鐘の音を聴いたような気がしてふっと顔を上げたがくぽは、くちびるを仄かな笑みに歪ませた。

暗い。

えみたもうづめ

すでに陽は沈みかけ、夕刻だ。障子を開け放している座敷の中は、真闇とは言わないが、そろそろ視界の利きが悪い。

耳を澄ませば気のせいではなく、夜の訪れを告げる鐘が遠く、鳴っているのが聴こえた。

「もう、斯様な刻限だったか………」

思わずといった態でつぶやいたがくぽは、穏やかに凪いでいた表情をすぐさま痛みに歪めた。

「これ、カイト」

多少の責める響きを持って呼ぶのは、ほんの刹那、ごくわずかに逸らした顔を力任せに己の方へ向けさせた相手だ。

いつもはおっとりとしていて、抵抗も知らずに夫にされるがまま、なすがままのおよめさま、カイトだ。

しかし今は、すべてを忘れて溺れこんだ濃密な時の余韻を残しつつも非常に不機嫌な表情で、詰るがくぽを見返す。

「がくぽさまったら」

表情だけでなく、カイトの声にも不機嫌が垣間見えた。常の通りに甘い響きで、しかも言葉はとろりと蕩けて舌足らずに覚束ないが、あからさまな不満があるのがわかる。

珍しい様子につい、見惚れたがくぽに、カイトはきゅうっと眉をひそめた。

「俺がこんなに傍にいて、がくぽさまに尽くしているのに………余所見なさるなんて。夢中なのは俺だけで、がくぽさまはもう、飽き飽きなさっているんですかそれは、俺はがくぽさまと比べたら、巧者とは言えませんけれど……」

「カイト」

確かにほんの刹那、気を逸らしはしたが、飽き飽きしたなどというのは誤解もいいところだ。

これ以上に愛おしい相手もなく、限度も底も知らずに溺れて嵌まり、沈んでいくのががくぽにとってのカイトだというのに。

苦い笑みとともに、見当違いに『おかんむり』となったおよめさまを宥めようとしたがくぽだが、言葉を継ぐことは出来なかった。

散々に嬲って弄って、暗がりにも艶めいて見えるカイトのくちびるが、ちゅくりと小さな音を立ててがくぽのくちびるを塞ぐ。

深く探ることもないままに離れたカイトは、物足らないと未練たっぷりに見つめるがくぽへ、どろりと蕩けた笑みを向けた。

「『おしおき』です、がくぽさま」

告げる言葉は、がくぽがよく言う――

軽く瞳を見張ったがくぽのくちびるに、カイトは微笑んだまま再び、くちびるを寄せた。吐息がかかるほどの距離で、しかし触れ合わずに止まり、ささやく。

「がくぽさまが俺に溺れて嵌まりこんで、もう二度と、余所見なんてできなくなるように………できなくなるまで。おしおき、しますからね、がくぽさま?」

「かぃ………」

呼ぼうとしたくちびるが、カイトのくちびるに呑まれる。

やわらかく甘く食まれながら、がくぽは堪え切れず、くちびるを会心の笑みに引き裂いた。

今さらわざわざ『おしおき』などされずとも、もう十二分にカイトに溺れこんでいるのが、がくぽの現状だ。

これ以上など、どういった状態を言うのか、さっぱりわからない。

けれど、カイトが相手となれば、――

がくぽは一度は緩めた力を戻して、縋るようにくちびるを吸うカイトをきつく抱きしめた。

「愉しみだ、カイト。そなたから、どのように仕置かれるものか………愉しみだぞ」

息継ぎの合間につぶやくと、がくぽはカイトを溺れさせるように、深いくちづけに没頭した。