ARIANE-02

カイトの見た目や性別、実年齢がどうあれ、身分を言うなら『領主の妻』だ。

権能などなきに等しい『妻』ではあれ、領主一族という特権階級に属していることに違いはない。

夫たる領主のみならず、家宰や女中に下男その他と、カイトは『奥方様』として以上に屋敷の人間すべてからたっぷりと甘やかされ、可愛がられてはいるものの、それはそれのこれはこれ。

日々、上流階級としての『奥方』教育を受けつつ、ほぼ二年――

「ぁー……むっ!」

がぱりと大口を開け、カイトは料理長特製の焼き菓子にかぶりつく。ひと口に切り分けて、もしくは手でちぎって小さくして、上品に口に運ぼうという発想が、初めからない。

最前からの習性である、まずは夫で『主』たるがくぽにひと口与えるときには、きちんと小さく取り分ける。ゆえに、知識や技術として菓子を小分けにするということが、存在しないわけではない。

が、いざ自分の口に運ぶとなると、大口開けてかぶりつくの一択。

普段の食事はきちんと作法を守ってするが、この、午後の間食だけはこれだ。

がくぽと二人きりで、家宰はおろか給仕すらいないという環境もある。思い切りよくかぶりつくカイトに癒されるからと、がくぽがわざと口やかましくしないでいることも、大きい。

ためにカイトは二年を経た今となっても、がくぽと二人きりで過ごす午後の間食時だけは、『礼儀知らずの無法者』だった。

「んむんむ………んぁむっ、んむんむ………んんーーーっ!」

「しかし………よくも、まあ………」

相変わらず粉砂糖がたっぷりとまぶされた、見ただけで甘さが想起され、胸やけを起こしそうな焼き菓子だ。

しかも今日は粉砂糖を振るだけでなく、砂糖漬けにした色とりどりの果物を飾り、仕上げにこれでもかと蜂蜜も染み込まされている。

見た目だけが問題ではない。もはや漂う香りだけでも、がくぽなどは眩暈が止まらない。

いったいこれは何重の罠で、そして料理長はなにをして、領主であり雇い主たる自分に挑戦してきているのか。

――と、甘いものを苦手としているがくぽは逃避を兼ね、ちょっとばかり料理長と対峙してみた。

ただし、思考の中だけだ。実際にはしない。負けるとわかりきっているからだ。

がくぽが生まれる前から厨房を仕切る料理長は老齢だが、未だかくしゃくとして健在だ。現在でも毎日、くまをも倒すという鉄鍋を片手で軽々操る猛者ぶり。

幼いころからの積み重ねもある。

単純な戦闘技術だけならがくぽが上でも、気合い負けする自信が並々ならずあった。

「ふあむっ、んむんむ、んむ………ふぁあ、んふっ!」

「………まあ、盲目になっているだけよな………領主たる俺がまず毒見をしているとは、知らぬだろうし……」

その、見た目だけでがくぽに胸やけを起こさせ、口に入れる以前の香りでとどめを刺す菓子に、カイトは躊躇いなく大口を開けてかぶりつく。遠慮ないひと口の分量は、がくぽがそれだけで昇天出来るほどだ。

ある意味でもって、カイトも昇天しているとは言えた。

甘いあまいお菓子に、表情はとろんとろんに蕩け、口からこぼれるのはもはや、嬌声だ――これはもしかして浮気か不倫か、その場合相手は料理長なのかそれともこの菓子なのかと、がくぽの胸中が複雑に絡み縺れるほど、カイトは幸せそうに菓子を食べる。

鉄鍋ひとつでくまをも倒す猛者だが、料理長がこよなく愛するのは、こういった菓子の類を作ることだった。

本当のところ料理長は、カイトが娶られる二年前には引退を考えていた。

妻を娶らず独り身を貫く領主の屋敷では、甘いものを供する機会も減る。料理長がこよなく愛する菓子を作るのは、年に数回あるかないかだ。

そうやって失った生きがいから力も衰え、老齢が伸し掛かって感じられたことが、引退を決意した大きな要因だった。

そうとはいえ、料理長ががくぽに恨みを持つわけではない。

がくぽが男である以上、最初から諦めがあった。当然のことでもあり、寂しさはあっても、そこまで育ったと、俺の料理が育てたのだと、自負も歓びもあったのだ。

だから、生まれる前から面倒を見て来たも同然のがくぽの、大事な大事な妻を決めるための宴で腕を振るい、それを最後の仕事と――

しかしそこで娶った奥方様が無類の甘いもの好きと知った料理長は、見事、厨房に返り咲いた。

そして今に至る。

「はむはむ………、んんーー………んふっ!」

「………旨そうだな」

カイトが食べる前の最初のひと口を与えられ、臨死体験寸前にまで陥っていたがくぽだ。料理長と対峙していたのは思考の中だけのつもりだが、実のところ冥府の河端だったような気もする。

