ふと瞳を開くと、がくぽは眉をひそめた。

布団は被ったまま軽く半身を起こすと、傍らでぐっすりと眠りこむカイトの体をわずかに抱き寄せる。

夢繚乱噺-15-

「何用だ」

低く問うと、小さな笑い声が上がった。

「お別れのアイサツに来たんだよ」

明るい、けれど潜めた声で答えたのは、忍び装束に身を包んだミクだ。いつの間に来たのか、窓の桟に腰かけている。

抱き寄せたカイトから手を離し、がくぽはかりりと首を掻いた。

まだ暗い。

ミクの背後に垣間見える空もまだ白む色でもなし、いかに早起きの農民だとて、今はまだ夢の中だろう。

ましてや夜の大国、吉原ともなれば、誰もがようやく眠りに就いたばかりで、耳元で鐘を鳴らされても起きないかもしれない。

決してひとの気配に疎くないカイトですら、こうして妹の訪いに気がつかずに眠っているくらいだ。

――ただしカイトの場合、がくぽへの信頼感から彼が傍にいると気が緩んで無防備になる傾向にあるから、これはなんとも言い難いが。

「こんな時間だし、後でちゃんとお屋敷のほうに行って、グミちゃんたちにも……とも、思わないでもなかったんだけどね」

「ふん」

鼻を鳴らし、がくぽは手を伸ばした。暗がりの中でも迷うことなく、枕元に据えた煙草盆から煙管を取ると、淀みなく煙草を詰め、火を入れた。

布団に寝そべったまま、煙管を咥える。

「好きだね、ほんと」

「放っておけ。………ん」

呆れたように笑ったミクに顔をしかめてから、がくぽは傍らを見下ろした。

「………ん……」

小さく呻いたカイトが、瞳を開く。

がくぽが半身を起こしたことで夜気に晒された裸の肩を撫で、怠い瞼をこすった。

「………くぽさま……?」

「済まぬな。起こしたか」

「ん……」

煙管を片手に持ち、空いている手で布団を寄せてやるがくぽに、カイトは手を伸ばす。首に掛けて引き寄せる動きに逆らうことなく、がくぽは身を屈めた。

「んく……」

軽い音を立てて、触れるだけの口づけを交わす。

がくぽは微笑んで、半分眠っているかのようなカイトの頬を撫でた。

「寝ていて良いのだぞ」

「ん、でも……」

落ち着かなげに身動ぎ、カイトは座敷の中に視線を彷徨わせた。

馴れた屋敷ではなく、吉原の借り宿だという以上に、なにかが気にかかる。

眠たげに原因を探る瞳が、窓の桟に腰かけたミクを認め、ぱっちりと見開かれた。

「ミク?!」

「いえす、おにぃちゃん☆」

この距離と暗がりだと見えないのも構わずに片目を瞑って応え、ミクは座敷に足を下ろした。とてとてと、形容するならそんなかわいい足取りで、けれどまったく音を立てずに夫婦の枕元にやって来て、へちゃんと座る。

