「まあしかし、そこしか盃には出来ぬというものでもない」

「はい?」

続きのように当然と話を振られたカイトは、思いきりきょとんとして瞳を瞬かせた。

-01-

話の続きもなにもない。がくぽの言葉は唐突だった。しかしもかかしもなく、なにからどう繋がってその結論に達し、いやそもそも、いったい始まりの話題はなんなのか。

「がくぽさ……?」

きょとんぱちくりとしながらがくぽの視線を辿り、カイトは自分の体を見下ろした。

嫁入りしてずいぶん経つが、未だに馴れない豪奢な着物だ。装飾が華美なのではない。むしろ色香を補い引き立たせるように、上品で大人しい色柄だ。

問題は素材、生地――

「って、盃………?!『そこ』って、がくぽさまっっ!!」

「思い至ったか」

ふわわっと一気に肌を赤く染めて叫んだカイトに、がくぽのほうはしらりとつぶやいた。手に持った盃から酒を啜り、濡れたくちびるを舐める。

「っっ!」

「ふ……っ」

たかだかそれだけの行為だったが、カイトはさらに真っ赤に染まり上がった。だけでなく、続く言葉も失って体を強張らせる。

ちらりと覗き、てろりとくちびるを舐めた、がくぽの舌のその動き――

振られた『盃』の話題とも相俟って、閨ごとに長けた夫にいいように開発されたカイトの体には一気に火が灯った。

が、それはそれで、これはこれだ。

「ま、まだ、諦めていらっしゃらなかったんですか………どうしてそうも、俺の体を盃にしたいんです?!お花見なんですから、こういうときくらい大人しく、お花を愛でてください!」

――花は盛りと咲き誇る、印胤家の庭だ。四季折々、都度都度に庭は彩られるが、毎年欠かさず行う『花見』はやはり、桜だ。

今日もがくぽはカイトを庭に連れ出し、二人きりでの花見に興じようとしたところだった。

多少散り始めた花びらの舞う下に布を敷き、カイトと並んで座る。心ばかりのつまみとともに用意した酒を、カイトが盃に注いでくれて――

ひと口目を啜りつつ、がくぽが唐突に振ったのが、『盃』の話題だった。

それはいつぞやの花見において、がくぽが提案したものだ。せっかくの花見だし、宴らしく多少羽目を外して、カイトの『体』を盃としたいと。下半身を露出させ、腿を付け合わせてちょうどよくへこみとなる部分に酒を注いで、啜るという。

遊女屋でやる、淫猥な遊びだ。どう仕込まれて開発されても貞淑な性質のままのカイトは拒絶し、がくぽも特に無理強いすることなく、その日は過ぎた。

そもそも本当にやりたいことではなくても、カイトの反応愉しみたさに、わざと淫らがましいことを強請ったりするがくぽだ。この『盃』の話にしても、カイトはそういうことなのだろうと――

思っていたら、再びだ。

がくぽは叶えられないことにこだわる性質ではない。カイトが本気でいやだと拒絶することは、決してしない。未知のことへの恐怖や怯懦で拒むことなら、多少の強引さで押し切ってしまうが、これは違う。

それでもこうしてこだわって、未練がましく話題にしてくるということは――

がくぽはどうしても、『カイト』を盃に酒が飲みたいらしい。

それも、花の下で。

カイトにはがくぽのこだわりの由縁がわからないし、意味も理解できない。遊び好きの夫だと知ってはいるが、受け入れられることと受け入れられないことはある。

なにより、恥ずかしい。

「そなたを介せば、これ以上なく酒の味が上がる。気分も揚々だ。わかっておるのに、真面目ぶって盃から飲んでどうする。ましてや己の屋敷で、二人きりだぞここで羽目を外さず、どこで外す」

「は、外すにしても、方向性というものが……」

「俺の方向性は全きこちらだ。問題ない」

「ひぅうっ!」

容赦なくばっさりと言い切られて、カイトは震え上がり、小さく悲鳴をこぼした。

押し切られる。

――がくぽはカイトが本気で嫌がることは、やらない。

しかし付記するなら、そもそもカイトはがくぽに対して抵抗を知らない。恥ずかしいと拒絶し、時に泣くが、がくぽがやることで本来的に、『本気で嫌』なことは存在しない。

だとすればあとは、がくぽのさじ加減というものだ。

およめさまがちょっぴり泣いてもいいから押し通すか、ちょっぴり泣くのも嫌なので引くか。

今回に関して言えば――

「カイト」

「ぁ…………」

素早く伸びたがくぽの手が、カイトの腰に回って抱き寄せる。抱き寄せるのみならず、帯に掛かってすでに緩め始めている。

カイトの手は迷いに惑い、がくぽの着物の胸元をきゅむっと掴んだ。抵抗しきれないが受け入れられもしない心そのままに、押し離すような、縋りついて強請るような微妙な動きをくり返す。

