よりく、-19-

「わかっちゃっ……っ」

「ん?」

ようやく戻って来た穏やかさを台無しに、明夜星カイトが上げた声には微妙に涙が混じっていた。

きょうだいそろって情緒不安定かと――

名無星カイトは非常に他人事に考えながら、カウンタへ顔をやった。腕のなかには未だ明夜星がくぽがいたが、彼もまた、大好きな兄の涙声にぱっと、反射的に顔を上げる。

顔は上げるが、手は離さない。名無星カイトを抱えたままだ。『腕のなかにいる』とはいっても一応、名無星カイトは軽く、手を浮かせているというのに。

そう、もう落ち着いたのだから大好きな兄のもとへ行けと、放してやったのだ。

が、肝心の明夜星がくぽが名無星カイトを離さず、抱えこんだまま――

傍目には非常に仲睦まじく、少なくとも友人の域は軽く超えている体勢のふたりを、明夜星カイトは声同様の涙目で見つめていた。目元を染め、ぷるぷる震えるその姿は、あからさまになにか、激情を堪えている。

――やはり情緒不安定かこのきょうだい。

と、名無星カイトはとても他人事に考えた。

もしも名無星家のおとうとが兄のこの感想を知ったなら、『元凶は貴様だ兄!』とでも喚き、来客中であろうが構わず、激しいきょうだい喧嘩を勃発させていたことだろう。

なぜなら名無星がくぽの兄の周辺には、情緒不安定が多発するからだ。

特にKAITOだ。KAITOころり、あるいはKAITOキラーである兄を前に、情緒が安定していられるKAITOを見ることは滅多にない(少なくとも名無星がくぽは)

そして本来、抜群の安定度を誇るKAITOの情緒不安定に引きずられ、周辺のロイドまでもが情緒不安定に陥っていくという――

先の、第17話だ、あの明夜星がくぽなどがいい例だ。

確かに失恋の痛みはあれ、しかしそれをああも刺激することとなった発端といえば、兄によって引き起こされた明夜星カイトの『情緒不安定』だ。

幸か不幸か、名無星がくぽが兄のこの、まるきり他人事な感想を知ることはなかった。なぜなら彼は今、隣に立つ恋人の様子にこそ気を取られていたからだ。

「いや、カイト……違う。おそらく違う……違うぞそれは違う……っ」

あたふたしながら、懸命に言い聞かせている。が、声が弱い

おそらくなだめるために一応言っているだけで、おとうとの内でも確信が弱いことだからだろうと、名無星カイトは読んだ。

しかしそれでは意味がない。そうでなくともひとの話を流す傾向にあるKAITOに、ましてやこう、なにかを思いつめているようなときに、弱い声はまったく届かない。

案の定で、明夜星カイトは恋人の声などまったく届いている様子もなく、ぷるぷるわなわなと震えながらくちびるを開いた。

「がくぽが最近、どーしておにぃちゃんにあまえてくれないのかっ……あまえてくれなくなったのかっ……おにぃちゃん、理由、わかった……っ」

「え、兄さん?」

「いやカイト、待て、違うからたぶん!」

――そこはとりあえず言いきっておけおとうとよ、素直か。

名無星カイトはおとうとの『ツメの甘い』対応に若干の頭痛を感じ、眉間に手をやった。

が、今回の場合、彼は他人事扱いでいるわけにはいかないのである。

なぜなら明夜星カイトの発言を見よ。

そして今の、自分の体勢をよくよく鑑みよ。

カイトさんとお付き合い始めたからなんだねっ!」

そう、――当事者真っ只中なんである。

「この間、イベントでカイトさんと会ったときもヘンだとおもったけどっそーいうことだったんだね、がくぽっおにぃちゃんにないしょでがくぽ、カイトさんとっ……っ」

「いや兄さ、え?