「お別れに来たよ、おにぃちゃん」

「お別れって…ふわっ」

慌てて体を起こしたカイトは、すぐさまがくぽによって布団の中に引き戻された。半ば体の下に敷かれて、押さえこまれてしまう。

ふたりとも、なにも身に着けていない。触れ合う素肌の感触に、カイトは上がりそうになる声をくちびるを噛んで堪えた。

「………ミク」

「うん」

兄夫婦の様子に忍び笑いを漏らしていた妹に、カイトはがくぽに組み敷かれたまま視線だけ投げる。

「『帰る』んだよね、里に?」

「もち☆」

片目を瞑って親指を立てるミクに、カイトはがくぽの肩へと縋るように手をやった。

「ルカちゃんは?」

「…」

暗闇の中では見たくない種類の笑みを浮かべ、ミクはしぐさだけはかわいらしく小首を傾げた。

「ゴキゲンで寝てる☆」

「………」

カイトは眉をひそめ、縋りついたがくぽの肩に爪を立てた。

「ゴキゲンで寝かせる」ために妹がどんな手段を取ったか、想像がついてしまうのが悲しい。ミクは手段を選ばない――たとえ、恋する相手であっても。

いや、狂恋を抱くルカ相手であればこそ、さらに容赦なく。

「連れて帰るのか」

爪を立てられても眉をひそめることもなく、平静な声でがくぽが訊く。

ミクは愛らしい妹の顔になって、無邪気に微笑んだ。

「もち☆」

「この刻限にな」

愛らしさに心動かされることもなく、がくぽは鼻で笑い飛ばして煙管を咥えた。煙を吸う。

「迷惑料くらいは置いてくよ」

「はっ」

花魁を「盗み出す」と堂々宣言するミクに、がくぽは再び笑う。

煙を吐き出すと、体の下で身を強張らせているカイトの頬を撫でた。

「連れて帰って、――どうするの?」

静かな兄の問いに、妹は愛くるしい笑顔のまま、答えた。

「座敷牢に繋ぐよ」

どこまでも明るく告げる。

「屋敷の座敷牢に、首輪掛けて鎖で繋ぐ」

うれしそうにうたい上げてから、その笑みがほんのわずかに苦くなった。

「つまりルカちゃんは、ボクを独り占め出来ないのが、不満なんだよ。誰かと共有するなんて、まっぴらごめんなんだ。ほんとうならボクのことを座敷に繋いで、ルカちゃん以外のひとに会わせないようにして、ルカちゃんだけ見て、ルカちゃんだけ呼んで、ルカちゃんだけ求めるボクにしたいんだ」

「…」

がくぽは煙管を咥え、煙を吸う。暗闇に紛れる煙を、細く長く吐き出した。

カイトが肩に爪を立てて縋りついていて、痛い。

けれど痛いということはなにより、己がまだ正気であるということだ。縋りつく妻を、閉じこめるより守りたいと思えることが、なによりも。

「でももちろん、いくらボクがルカちゃんのことアイシテいたって、そうそう願いを叶えてあげるわけにはいかない。ボクはお屋形としてのボクに誇りもあるし、責任だってある。だから」

ミクは瞳を細めて、夫に縋りつく兄を見た。

愛らしい兄――闇の一族からすら「鬼子」と恐れられた相手を狂わせるほどに、愛らしい。

「男子すなわちゴクツブシ」の一家にあってすら、兄は紛れもなく、もっとも愛された存在だった。

この兄を愛らしいと感じ、その愛らしさに悶えられるうちは、まだ――

ミクは笑った。無邪気に、しあわせそうに。

「ルカちゃんを、閉じこめる。誰にも会わせないで、ボクだけ見て、ボクだけ聞いて、ボクだけが触れる。ボクだけのルカちゃんにする」

言って、ミクは茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせた。

「逆転的だけど、それでいいと思う。ルカちゃんの世界にはボクだけになる。ルカちゃんはほかのひとを見て、聞いて、求めるボクを見ることも感じることもなくなる。世界に訪れるのはボクだけなんだから、それはそれでルカちゃんの望みは叶ってるでしょ」

