くるり

「カイト、少しぅ、話がある。そこに座れ」

「え………ぁ、はいっ」

珍しくも非常に改まった様子で夫に呼ばれ、カイトはきょとんとしてから慌てて居住まいをただした。

畳の上をにじって、示されたままにがくぽの前に座る。

紋付き袴の正装というわけではなく、まるで市井の民のような着流し姿のがくぽだ。しかし着ているものに関わらず、きりっとした表情で居住まいをただして座る姿は、江戸を牛耳る大家老家、印胤家当主としての威厳に溢れていた。

「ふぁ………っ」

正面に対したカイトのくちびるから、甘く熱っぽい吐息がこぼれる。がくぽを見つめる表情も蕩けて、体のほうも今にも崩れ落ちそうだ。

きりりとしていたがくぽだが、軽く横を向くと気まずそうに咳払いした。

「カイト」

「ぁ、はいっ。ごめんなさい、がくぽさまっ。まじめなお話ですよね?!」

遠慮しいしい呼ばれて、カイトは慌てて背筋を伸ばした。長くは続かない。どうしても、正面に対した夫の雄姿に見惚れて、崩れる。

「カイト………」

「ぁの、ごめんなさい、がくぽさま、ほんとに………でも、いつもみたいに抱かれて見上げるんじゃなくて、こうやってきちんと正対して見るがくぽさまって新鮮で………かっこいい………っ」

陶然と吐きこぼしたカイトの語尾には、なにかしら、桃色の花びら的なものが見えた。なにかしらだ。それを正確に表す言葉を、がくぽは知らない。

どちらにしても、錯覚で錯視で、幻覚だ。

「………そなたに改めて、頼みたいことがあったのだが。その、ものは試しといおうか……」

「ためし、……ですか?」

気まずさを拭えないまま口を開いたがくぽの言葉をくり返し、カイトはきょとりと首を傾げた。

珍しい。

溺愛するおよめさまであろうとも、お伺いを立てることなどないのが、印胤家当主であるカイトの夫だ。いつもなら、有無を言わせずに押し切る。

非常に素直に疑問を浮かべるカイトへ、がくぽはいつもとは違って自信なさげに、どもりながら要望を吐き出した。

「ああ。その、つまり……そなたは夫の俺を敬い慕って、常に『がくぽさま』と、敬称付きで呼んでくれるが………名前呼びするのではなく、妻らしう、『あなた』と呼んでみてもらえぬか」

「………」

求められたことの意外性に、カイトは夫に見惚れることも忘れ、しばしきょとんとし、瞳を瞬かせた。

「一度だ。一度だけ、ものは試しに………」

戸惑うカイトに、求める側でありながらより以上に戸惑っている様子のがくぽは、慌てて付け加える。

それでもきょとんぱちくりとしていたカイトだが、徐々に徐々にその頬が染まっていった。瞳に熱が宿って甘く夫を見つめ、堪え切れない感情を抑えようとするように、両手で頬を挟む。

つい見入ったがくぽに、カイトは羞恥と愛情に歪む笑みを向けた。紅を塗ってもいないのに艶めかしく染まったくちびるが開き、つぶやく。

「がくぽさま……あなた………あなたぁ………」

――がくぽの目には、カイトの語尾になにかしら、桃色の花びら様のものが大量に舞い飛んでいるのが見えた。

なにかしらだ。はっきりとはしない。幻覚や幻視、さもなければ白昼夢か走馬灯と呼ばれるものだからだ。

「ふ………っ」

しばしの後、横を向いて笑ったがくぽは、きりりと伸ばしていた体を折り曲げた。畳に額をつけ、頭を抱える。

「カイト、そなた……………っ」

「えっ、えっ、えっ?!な、なにか違いましたか?!」

頭を抱えて苦しげに呻くがくぽに、カイトはべそを掻きながら腰を浮かせた。おろおろと手を伸ばし、とりあえず丸くなっている背を懸命に撫でる。

「が、がくぽさま、がくぽさまっ、……ぁ、ちがった。え、えとえと、あの、あなた……っ?!あなた、大丈夫ですかねぇ、あなたぁ………っ!」

軽い恐慌状態に陥っているカイトは、惑乱しながらがくぽを呼ぶ。べそを掻いて震えているが、がくぽへの愛情に満ちて甘く蕩ける声だ。

頭を抱えていたがくぽだが、堪え切れずにがばりと起き上がった。カイトの肩を掴むと、べそを掻いている瞳を常になく真剣に覗き込む。

「カイト、そなたな………!!これ以上、俺をときめかせて悩殺し、そなたに溺れこませて、どうする?!」