ンヨクンヨク-1/2-

「あー………」

室内に、意味もなく上げた声が不安定に反響する。

揺らぐ自分の心のようだと思考の片隅で思いつつ、がくぽは湯気に霞む天井を仰いだ。

いったいどうして、こうなったのだったか――

「んーっ、ん……っ」

「………」

霞む天井とともに思考も霞ませようとしたがくぽだが、そうそう思う通りにはいかない。

どんなにあえかなつぶやきでも聞こえるし、見るな見るなとは思っても、見ずに済ませられもしない。

なにしろ室内は狭いし――相手は目と鼻の先にいて、そして全裸だ。

口説くと宣言した相手が至近距離に全裸の状態でいて、いつまでも意識を逸らしておけるほど、がくぽは枯れてもいなければ人格者でもない。

しかし枯れてもいなければ人格者でもないとわかっているにも関わらず、どうしてこうなったのか。

「ぅぐ……」

思考が堂々巡りに最初に戻り、がくぽは小さく呻きながら体を浴槽に沈めた。

そう、現在地は浴室――風呂場、もしくはバスルームだ。

名称なんであれ、簡潔明瞭に事象を言えば、入浴中。

一日の終わりに全身の汚れを落とし、昂ぶった神経を宥めてリラックスするはずの、その時間。

だが、がくぽは現在、リラックスとは程遠い心境にいた。そのうえ神経の昂ぶりは、これまで経験したことがないほどのものだ。

初ステージですら、ここまで昂ぶらなかったような記憶がある。いや、むしろあのときは、自分がようやくいるべきところに到達したと、その確信のほうが強かった――

「んーんっ、んー………」

「………」

逸らしても逸らしてもすぐに、視線は戻る。

浴槽に沈むがくぽの傍ら、洗い場には、カイトがいる。入浴中なので、もちろん全裸だ。もちろん、全裸だ。

大事なことなので何度も言うが、浴槽に沈むがくぽも全裸だが、洗い場に座るカイトもまた、全裸なのだ。

「………っ」

どうしてこうなったのかと、がくぽは無為に巡るばかりで結論の出ない問いを、湯の中に沈んだまま吐き出した。

口は湯の中なので、ぷこぷこがぶがぶと意味を持たない音に変わるばかりで、カイトの注意を引くには至らない。

そう、意識を逸らせないでいるがくぽに対し、カイトはまったく平素と変わりなかった。殊更にがくぽを意識している様子はない。

現在のカイトが洗い場でなにに執心しているかと言えば、スポンジに含ませた石鹸を、いかにきめ細かく、大量の泡にするかということだった。先からずっと、手に持つスポンジを懸命に、ごしゅごしゅと揉みしだいている。

わずかに背中を丸めた前傾姿勢だが、これは男性的事情に因らず、単に集中のあまりだ。

元々、泡立ちがいいことが売りの石鹸であり、スポンジだ。製造され過ぎて溢れた泡が、ふわふわほろほろとカイトの膝に落ちる。膝から伝って、太腿に流れ、その先の――

「………っ」

非常に苦心して、がくぽは先へ先へと辿ろうとする視線を、カイトから引き離した。

カイトは無心だ。対して、がくぽは苦心中だ。

どうしてこうなったのか。

『そういう』意味で口説くと、がくぽがカイトに宣言したのが、ほんの数日前のことだ。

カイトを手放したくないと、独占したいという欲が強くつよく自分の中にあることを知り、それなりに熟考したうえでの、がくぽの答えであり、宣言だった。

当初は微妙に理解しきれていない節のあったカイトだが、一応はわかったと頷いた。

ついでに日常の端々で、理解出来ていないとわかるあからさまな反応もあった。そのたびにがくぽが懇切丁寧かつ根気強く説明し続け、数日経た今は、カイトもそれなりに状況を把握しつつある。

――と思っていたら、このざまだ。

基本的にがくぽは、カイトに甘い。カイトに強請られると、強請られたまま、すべてを叶えようとする傾向にある。

募る想いゆえに断れないというより、カイトの強請り方が、がくぽのツボにぴったり嵌まっているからだ。あまりにもぴったりなため、断るという選択肢が初めから存在しないことが多い。