「…」

詭弁だ。

カイトは瞳を伏せ、自分を組み伏せるがくぽの胸に頭をすり寄せた。

素直に引き寄せられたがくぽはさらに屈みこみ、カイトの首に牙を立てる。

「ん…っ」

びくりと震えたカイトに、しかしそれ以上なにかするでもなく、再び体を起こして煙管を咥えた。

「ミク、あのね…」

「うん、おにぃちゃん」

頷く妹はかわいい。たとえ狂っていても。

言っていることは詭弁だが、ルカは確かに幸せにはなる。少なくとも、今よりは。

それは最上の幸福でも、真実の幸福でもないけれど――しあわせ、ではあるのだ。

それがわかるのはなにより、カイトが――

心を仕舞いこんで、カイトは微笑んだ。

「また、遊びに来てね」

受け入れてくれた兄に、妹は心からうれしそうに笑った。

「うん!!」

お互いに片手を伸ばして、軽く打ち合わせる。布団の中で温められたカイトの手はあたたかく、夜気に晒されたミクの手は冷たかった。

与えられたぬくもりを握りしめて、ミクは立ち上がる。

「がっくんも、またね」

「俺はもう会わぬでも、まったく構わんが」

つれなく言って、がくぽは煙を吸った。あさっての方向に吐き出して、暗闇ですら輝く瞳で見つめるカイトの頬を撫でる。

「カイトが悦ぶゆえな。たまになら遊びに来ることを赦そう」

「よし、ヒンパンに来ちゃる!」

義兄の言葉になにかを決意し、ミクは手を振ると窓から出て行った。

「………がくぽさま」

「難儀な妹を持ったものだな、そなた」

「う………」

カイトにとってはそれでもひたすらにかわいいのだが、他人からはそうも見えるだろう。

言葉に詰まってから、カイトははたと思い出した。

難儀な妹、といえば。

「がくぽさま、その……………グミさまと、リリィちゃんは………」

「……ああ」

がくぽ曰くの「難儀な妹」が落としていった爆弾が、結局確認出来ず終いのまま、ここまで来ている。

他人事、と割り切ることも出来るが、今となってはグミとリリィももちろん、「かわいい妹」なのだ。

がくぽは煙管を咥え、しばらくあさってなところを眺めていた。なにもないところを見つめるねこにも似て、茫洋としながらも、その瞳は鋭い。

やがて煙を吐き出すと、がくぽはあさってな方向を向いたまま、カイトの頬を撫でた。

「リリィはな。きれいなものを見ると、汚したくなるのだ」

「…」

やわらかに撫でられて、カイトは瞳を細める。がくぽの手に手を重ねると、そっとすりついた。

「汚して汚して――それでもなお、きれいなままのものを、欲する」

「グミさまですね」

「ははっ」

即答したカイトに、がくぽは笑った。煙管を煙草盆に置くと、微笑むカイトを見下ろす。

「因業な血よ。だがアレをああまで追い込んだ咎は俺にもある。ゆえにな、グミが音を上げぬ程度には、アレの好きにさせている」

「んく……」

軽く、触れるだけの口づけを落とし、がくぽは瞳を伏せた。

カイトは微笑んで、そんながくぽをまっすぐに見返す。

「大丈夫です。グミさまはきっと、大したことだと思っていません。――汚しても汚してもきれいなままのものって、そういうことですから」

「ははっ」

笑って屈みこみ、がくぽはカイトと額を合わせた。

汚しても汚してもきれいなままの――己の妻。

暗闇の中にあってすら瞳は輝き、その体は凍えた心を蕩かすほどに暖かい。

「…」

「…ぁ……っ」

がくぽの手が明確な意図を持って肌を撫で、カイトは瞳を揺らした。触れ合う体が熱を帯びているのを感じる。

「が……がくぽさまっ」

「ん?」

カイトは慌ててがくぽの胸を押した。

夫を拒みたくない。拒みたくはない、が――

「い、今は、もう……………赦してください」

「ふぅん?」

「んぅ……っ」

ついさっきまで散々に弄り倒されて、疲れ切ってようやく寝に就いたところだったのだ。いかになんでも、ここまで立て続けとなると身が持たない。

弄る手を止めようとしないがくぽに、カイトは懸命に首を振った。

「あ………ぉ、お屋敷、に、帰ったらっ………ひと眠りして、お屋敷に、帰ったら………なんでも言うこと、聞きますからっ。だから、今は………!」

「………なんでも?」

カイトのこぼした約束に、がくぽは瞳を見張った。その顔がすぐに、にんまりと性悪に笑み崩れる。

「なんでも、か?」

「う………っ」

念を押されて、カイトは一瞬、言葉に詰まった。

しかし前言を撤回するようなことはなく、こくりと素直に頷く。

「なんでも、です…………。痛いことでも、苦しいことでも、お好きにしてくださっていいです…………」

「ははっ」

きっぱりと吐き出された従順すぎる言葉に、がくぽは堪えきれずに笑う。

顔を落すと、輝く瞳で見つめるカイトの頬に口づけた。

「痛いことも苦しいことも、ようせぬ。だが……」

ひどく生き生きとして、がくぽはカイトを見つめた。

「とっておきに、恥ずかしいことをさせてやろう。泣きじゃくって赦してくれと懇願するほどに、恥ずかしいことを」

「…っ」

カイトは瞳を見開き、性悪に笑うがくぽを見返した。

どこまでも性悪で、心から愉しそうな夫。

考えることの悪辣さは、カイトになど想像も出来ない。

しばらく無言で見つめ合ってから、カイトは瞳を伏せ、微笑んだ。そっとがくぽの胸にすりつく。

「はぃ……………恥ずかしいこと、いっぱいしてくださぃ…………」

答えにがくぽは声高く笑い、カイトのつむじに口づけを落としてきつく抱きしめた。

どっとはらい