打ち合わせを終えて家に帰った名無星カイトは、リビングの扉を開いたところで少し、足を止めた。入ってすぐ目にした光景に、気を取られたせいだ。

では名無星カイトが気を取られ、つい、足を止めるほどの光景とはなんであったのか?

よりく、-36-

「あっカイトカイトかいとかいとかいとっっ!!」

――そんなに連呼せずとも聞こえるというか、そうまで喜色に満ちて連呼されると胸がきゅうきゅうに締め上げられ過ぎてなんだか眩暈までしてくる気がするので控えてほしいというか、とにかくだ。

窓辺のリビングチェア、マスターとおとうとが『カイトの席』と認識しているそこに座った明夜星がくぽは、声だけでなく態度から全力で、名無星カイトの帰宅を歓迎してくれた。

背を伸ばし、しっぽならぬ両腕をぶるんぶるんと開き振る。だっこしてくれと強請るしぐさでもあるし、抱きつきたいというしぐさでもある。

とはいえ、全力で歓迎しながらも座ったままであるのだが、多少は仕方がない。

リビングチェアに座る明夜星がくぽのすぐ前には、床に直に座る形でおとうと、名無星がくぽが胡坐を掻いていたからである。

もし明夜星がくぽがリビングチェアから降りて名無星カイトの元に駆け寄るなら、おとうとを踏むなり蹴り飛ばすなりなんなり、とにかく火種をばら撒くようなことをなにかしら起こすこととなる可能性が高い(あまえんぼうのわがまま王子であり、『敵』である名無星がくぽを相手にしているとはいえ、そういったところの配慮はきちんとできるのが明夜星がくぽというものだ)

それでそもそも、明夜星がくぽは名無星カイトのおとうとと向き合って座り、なにをしていたのかという話だ。

それこそがまさに、名無星カイトが入るなり足を止めた光景でもあった(けたたましく呼ばれたのは、足を止めた直後のことだ)

ふたりはうたの練習をしていた。

――それだけだ。

それぞれの手に譜面と思われる紙を持ち、向き合ってうたっていた。おとうとがリードし、明夜星がくぽが追いかけ、同じ(と思われる)ところを今度は明夜星がくぽがリードして、おとうとが支える――

それだけの話だ。

この『それだけ』がどれほど名無星カイトの目に眩しく映ったことか、これは少し説明の難しい感覚ではあった。

ただとにかく、窓辺に座って陽の光のうちにいるから眩しく映ったわけではないことだけはまったく確かで、そこだけは強調しておく。

その光景と、誘発された感情とは、しかしすぐ、名無星カイトの帰宅に気がついた明夜星がくぽのけたたましい歓迎によって掻き消された。

目の前の相手の反応で兄の帰宅に気づいたおとうとがなにを思ったか、それはよくわからない。反射的に振り返りはしたものの、逆光で必要以上に影となった表情は距離もあり、うまく読み取れなかったからだ。

とはいえこうなると、『今日』はもう終いだとは判断したのだろう。呼ばれる名無星カイトが再び足を踏み出すのと同じほどのタイミングで腰を浮かせ、明夜星がくぽの前から退いた。

これで安全な通行が保証されたわけではあるが、この、ころもこ毛玉ボール期のこいぬときたら少しばかり怠惰であり、言うなら傲慢であった。すでに『保護者』のほうから寄って来てくれていることを知っていたので、自分まで立ち上がって迎えに行く労は惜しんだのである。

こいぬたるもの、ころもこころころと転げ寄って来ないでどうするという話ではあるが、明夜星がくぽである。本来的にロイドであってこいぬではない

一応、理解しているカイトは苦笑しつつ、大人しく明夜星がくぽのもとへ行った。

「おかえり、カイトっ!」

「っとわ……っ」

転げ寄っては来なかったこいぬもとい明夜星がくぽだが、カイトがいわば『射程圏内』に入った途端、振り回していた腕を伸ばした。素早く腰を掴むと、勢いよく抱き寄せる。

ほとんどつんのめるようにして最後の一歩を進んだカイトを、明夜星がくぽはまるで反省もなくぎゅうぎゅうと抱きしめ、その腹に無邪気に顔を擦りつけた。

「おかえりカイト、おかえりっ!」

「……ただいま」

どうしても苦笑したまま、カイトは腹に埋まる明夜星がくぽの頭へそっと手をやった。

歓迎はうれしい。胸がきゅうきゅうきゅうきゅうし過ぎて、眩んだ頭がどうかしそうなほど、ひたすらうれしい。

うれしいが、しかしだ。かかしである。

ここは名無星家であり、名無星カイトが『ただいま』を言うのは当然のことだが、さて、明夜星がくぽである。

彼が名無星カイトを『おかえり』と迎える状況は、正しいと言えるのか?