「だから違うからカイト、きっとっ早計だ、まだ早いっはずっ

明夜星カイトの血を吐くような叫びに、そのおとうとは意想外を極めたとばかりにきょとんとし、恋人は頭を抱えて叫ぶ。

そして、名無星カイトである。

――だからどうして言いきれないのかおとうとよ、愚直か…

いっそせめて誠実と言ってやって欲しいものだが、それはそれとして、この場合の名無星カイトの思考は、他人事というよりは逃避だった。

さすがにちょっと、明夜星きょうだいがそろうとなんというか、次から次からエンドレス次から、騒ぎのネタに事欠かない。もうおなかいっぱいである。

しかもだいたい、発生元も展開もなにもかもが意味不明ときた。さらに腹がふくれていく。

こうなってすら明夜星がくぽの腕のなかに囲いこまれたまま、名無星カイトは遠くを見た。正直、正直――

ココアが冷める

マスターは猫舌なのでいいとしても、ほかは全員、ほかほかでも飲める舌だというのに。

今日の味付けはホットを想定していて、アイスココアを想定していないというのに…

――といった名無星カイトの一連の思考は逃避の続きのようでいて、違った。この部分に関しては逃避ではない。

KAITOにありがちな、着眼点のずれである(そもそも人数分のココアを各自の舌、好みに合わせてつくったのは名無星カイトであり、苦労してつくったものに対する愛着もある)

とにもかくにも、名無星カイトがもしもこれを真っ正直に口にするような性質であれば、それでもほんとうに兄はKAITOなのかと、おとうとも無闇な疑いを口癖とすることはなかっただろう。

しかし名無星カイトはこういったことを逐一、声に出すような性質ではなかった。おかげでおとうとの口癖が改められる機会もなく、認識も正されることがない。

さて一方、明夜星カイトである。はっきりぱっきり誰が見ても聞いてもいつでも着眼点がずれがちなKAITOである。

「そう、そーだよね、がくぽ……っカイトさんのほうが、頼りがいのある『おにぃさん』だもんね……っカイトさんが『おにぃさん』してくれたらそりゃ、おにぃちゃんのこと、物足らないくなるよねっ……っ!!」

「ちょ、なにいっ、兄さっ?!」

「ああほらやっぱり違ったろう違った?!カイト?!」

判明した明夜星カイトの着眼点と着地点に、【がくぽ】ふたりが目を剥く。

ことここに至って、ようやく明夜星がくぽの腕も緩んだ。さすがに名無星カイトから離れ、兄へと一歩、身を乗り出す。

それで表明するのは、ただ意想外だ。心外とも言い換えられる。

対して名無星がくぽが表明したのもまた意想外は意想外であるが、明夜星がくぽとは方向性が違った。こう来るだろうとしていた予測を完全に裏切られたという、意想外だ。恋人の発想の飛び先を、完全に読み違えていた、誤解していたという。

ではどう誤解していたのかといえば、おおよそ、『お付き合い』という言葉で考えられるもうひとつの関係性であろう(たとえば自分と明夜星カイトとの『お付き合い』のような)

なんでだよと、名無星カイトは非常にシンプルにおとうとへツッコミを入れた。こころの内で。

純然とKAITOらしいKAITOが、そんなわかりやすい発想をするわけがないというのに。

くり返すが、明夜星カイトとは(名無星カイトとは対照的に)まったくもって純然とKAITOらしいKAITOである。

そして純然たる『らしいKAITO』のその思考といえば、わかりやすいようでいて油断すると思いきり鳩尾を抉ってくるもとい、まるで発想元がわからないという。

ところで念のために補記しておくが、名無星カイトには自分と明夜星がくぽとの仲を邪推したおとうとへの抗議はなかった(されて当然の振る舞いだったという自覚があるわけではない。単に思いついていないだけだ)

なにより名無星カイトの思考は、おとうとへのツッコミだけで構成されているわけではない。それはむしろ本題の片手間に、少し過ったという程度のものだ。

ならば名無星カイトの思考の本題は、どこにあったか?

