凛と麒麟

姉のグミに首根っこを掴まれたリリィは、当主たる兄のがくぽ、その最愛のおよめさまにして今回の『被害者』たるカイトの前にしょっ引かれて来ても、まったく反省の色を見せなかった。

「だってねねさまがかわいいんだわかわいいねねさまを堪能したかっただけだわ。この衝動を堪えるのなんて、神代の英雄にもムリなんだから、リリィはもっとムリなんだわ!」

「あー……ははは……」

カイトは笑うしかない。

因業一族の印胤家にあっても、リリィが兄嫁のカイトを正真正銘言葉通り、『かわいい』と評価してくれているのは知っている。

が、その愛情表現というか、親愛の表現が過酷になりがちなのは、だからやはり因業一族の娘ゆえと言おうか。

残念ながら、迷走する愛情表現には馴れているカイトだ。夫もそうだが、生家のきょうだいたちにしても、いい加減迷走した愛情の持ち主たちだった。

とはいえもちろん、そんなふうに笑う余裕があるのはカイトだけだ。当の『被害者』だけ。

リリィの首根っこを掴んで畳に頭を沈めさせたグミはきっとしておよめさまを睨んだし、隣に座るがくぽにしても、胡乱な目を最愛の相手に向けた。

「笑うている場合か、およめさま。堪えようないなど、斯様な野放図をそうそう赦しては、印胤家当主のおよめさま、引いては印胤家の女どもの首領としての示しもつかぬ」

「そうだぞ、カイト。そもそもな、そなたに障っても良いのは夫たる俺だけのはずであろうが。俺以外が障ったというに、そう鷹揚では…」

少々ずれた説教をしかけたものの、がくぽはすぐに口を噤んだ。ひとつ、頭を振る。

それでも一度崩れかけた均衡は容易には戻せず、次にカイトを見つめた瞳は瀬戸際の狂気を宿し、不安定にぶれていた。

朱いくちびるがぬらりと開き、言葉を滴らせる。

「それとも、なにか…さほどに、心を傾く相手か俺以上に、俺以外に、そなたが」

「あにさまっ!」

危機を察知したグミが小さく叫ぶが、がくぽがちらりとやった目線に素早く口を噤んだ。

まずい。本格的に堕ちかけている。

因業に馴れた一族からすら『鬼子』と呼ばれ畏れられたグミの兄は、確かに鬼才ではあった。

が、同時に、どうしようもなくこころが弱かった。

酷悪さでなら決して揺らがぬくせに、唯一絶対の愛を与えるおよめさまにだけは、些細なことですぐ、不安定へと陥る。

陥った挙句、もっとも慈しみ愛おしみたい相手を責め苛んで、戻った束の間の正気に後悔から、さらにこころの安定を崩すという救いようのない極悪循環ぶり。

胃と奥歯を軋ませながら機を窺うグミの前で、瀬戸際の対応を迫られているカイトは、むしろ無邪気に瞳を瞬かせた。ひどく呑気な風情で、ちょこりと小首を傾げる。

「念のためにお訊きいたしますけれど、がくぽさま――がくぽさまは俺に対して、堪え性があるんですか俺に対してなにか、堪えて、我慢することが?」

「なんだと?」

がくぽの周囲の空気が、ひと息に冷えた。霜つくようだ。

カイトの物言いは、取りようによってはがくぽへの痛烈な批判だ。己ですら律せぬものを、年若い妹が同じ過ちをしたからと責めるのかと。

もちろん今の状況で、そんな正論はまったく役に立たない。以上に、最悪の選択だ。

未だに土下座させたままのリリィの首根っこを、グミはわずかに後ろへと引いた。いざとなったら、同じく気を殺して様子を窺うこの妹ともども、座敷から全力で退避せねばならない――

空気を凍りつかせ、狂疾を深める夫と、全霊を持って機を読む義妹たちと。

気にする様子なく、カイトはじっとがくぽを見つめた。とてもとても静かに、口を開く。

「がくぽさま?」

――ただ、呼んだのは名だ。夫であり、もっとも愛する男の。

悲嘆も悲哀も悲痛も、媚びもへつらいもなく、淡々と。

しかし冷気は霧散し、がくぽの瞳を曇らせていた狂気は弾けて消えた。

「どうせな?!」

一瞬で緊張感と威厳を失った印胤家新当主は、なにかひどく幼い子のように、自棄じみて叫んだ。

「どうせな、俺はそなたに対して堪えが利かぬわ俺だってな、努力はしておるのだぞ?!したが、如何にしようともそなたはあまりに軽く、易く、俺の堪え性を突き破る常に、常にだそうであろうとも、そなたからしたら、俺は余程に堪え性のない夫だろうとも反論なぞせぬぞ。反論なぞあろうものか。ああさ、如何にも俺は、そなた相手にまったく堪えも利かぬ。堪え性なぞ失って久しいわ!!」

「あにさま……」

「開き直っちゃったわねえ、残念な……んぎゅっ」

ひどく情けないことを大声で喚き散らす兄に、グミは額を押さえた。印胤家当主ともあろうものが、なんたる体たらくか。

くり出すべきお説教を高速で組み立てつつ、グミは緩みかけていた妹への拘束にも力を入れ直した。その結果として、手の下で憐れなカエルが鳴いたが、力を緩めることはしない。

しかしグミが兄を叱責するより先に、カイトがぱっと、花を散らした。いや、カイトが実際の花をまき散らしたわけではない。

ただ、そういう幻影がはっきり見えるほど、カイトは喜色に満ちた笑みをこぼした。

「んっふっ!」

どこか勝ち鬨にも似た笑い声をこぼすと、カイトは呑まれて見入るがくぽの膝に手をやった。甘ったれるしぐさで寄り添い、上目にがくぽを見つめる。

「神代のだかなんだかの堪え性がどうでも、知ったことですか。俺は、俺に対してがくぽさまの堪え性がまったく利かないのであれば、それでいいです。がくぽさまが、俺には堪えたり我慢したりしていることがないのであれば…」

「否、カイト……」

なにかしらの反論を紡ごうとしたがくぽに、カイトはにっこりと笑った。

「がくぽさま以外、知ったものですか」

「カイ……」

言葉も継げずしばらく見入ったがくぽだが、唐突に振り返った。先とは別の意味で機を窺う素振りの妹たちに視線をやると、ちょこりと首を傾げる。

意外に愛らしいしぐさで、因業一族印胤家新当主は、おずおずとくちびるを開いた。

「と、嫁が言うのでな…ここは早速、堪え性を捨ててみようかと、思案しておるわけだが…」