――もちろんそんなことの正否を気にする明夜星がくぽではない。ただ待っていたと、会いたかったと、全力を尽くして訴えかけてくる。

悪い気がしない以上に、うれしい。同時に、きゅうきゅうと締め上げられる胸の奥に去来するものが強くなり、明夜星がくぽの頭を撫でていたカイトの指はわずかに引きつった。

全力でカイトを歓び迎え、甘えてくるこの相手を、思う存分に甘やかしてやりたいと思う。

思う存分に、自分も『全力』を返してやりたいと――

思って、思うのだ。

『自分が明夜星がくぽを甘やかすのに全力を尽くすのは、正しいと言えるのか?』

もちろん、全力を尽くす相手に全力を返して悪いという法はない。むしろそれこそ、正しい作法とも言われる。

けれど、しかしだ。かかしだ。

この無邪気な男に返したい名無星カイトの『全力』は、無邪気でもなければ無垢でもない――

「初日から、がんばってたみたいだな」

いろいろなものを無理やりに呑みこみ、溢れたい言葉を力づくで無難に変換した名無星カイトに、無邪気な相手はやはり、無邪気だった。

「それはね、なにせまじめだから僕。初めくらいはがんばるんだよ」

明夜星がくぽも【がくぽ】であれば、『まじめさ』は確かに折り紙付きというものだ。とはいえ『初めくらいは』と註釈をつける相手のまじめ度とは、実際にはどの程度なのかという話なのだが。

そういったところは流してやって、カイトはただ笑った。

笑うしかない。なんて無邪気で、なんてかわいらしい男。なんて、――

避けても除けても詮無いところに戻ろうとするカイトの思考だが、もちろん、ここに明夜星がくぽが実際にいるというのに、自分の思考のみに耽溺することなどできるわけもない。

いかにも得意然として主張した明夜星がくぽは、ふと思いついた顔となるとカイトから離れた(もしくは『カイトを放した』)

軽く振り返ると、カイトに抱きつくため、椅子の端にぐしゃりと置いた譜面を取る。

「そういえばさ、ちょっと訊きたいんだけど。あのさ、いよちゃんのクセなんか、『KAITO進行』とか言ってる…KAITOにはうたいやすいけど、【がくぽ】は苦労するとかいう」

「なんだ…あれだけ言ったのに、懲りずにまたやってるのか」

いわば自分の難所とでもいうところの主張だが、明夜星がくぽの表情は案外に明るかった。

が、カイトの表情は覿面に曇った。だから、『あれだけ言ったのに』だ。

名無星カイトはおとうとにもあれこれと言い含めたが、マスター:出宵にもことあるごとにあれこれと言い含めてきたのである。

このときの名無星カイトは知らなかったが、兄がそうやって回した気と費やした時は功を奏して、おとうとが今日の初日を無事に乗り切れた第31話から第33話くらいの話である)

そうやっておとうとは兄に甲斐を与えてくれたわけだが(今の名無星カイトはそうとは知らないわけだが)、マスターだ。出宵だ。

少なくとも今の話を聞く限り、名無星カイトが回した気と費やした時をきれいさっぱり無為としている。

胸に膨らんでいたものも急速に冷えたような心地がして眉をひそめた名無星カイトに、しかしやはり、明夜星がくぽは楽しげだった。

「うん、そう。よく知らないけど、『また』らしいねあんたのおとうとのパートにもがっつりあるし」

「……」

名無星カイトは眉間に寄せたしわに、軽く指を当てた。

マスターの懲りなさ加減は今さらで、ある意味想定通りであるので想定内の苛立ちしか湧かないが、明夜星がくぽだ。あまえんぼうのわがまま王子だ。

楽しそうだ。

思ったより、――なにをどう思っていたのか説明しろと言われるとそれもそれで悩ましいのだが、とにかくこちらはまったく想定外だ。そして明夜星がくぽが想定外であることもまた想定通りであり、想定内の戸惑いしか湧かないわけだが、とにかくだ。

めげていない。

ように見える。

――ならばさらにあれこれと口を出すこともないということだろう。

そう、無理やり割りきったカイトを察する様子もなく、明夜星がくぽは件の部分と思われる譜面を眼前に掲げた。

「でさ、あんたなら実際、どううたうのかっていうの、ちょっと聴きたいんだけど」

その兄に勝るとも劣らないほど、明夜星がくぽの表情はきらきらと輝いていた。普通これは比喩表現のはずだが、名無星カイトは実際に眩しさを感じ、思わず目を細めた。

兄が兄なら、おとうともおとうとだ

その意味はともかく、そう胸のうちでつぶやき、名無星カイトは期待に満ちてきらめき輝く明夜星がくぽへ答えるべく、口を開いた。

「だめだ、明夜星の。今日の労苦がすべて、無為と化すぞ」

――が、おとうと、名無星がくぽの声のほうが、ひと足早かった。

名無星カイトは開いた口から言葉をこぼせないままわずかに空転させ、振り返っておとうとを見る。

リビングの扉口にまで達していたおとうとだが、明夜星がくぽと名無星カイト、わりと強めなふたりからの注視(睨んでいるわけではない。ただふたりして『強い』のである)にもめげることなく、首を横に振って見せた。