押しのけられれば、がくぽとてもそうそう力任せにはしない。

が、思いきれないカイトは、押しのける動き一辺倒にはならず――

「ぁ………っ」

「ふ……」

帯が解かれて、はらりと着物が肌蹴られる。明るい日の下に晒されるのは、頭上に咲く花のようにうっすらと色づいて艶めかしい肌だ。

いくらおよめさまとして飾り立てても、カイトは男だ。着物を開けば、あからさまに男が覗く。肉と脂肪による丸みもなく、どころか男として見たときにも細く、うっすらと骨が浮く体だ。

それでもがくぽにとってこれ以上に艶めかしい体もなく、これまでに以上のものを見た覚えもない。

抵抗しきれないまま、緊張と羞恥でぷるぷると小刻みに震えるだけのカイトは、小動物のように憐れで、殊更に可憐だった。

がくぽは着物を脱がせることなく、前だけを開いて止める。ぷるぷる震えながら動きを追うカイトに見せつけるように、酒の入った徳利を取って揺らした。

「がくぽ、さま………」

「そなたが嫌がったゆえな。腿は諦めてやる」

「っ、ふ、ぁ………っ」

まるで譲歩と妥協を図ったような言い方をしながら、がくぽは肌蹴たカイトの上半身に徳利から直接、酒を垂らした。

春の陽気だ。汗ばむほどではないが、日中に陽の下にいる分には、心地よく暖かい。

持ってきた酒も冬の定番で燗にしているわけではなく、蔵に置かれて冷えたままだった。

細い糸のように体を流れる酒のその冷たさに、カイトは一際大きくぶるりと震え、肌を粟立たせる。

「がくぽ……さま………んっ」

「は………っ」

「んんゃ………っ」

適当なところで徳利を置いたがくぽは、すぐさまカイトの肌にむしゃぶりつく。大きなしずくは垂らすと同時に流れ落ちてしまって、残るのは香りと酒独特の仄かな苦み程度だ。とても『飲む』という状態ではない。

しかしカイトの肌を舐め啜り、貪るがくぽの咽喉はこくりこくりと鳴り、特別製の『盃』に注いだ酒を飽きることなく味わっていた。

「ん、ぁ………っぁ、ん、がく………っふゃっ」

「ん………」

ある程度舐めしゃぶると、がくぽは肌にくちびるをつけたまま、手探りで徳利を取った。力を失くしてころんと転がったおよめさまの体に、新しい酒を振りかける。

そしてまた、しゃぶって啜り――

「ん……っ、ん、ふ、………っぐすっ」

「っっ」

ぷるぷるとした、小刻みな震えが治まることはないまま響いた鼻声に、がくぽはびくりと揺れてくちびるを止めた。

快楽に蕩けても、カイトはぷるぷると震える。

夫に押し切られれば、恥ずかしいと初めは抵抗していても、そのうち悦楽に染まって囀り、愛らしく啼く。

だからがくぽは深く気にすることなく、酒浸しにしたカイトの肌を貪っていたのだ。

が。

「………」

「ん、ふぇ………っぐすっ」

「………っっ」

嬌声も混じってはいるが、紛れもなく泣き声だ。泣いている。カイトが、夫に嬲られて。

がくぽはカイトの肌にくちびるを付けたまま動きも取れず、そのままの姿勢でだらだらと冷や汗に塗れた。

因業一族印胤家、江戸の裏を牛耳る悪家老一家の当主が、がくぽだ。中でもがくぽはその突き抜けた頭脳の冴えと冷酷さ、性質の悪さから、一族からすら恐れられ、鬼子の名を冠された。

しかしおよめさまがちょっぴりこぼした泣き声程度で、完全に動きが封じられた。

これ以上は苛むことも、押し切ることも出来ない。なにかのきっかけがあって、正気が飛んで狂いにでも堕ちなければ。

「………………なにを泣く」

非常に苦労して強張る体を起こし、がくぽは不機嫌な声をこぼした。気分を害していたわけではない。強張り過ぎて咽喉が閊え、声からもやわらかさが抜けただけだ。

相対したカイトの瞳は、湖面のように揺らいでいる。常に熱に潤んで夫を見つめ、揺らぐカイトの瞳だが、今のこれは快楽ゆえのものではない。

確かにそこに、悲しみが見て取れる。

「なにがそうまで嫌だ」

「………だって、お庭でお外で」

重ねて問われて、カイトは戦慄くくちびるを懸命に開いた。

「だ、誰に見られるかも、わからないのに……こんな」

「今さらであろうが」

「そ、れでもっ」

――いつもならあっさりと折れるおよめさまだが、今日は頑固だった。

無茶苦茶ではあるが、がくぽの言い分の方がある意味で正しい。今さらだ。印胤家当主の思いつくことは常人の理解を軽く超え、行いは常人の許容範囲をなぎ倒す。

カイトは客人の前で体を開かれることも、多かった。もちろん、男とばれないように肝心のところは隠されているが、あからさまに愛撫に晒され、嬌声を響かせられることはもはや日常だ。

