなんとか揉み解そうと無為な努力をしつつ、吐き出した。

「僕は、おまえに関して思うことは多いが………なによりも解せないうえに納得できないのはな。おまえがどうやっても、なんだかとてもいい父親でいい夫になりそうな気がして、実際少なくとも今、マスターにとってはいい夫である気がして、仕様がないってことなんだ!」

――それは願ったり叶ったりの、望むべくもない、本来的にはとてもいいことのはずなのだが、がくぽは自分でも言った通り、この考えに納得できていなかった。

言葉だけでなく、声音に表情に、すべてからそれがありありとわかるがくぽの様子を、タブレットからちらりと目を上げて確認した八桂月は、小さくため息をついた。

「さっきからてめえは、子供こどもコドモって、自分のことを言ってたが……つまり、アレか。その『子供』ってのぁ、『難しいお年頃』ってやつのことかそうか……」

ぼやきつつ、無造作に手が伸びる。

まるきり『子供』扱いで頭をぐしゃくしゃと撫でられ、それはもう、カイトで鍛えに鍛えられた素人ではないやりようで、ツボを確実に心得た八桂月のそれに、つまり『むずかしいお年頃』であるがくぽはもちろん、『むずかしいお年頃』らしい反応でもって、返した。