そして今日、夕食を終えたカイトはがくぽに強請った。

つまり、いっしょにお風呂に入ろう、と。

確かにカイトに甘いがくぽだが、さすがに今回は、断るという選択肢が存在していた。

だから、全裸だ。

口説くと宣言した相手だ――『そういう』意味で。

カイトはわかったと頷きはしたが、許容したのは『口説かれる』ところまでだ。がくぽにすべてを委ねると頷いたわけではない。

実のところ、カイトの許容がここに留まっていることは、がくぽの宣言の仕方にも多少の問題がある。

が、それはまた、別の話だ。

とにかく今、差し迫って問題なのは、性欲も伴う形で口説いている相手と、二人きりで入浴するということ。

マスターには、口説くのは自由だが、強姦レイプ性行為の強要は禁ずると、前もって言われている。

言われずともする気はないがくぽだが、――ことは理性だけでどうにかなる話ではない。いくらなんでも、狭い空間に生まれたままの姿で二人きり。

募るパトスとかトポスとかポポスとか、そういうものが。

――あるので、いくらがくぽといえど今回はさすがに、断るという選択肢が思考の中でわりと大きめに表示されていた。非常に強調めで。

しかし結局、この現状。

ある意味で、どうしてこうなったのかと悠長に嘆いている場合ではない。

「ぃよっし!」

「あー、カイト」

どうやら満足いくまで、泡立ったらしい。小さくガッツポーズしたカイトが、自分の体に泡をなすりつけていく。

肌色が隠れることに微妙にほっとしたのも、束の間。

しかしかえって隙間からちらりと覗くものに気を惹かれるようなと、複雑な心境を持て余しつつ、がくぽは殊更に天井を眺めて口を開いた。

「その、俺は確か、そなたを口説くと宣言したわけだが」

「ぅんっ!」

まだなにか、理解しきれていない部分があるのかと訊いたがくぽに、カイトは元気いっぱい頷いた。ちなみに今度は、全身を泡まみれとすることに執心中だ。

がくぽに目を向けることなく、カイトは大量に作ったきめの細かい泡を、なめらかな肌に塗り伸ばしていく。

「だからさ。………俺、『がんばんないと』って、思ったんだよね」

「がん……?」

不思議な言葉に、がくぽはつい、カイトに目をやった。すぐさま後悔した。目が離せない。

泡に塗れたカイトは予測した通り、かえってチラリズム的な誘惑感が増し、色を帯びてがくぽの視線を釘付けにした。

そもそもカイトの言動は常に、がくぽにとって不可思議で理解し難いのだ。いちいち反応するなと、心の片隅で自分を罵倒するが、離せない目は離れない。

がくぽの苦労を偲ぶ気配もなく、カイトはスポンジをぎゅっと握って、こっくり頷いた。

「そう。がんばんないとって。だってがくぽ、俺のこと、口説くんでしょだから俺も、がんばんないとって……なんかがんばんないとって、思って」

「なにか……?」

「うん。なんか!」

非常に曖昧なことを力いっぱい肯定して、カイトはようやくがくぽへ顔を向けた。顔のみならず、泡で覆われた体ごと、がくぽへ向く。

さすがに大事な部分は泡がきれいに隠して――とつい確認してしまい、その確認した箇所の数と部位に、がくぽは自己嫌悪に駆られた。

カイトはこうまで清らかに無垢だというのに、自分の浅ましさたるや、絶望的だ。

実際のところ、カイトの年齢的なものや諸々から考えて、清らかだとか無垢だという表現はかえって絶望的なのだが、目の眩んでいるがくぽはそこに気がつかない。

そのがくぽに、カイトはにっこり笑って手を伸ばした。

「はい、がくぽ、いいよ出て!」

「………ん?」

がくぽの反応が遅れたのは、自己嫌悪に駆られていたからでもあるが、カイトに言われたことが理解出来なかったからでもある。

最新型で、機微に敏いと言われるがくぽだが、カイトの言動は理屈が通らな過ぎて、頻繁に理解に苦しむ。

きょとんと見入るだけで動かないがくぽに、カイトは手を伸ばしたままことりと首を傾げた。頬を上気させ、にっこりと――というより、色を含んでほんわりと微笑む。

「来て俺ががくぽ、洗って上げる………体ぜんぶ、あわあわでいっぱい………」

「あ………あー………ああ。ああ?」

言われていることはわかるが、理解出来ない。

追いつけない事態に思考を高速で空転させるだけのがくぽに、カイトは上目遣いになった。

「ね俺、がんばるから………。来て?」

カイトの強請り方はがくぽのツボを心得ていて、断る選択肢が頻繁に存在しない。

なにががくぽにとってそれほどツボなのかというと、それが意識的ではなく、無意識だという点だ。

作為に因らず、天然でカイトはがくぽのツボを押す。誰よりも正確に、強く、抗い難く。

事態にまったく追いつけず、理解も出来ないまま、がくぽは苦労してカイトから目を離し、天井を仰いだ。

霞んでいるのは湯気のせいだ。たぶん。

「がくぽ………」

「ん、うむ。まあ、………そう、だな」

呼ばれて、がくぽは曖昧に頷いた。

そうとはいえそろそろ、カイトのおねだりに対して断るという選択肢を、常に介在させるべきかもしれない。いや、時には介在させるだけでなく、断るという選択を取ることも、検討すべきではないだろうか。

さすがに危機感を募らせたがくぽだが、悠長に検討している場合ではない。すぐにも結論が必要な問題がある。

が、とりあえず言うなら現状、がくぽは未だ、カイトのおねだりを断るという選択肢を持っていなかった。

「俺もなにか、頑張ろう………なにか、な。とにかくなにか、頑張ろう………」

高速で空転する思考で、なにかはわからないがなにかを頑張ろうと心に決め、がくぽは今回もカイトのおねだりを受け入れた。