印胤家当主はおよめさまに耽溺しており、屋敷にいるなら片時も離すことはない。どんな大事の客であろうが、秘匿の相手であろうが、構うことはない。必ずおよめさまを同席させる。

そしておよめさまが傍にいるなら、常に蕩かして啼かせていたい。

それをして赦されるのが印胤家当主というもので、赦されるように普段から周到に策を練っているのが、がくぽの仕事の大体だった。

それから言えば、今はまだ、いいほうのはずだ。

屋敷の庭内で、客もいないから家人だけだ。その家人にしても、当主がおよめさまと二人きりで愉しみたいとつぶやけば、まるでいないかのように形を潜める。

溺愛するおよめさまとの時間を、罷り間違って邪魔してしまったときの当主の怒りは、欠片も想像したくないものだ。

だから誰に見られるかわからないというカイトの言葉は、ある意味で見当違いであり――

「………だ、だって………っ、………………お、ればっかり……いつも、こんなっ………はずかしぃ………っぐすっ!」

「………っ」

つぶやいていたカイトの瞳から、とうとうしずくがこぼれた。ぼろりとこぼれたそれに自分で絶句してから、跳ね起きたカイトは肝心要の嗜虐者であるがくぽの首に腕を回し、きゅうっと縋りつく。

ぐすんぐすんと洟を啜り、溢れる涙を懸命に散らしながら、カイトは己を責め苛む夫をそれでも愛し慕って、離れない。むしろきゅうきゅうと、力を込めて縋りつく。

ほとんど反射だけで抱きとめ、がくぽは幼子でもあやすようにカイトの後頭部を撫でた。

実際、今さらだ。これ以上のことなど、いくらでもしてきた

おそらくなにかしらの堰が切れたか、どこかの我慢の緒が切れたか――

理由がなんであったとしても、がくぽに責められることではない。やり過ぎたのだ。なにをしてもカイトは赦してくれると、すべて受け入れると、調子に乗り過ぎた。

「………っ」

「ん………ぐすっ、………っ」

きゅっとくちびるを噛み、がくぽはカイトを抱く腕に力を込めた。カイトは痛いと文句を言うでなし、抱いて誤魔化さずに弁明しろと詰るでなし、ただがくぽに擦りつく。

本来的には赦されているのだろうと、がくぽは思う。だからといってここで調子に乗って、力で押し切っていいわけではないということも。

「わかった」

「……………がくぽ、さま?」

唐突に頷いたがくぽは、縋りついていたカイトの手をやわらかに引き剥がした。多少の乱れはあるもののきっちり着ていた己の着物に手を掛ける。

目尻を濡らしながらもきょとんとしたカイトの前で、がくぽは帯を解き、脱ぎ落さないままに着物を緩めて肌を曝け出した。

均整の取れた、美しい体だ。無骨にして隆々の筋肉で鎧ってもいなければ、余分な脂肪に覆われてもいない。程よくついた筋肉は体を引き締めてむしろ華奢に見せ、それでいながら頼りがいを持って抱く相手に応える。

カイトとはまた違った意味で艶めかしく、壮絶な色香を放つのが、がくぽの体だった。

「ぁ………」

日中に晒された体に、カイトは涙も忘れて陶然と見入る。

単に鑑賞するだけにも堪える、美しい体だ。だがカイトにとっては、ただ美しいだけのものではない。

この体は力でもって、あるいは奸計で、もしくはひたすらな愛情に満ちて、カイトを押し倒し、慰撫して愛撫し、とろとろに蕩かしてしまうものだ。

カイトの体を快楽器に変えて、かん高い声で啼くだけのイキモノにしてしまう――

「………ふ」

涙が止まったことを視界の端で確認し、がくぽのくちびるはあえかに綻んだ。だからといって手を止めることもなく、徳利を掴むと視線を呼ぶように軽く振る。

「………っ」

ぴくりと震えたカイトが涙を思い出すより先に、がくぽは徳利を己の体に傾けた。