「兄は軽々うたう。軽々だ、明夜星の――思わず俺たちもできる気になる。まあ、『気になる』だけならいいがな…俺たちは同時に『学習』するだろう。それはあくまでもKAITOのうたい方だが、構わず学習し、なぞろうとする。一瞬はできた気にもなるが、いいか。あくまでもKAITOの仕様で、俺たちは【がくぽ】だ。あとあとに無理が響く。しかも学習してなぞった癖を抜くのは倍々の苦労で、挙句、改めて『己』としての歌唱法を習得せねばならん。難儀の重ね掛けだ。悪いことは言わん、『今』は止めておけ。己のうたい方を習得したのちであれば、いくらでも構わんから」

諄々と言い聞かせた名無星がくぽに、名無星カイトは密かに感心した。なるほど、これが『外』でのおとうとの顔かと。

家で、あるいは兄たる自分を相手には見せない『顔』、ものの言い方だ。

名無星カイトはおとうとがこう、冷静に筋道を立てて話すさまを見たことがあまりなかった(自分に物申してくるときはほとんど常にけんか腰だし、気が荒れているから、すぐ論理破綻を起こす。あるいは勝手にへし折れ、ど潰れる)

なにより『明夜星がくぽ』という相手とよく付き合い、よく『学習』したことが窺えた。

抑止する理由を冷静に、かつ自らの経験も絡めて説き、しかし最後には譲歩条件も加えている。こういった順で、言い方をされれば、いかにあまえんぼうのわがまま王子とはいえ、明夜星がくぽも無闇と咬みつくことはしない。なんだかんだあれ、明夜星がくぽとは基本的に『いいこ』だからだ。

とはいえいくら学習を重ねたところで、こういった冷静な話の運びが兄を相手には滅多にできない名無星がくぽだ。我慢が利かないと言おうか。

だからこそ今の話しぶりには感心したし、同時に、腹の底が微妙にもやついた――

もやつきはしたが、名無星カイトはおとうとの言いを嘲ることはなかった。これ見よがしに混ぜっ返すことはせず、振り返っていた体を明夜星がくぽへ戻す。

明夜星がくぽといえば、いっそ美事なまでにぷっくりと膨れていた。突き抜けた美貌ゆえ、残念さがさらに際立つご不満の表明である。

それでも名無星カイトが読んだ通り、ああまで理を通して情も尽くした言い方をされれば咬みつくことはできないようで、ただ、頬を膨らませるばかりだ。

なだめようと手を伸ばした名無星カイトを、明夜星がくぽは上目に見た。

そうなんだ?」

念を押してくる。咄嗟に咬みつくことはできないが、どこかから崩せないものかと足掻きはするのだ。

往生際の悪い姿勢ではあるが愛らしく、名無星カイトはつい、くちびるを緩めた。いや、くちびるのみならず、表情のすべてが緩んだ。腹のもやつきが、あっという間に霧散する。

伸ばした手で明夜星がくぽの前髪をやわらかに梳き上げ、名無星カイトは微笑んで頷いた。

そうだな。ずいぶん苦労させた。学習能力が高いというのも良し悪しなんだなと思った…せっかく『先輩』が忠告してくれたんだ。聞いておけ」

「げーっ…」

念のため断っておくが、明夜星がくぽのあまり品がいいとは言えない返しは、名無星がくぽを『先輩』と表現したことに対してである。名無星カイトがおとうとの肩を持ったことに対してではない――

もしかしたなら、それも少しあるかもしれないが。

やわらかに前髪を梳く名無星カイトの手に構わず、明夜星がくぽは譜面を持ったまま、また腰に手を回してきた。しょうしょう勢いよく、もふんと名無星カイトの腹に顔を埋める。

「仕様がないな…あんたに免じて、今回は聞いて上げるよ」

ぐりぐりぐりぐりと腹に擦りつきながら、どこのどちら様かという上から目線で了承を告げる(くり返しくりかえしのくり返しであるのですでに覚えていただいているかもしれないが、明夜星がくぽとは『兄さんのおとうとさま』である。それがどういう意味かはともかく)

了承を告げて、名無星カイトが応えるより先に、明夜星がくぽは腹から顔を上げた。

強調しておくが、上げたのは顔、離れたのは顔だけの話である。腰には未だに手を回し、きつく組みついたまま――

その組みつく腕に、さらに力が入ったと、名無星カイトは感じた。