もちろん料理長は、死んでいない。それ以前に今は、奥方様のおやつの菓子作りに腕を振るったばかりで、一日のうちでいちばん生き生きとしている時間だ。

冥府の河のそばに寄るどころか、棺桶に片足を突っこむ気配すらない。

――ためにより一層、今の時間の料理長と現実では対峙したくないわけだが。

「罠だとわかっているが、旨そうだな………!」

カイトが甘い分には、胸やけを起こすことはない。眩暈はよく起こす。あまりに愛おしく、募る気持ちゆえに。

と、日々真顔で吐き出すがくぽだ。ただしあくまでも『カイト』であって、カイトが寄越す『菓子』は含まれない。簡単に臨死体験を愉しめる。

しかしそれこそ、たっぷり掛けられた蜂蜜のごとく、とろんとろんに蕩けながら菓子を頬張るカイトの様子を眺めているうち、持ち直した。持ち直した以上に、うっかり自分で自分の首を絞めようとまでする。

夢中で食べるカイトの様子も愛らしいが、こぼれるご機嫌な鼻声もまた、愛らしいの極みだ。複雑な胸中はあれ、カイトが愛らしいというがくぽの評価に揺るぎはない。

そうとはいえ、ここ最近のカイトは単純に『愛らしい』とは表現し難かった。

理由は簡単で、成長したのだ。

それはイキモノであれば当然のことだ。本来は、特筆すべきことではない。

が、領主という特権階級ではあれ、所詮はただびとにしか過ぎないがくぽの『妻』は、正確に言っておそらく、イキモノではなかった。

少なくとも、森で拾った――もしくは『善良なくま』から奪った――木の実から生まれた存在を、人間とは呼ばないだろう。そして成長だの体質だのを自由に操れるとなると、単純にイキモノとも呼び難い。

カイトはそういう存在であり、がくぽに娶られてからついこの間までの二年ほどを、十四歳程度の少年の見た形で過ごしていた。つまり、成長を止めていたのだ。

木の実から生まれたカイトは、自分より遥かに年嵩の姉妹たちの『兄』となるべく、がくぽと出会って娶られるまでの一年ほどで、十四歳の見た形にまで成長した。

そしてがくぽと出会って互いに惹かれ合い、娶られると成長を止めた。

『兄』になる必要がなくなったからではない。跡継ぎを産めない男である自分は、せめても妻として若いほうがいいだろうという、余計な配慮からでもない。

理由は単純で、成長途上の小さな体のほうが、夫たるがくぽに心置きなく甘えやすいからだ。

がくぽはカイトが多少成長した程度でびくともする気はなかったが、カイトにはカイトで言い分があった。

成長するにつれ、姉妹たちが『もう大きいから無理』だと、膝に抱いてくれなくなった――

料理長と同じだ。だからと姉妹たちに恨みもなく、当然のこととは思う。が、それはそれのこれはこれだ。

非常に短いカイトの生涯の中で、『大きくなったらお膝に抱いてもらえない』というのは、厳然たる瑕として刻まれたのだ。

つまりカイトは心置きなくがくぽの膝に抱かれ、甘えたいがために、成長を止めた。はずだった。

それが、ほんの数か月前から突然に成長を始めた。

当然ながら、急な成長に衣装の新調が間に合わなかった。また、どこまで成長する気であるかもわからないため、迂闊に新調もし兼ねた。領主の妻ともなれば、その一着に掛かる金額は、ばかにならないからだ。

そういうわけで当座の仮衣装として、カイトは現在、がくぽの少年期の衣装を着ている。

生まれたときから領主となることが定められていたがくぽのものなら、子供時代であれ、格式も申し分ない。しかも幼年期からすべて取り置いてあるため、カイトが日に何度も衣装替えの必要に駆られても、対応が易々と可能だ。

ただし、体格は違う――カイトは現在、十代後半あたり、青年期と思しい見た形だが、着ているのはがくぽが十代半ばの頃、少年期に着ていたものだ。これ以上合うものもなかったのだが、肩幅などが多少、余っている。