「いや、違わない。ヒョウタンカラコマで大金星だな、明夜星カイト?」

「兄っ?!」

「ちょっとっ!」

飄々と口を挟んだ名無星カイトに、またも【がくぽ】ふたりが目を剥く。

対して、声を掛けられた当人だ。明夜星カイトだ。

臆することなくまっすぐ立つ名無星カイトへ、明夜星カイトは今にも溢れそうな涙目を向けた。

「や、やっぱりっ……っ」

涙を堪えて閊えるのどを押し、なんとかつぶやいた明夜星カイトへ、名無星カイトはふわりと笑った。それこそ『おにぃちゃん』では決してなく、『おにぃさん』らしく――

「でも、理由は違うな。なんでおまえ、卑下する明夜星カイト――俺はおまえのおとうとから、『大好きな兄さん』の自慢しか聞いたことないぞ?」

「…っ」

やわらかに言い聞かせる口調に、明夜星カイトはぱっと目を見開いた。同時に、一度は離れた明夜星がくぽが、名無星カイトへ戻る。

指先だけだ。咄嗟にという動きで手が伸び、名無星カイトの袖をつまんだ。幼子が縋るに似た動きだ。先にも見た。

あまえんぼうのわがまま王子らしからぬ健気な振る舞いで、あまえんぼうのわがまま王子らしい、図体に見合わぬ愛らしい所作。

こころの奥がきゅうきゅうするのは、だから、そのせいだ――あまりにかわいらしいから。

「兄」

名無星がくぽが愕然とつぶやく。それはほんとうに愕然としたあまり、思わずこぼれたといった響きであり、音であり、大きさだった。

だから誰にも届かず、すぐ傍らの恋人の注意すら呼ぶことはなく――

「ぁ……」

明夜星カイトの、カウンタに縋るように置いた手が、くっと丸く、拳になった。震えながら、くちびるが開く。揺らぐ湖面の瞳は湛えた涙のせいでさらに揺らぎ、けれどまっすぐ、おとうとを映した。

原因もわからず、突然にこころが離れたように感じていたおとうとを、改めて、もう一度、今度こそと。

「兄さん、あの」

おとうともまた、ためらいながらも口を開いた。その手は、指先は、未だ傍らの名無星カイトの袖に縋って、けれどきちんと自らの兄と向き合おうとしていた。きちんと向き合うためにこそ、縋る――

互いに口を開き、見つめ合い、戸惑いながら言葉を探し、そして、

「っぁああーーーっ!!ゎわかったぁああっ!!考えなければいーんだ四の五のごちゃもちゃ考えるからわけわかめになるんだし!!なんだぁーーっそっかぁあああっ!!」

「んっぴゃあっ?!」

「っっ?!」

突如リビングの奥手、ソファの影からどっかんもっかんと爆発する勢いで伸びたきのこ→違う、爆誕したヒヨコ→もっと違うが微妙に近い、名無星出宵のエウレカの叫びに、明夜星家のきょうだいはそれぞれ、傍らの名無星家のきょうだいにひっしとしがみついた。

で、しがみつかれた名無星家のきょうだいのほうである。この名無星出宵を『マスター』とする、ロイドである。

「ようやく理解したか、マスター。おまえが考えるのを止めれば、世界はもう少し平和になると」

「そんなものは今さらだろうむしろおまえは熟考することをこそ覚えろ、マスター!」

――兄とおとうと、KAITOと【がくぽ】とで、くっきり、反応が分かれた。

それで、同時に正反対のことを返した名無星家のきょうだいである。

同時ではあっても互いに互いの発言を聞きとがめて眉をひそめ、明夜星家のきょうだいを貼りつけたまま睨み合った。

先に口を開いたのはおとうと、がくぽのほうである。

「兄よ、兄こそ考え足らずもいいところだぞ。そうでなくとも考えなしのマスターがなけなしの思考を放棄すれば、ただ暴威となるだけだ。害悪しか残らん」

『マスター』を評しているとはとても思えない(正直に言うなら『思いたくない』が正しい)おとうとの言いに、兄は落ち着き払って返した。

「下手の考え休むに似たりだ――ほんとうに休んでいるならむしろいいけどな、所詮『似たり』だろ。マスターに置き換えたときの、その差もわからないのかおまえ。ならばツメが甘いどころじゃないからな?」

さて、この、とても『マスター』を語っているとは思えない(だから正直なところ、『思いたくない』がほんとうに正しい)ロイドふたりの発言に、肝心要、当の本人たるマスター:名無星出宵である。どう答えたか?

「そのとーーーりだよっ、カイトっ休んでるばゎいじゃないよねっがくぽもおーえんしてくれてるし、ボクゎ力のかぎり、あばれることをちかいまーーーSHY-AHHHHHHHH!!」

――そう。

『考えない』とは、こういうことである。どういうことであるのか、解説はいっさいしないが(正直なところこれは、『まったく解説したくない』が真実正しい)