成長してはいるが、骨の細さといい、全体の華奢さといい、今のところがくぽを超えたものは、ない。

けれど、カイトは大きくなったと主張する。がくぽもそこは認めるし、小さいままだと言う気はない。

だが、反論はある。

大きくなったが、膝に上げられないほどではない、と。

これまでなら、間食のときだけは膝に上げていた。普段の食事は礼儀作法一般を遵守していたが、環視のない間食時だけは、と。

カイトを甘やかし、大口を開けて食べることを赦すだけではない。がくぽもそうやって、短時間で効率よく、溺愛する妻を『補給』すべく、作法を無視していたのだ。

しかし大きくなり出してしばらくすると、カイトは膝に乗らなくなった。間食の時だけでなく、日常、どういった場面であってもだ。曰く、大きくなって重くなったから、と。

カイトが膝に乗らなければ、日々の接触が恐ろしく減る。カイトがただ大人しく、膝に乗っているだけということはないからだ。

抱きつき、擦りつき、あるいはちろちろと舐め、ついばみ――

がくぽにしても、そうだ。抱きしめた体をあやしたり、くすぐってやったり、撫で回したり――

ここ最近のがくぽは、飢餓状態に近かった。一歩手前だ。カイトが膝に上がらない、ただそれだけのことで。

「んんっ、んー………はむはむはむんっ!」

「……………旨そうだ。本当に」

とろとろに甘ったるい菓子にかぶりつくカイトは、心からしあわせそうだ。なにひとつ、変わったことなどないように見える。

こうして以前と同じく、がくぽが執務をしているところに、カイトはおやつを持ってやってくる。

この年頃には、がくぽは本格的に甘いものを受け付けなくなっていた。とにかく腹が減る年頃だったと記憶しているが、それでも甘いものを食べると胸やけがして、ひと口で止めていた。

同じほどの年でも、カイトは甘いものが好きなままのようだ。無理をしている様子もなく、芯からしあわせそうに食べる。

すでに大人と呼んで差し支えない年恰好だが、『領主の妻』らしからぬ遠慮のなさで、子供のようにばかっと開けた口いっぱいに頬張る様子も、そのままだ。

男である奥方様がご成長遊ばしても、料理長引退の日は、まだまだ遠いと思われる。

が、大きく違うこともあった。

隣に座っているということだ。

成長し始める前なら、カイトはがくぽの膝に乗り、そこであやされながら菓子をぱくついていた。

今は隣だ。二人掛けの椅子に座ったがくぽの隣にちょこなんと座って、横顔を見せてかぶりついている。

横顔も愛らしいとは思う。口の大きさもわかる。がしかし。

「………やはり、料理長と一度は正面切って………」

迷惑です領主さまと、家宰や女中からの苦情が日々増す、がくぽの妻への溺愛度だ。

なにかが飢餓状態に陥ったがくぽの思考は、カイトの『浮気相手』を菓子ではなく、料理長と定めたらしい。

ごく当然でまっとうな選択なのだが、ある意味、最後の最後でぎりぎり踏み止まったとも言える――さすがに菓子を浮気相手に認定するようでは、迷惑の程度を過ぎ越している。そんな領主はまずい。

「んふぇ、りょう……?」

「やはりか……っ!」

「がくぽさま?」

ひとつめの菓子を食べ終わったところだったカイトがうっかり拾った単語に、がくぽの中でなにかが確定した。料理長も迷惑千万だが、がくぽもこれでいて、命懸けだ。

一方のカイトは、さっぱりわけがわからない。

きょとんとして、わなわな震えるがくぽに首を傾げる。ちろりと舌が覗いて、砂糖と蜂蜜でべたつくくちびるを無意識に舐めた。

赤い舌が蠢き、てらりと光るくちびるを舐める――

何気ないしぐさだが覿面に誘われて、がくぽはカイトへ手を伸ばした。腰を抱き、招く。

「ぁ、の……がくぽさま、おひざ………」

「ならば俺が乗るぞ」

「えっぁ、あ、ふ………っんん………っ」

案の定で抵抗されて、がくぽの中で切れるものがあった。

据えた目で宣言すると、がくぽは抱いていた腰を招くのではなく滑らせつつ、自分は体を浮かせ、カイトを椅子に転がした。その上に伸し掛かり、砂糖と蜂蜜で漬けこまれた甘いくちびるにかぶりつく。

くちびるもだが、直接に菓子を持っていた手も、砂糖と蜂蜜まみれでべたべただ。うっかりがくぽにしがみつこうものなら、衣装が悲劇だ。

それでも怒られることはないが、気を遣ったカイトは不自然に手をうろつかせ、わきわきと握って開いてとして、がくぽの口づけがひと段落するのを落ち着かず待った。

この場合、それはあまりいい態度ではなかった。

我を忘れてしがみつくようなら、がくぽが抱える不安も少しは解消されただろうが、これではなにかを確信させるだけだ。

「………カイト。そなた、料理長と………」

「ん、ぁ。え?」

「……っ」

深く貪られたときの常で、口づけを解かれても、カイトはすぐにがくぽの言葉を拾えない。がくぽもがくぽで、いくらなんでも口に出しては聞けなかった。

自分が明後日な方向に勝手に追い込まれた挙句、不要な妄想に囚われていると自覚もしているから、尚更だ。

そうだとしても――

「あ、えと、料理長……さん、ですかあっ、もしかして、聞いちゃいました、がくぽさまっ?!」

ようやく意識が戻ったカイトは、なぜか慌てたように身じろいだ。