よりく、-42-

『にっこり』笑う明夜星がくぽの背後に、噴火寸前の山は見えなかった。だからといってその兄のように、蓋を開けた地獄の釜もない(このたとえの由来が不明なら、第10話第12話を参照いただきたい)

なにもなかった

なにも――なにも見えなかった。あまりに昏く、黒く、闇一色に塗りつぶされて。

そんな美事なまでの黒さでもって、明夜星がくぽはにっこり笑っているわけである。にっこり、むしろ光り輝いているのではというほど、にっこりと、真闇をまとって。

そして曰く、――曰く?

あまえんぼうのわがまま王子、曰く、である。

名無星カイトといっしょにお風呂に入りたいそうである。それでもって自分の気が済むまでその全身を、隈なく洗わせろと。

全身、隈なくだ。

誰か知らない相手とセックスしてきた名無星カイトの全身を――誰か知らない相手のにおいや癖が落ちるまで、落としきるまで、明夜星がくぽがそうと判じるまで、ひたすら洗い尽くすと仰せである。

さてところで、『そう』言いだした明夜星がくぽと名無星カイトとの関係である。

そう。そう――いや、そうだ。いったい全体、どういった仲であっただろう?

といったところも気になるところではあるが、少々、話を遡る。この直前、名無星カイトを激怒させた明夜星がくぽの初めのセリフのあたりだ。シてもいいとかなんとかいう、その言いだしである。

ここで再び、明夜星カイトに災難が降りかかっていた。つまり、過保護な恋人である。

懲りることを知らない名無星がくぽは、それが恋人の耳に届いているかどうか、届くかどうかというところはとりあえずとして、とにもかくにもの可能性つぶしをまず行った。

耳塞ぎ、再びである。

その瞬間、名無星がくぽの両頬は未だ捻り上げられていたりしたりしたわけだが、構わなかった。

初期ほどの力は入っておらず、もはやじゃれ合いの域に入っていたということもある(であればこそ、キッチン内の会話もうっかり迂闊に耳に入ったりしたりしたわけである。余裕があるのも良し悪しとは、こういうときに使うに違いない)

おかげで、明夜星カイトは名無星がくぽの両頬を捻り上げ、対する名無星がくぽは明夜星カイトの両耳を塞ぐという、なにかのコントのような体勢ができ上がった。

これはまたも耳を塞がれた(それもまた、結構な勢いでだ)ことに驚いた明夜星カイトがすぐに手を離したため瞬間的なものとなったが、しかし笑劇もいいところである。

それで、ほとんど反射的に恋人の耳を塞いでしまった名無星がくぽであるが、そこから続いたキッチン内の会話である。

明夜星家の情操教育的なものについていろいろ、明夜星家のマスター:甲斐と膝を詰めて話し合いたいような、いっそまったくこういった話題を振ってはいけないのだと肝に銘じるような――

そのうえで、至った結論である。

いっしょにおふろに入るのだという。明夜星がくぽと、名無星カイト(名無星がくぽの兄である)が。

おとうとである名無星がくぽとて兄と共風呂などしたことがないというのに、兄を相手に殊勝らしく『お背中お流しいたします』などとやったことはないというのに、明夜星がくぽがやるという。

それもお背中どころでなく、全身、隈なく――全身、隈なく!

兄、貞操の危機である

――そもそも風呂にいっしょに入るのはどうしてかという、どうしたって明夜星がくぽはそうも名無星カイトの全身を隈なく自分の気が済むまで洗いたいのかという、危機に陥っているものはほんとうにそれで合っているのかと、あなたは名無星がくぽへツッコみたいことだろう。ツッコみたいだろうか。それとも理解を示してくれるのだろうか。

どちらであれ、とにかくまあ、あえて言葉に直すとしたならそういったような感覚であったという話である。名無星がくぽの背筋を走った悪寒、あるいは危機感というものは。

「んむ…っ」

思わず耳を塞ぐ手にも力が入った名無星がくぽだが、当然、明夜星カイトにとっては災難以外のなにものでもなく、小さく呻いた。いや、耐えられないほどではないが、しかし災難だ。挙句に本日二回目である。

仏の顔は三度までだそうだが、当然ながら明夜星カイトはKAITOであり、HOTOKEではない。

なにより名無星カイトからも釘を刺されていた。いつかといえば第2話、KAITOのイベントでたまたま顔を合わせ、挨拶をしたときである。

――おまえみたいのって、押しきられるとそこで処理放り出すだろ。まあいいやって。いくないんだよ。がくぽの…おとうとの学習が止まるだろ。『そう』なるだろ。押しきればいいことになるのかって。そのうちほんとにまずいことしたとき、おまえは取り返しがつかないくらい傷つくかもしれないし、――『恋人』にそんなことしたら、あいつだって無事に済まない…

ので、抵抗すべきことは流さず徹底抗戦しろと(いや、徹底抗戦とまでは言って――いないこともない。か名無星家の教育方針を鑑みるに、おそらく徹底抗戦と読み取るのが正しい)

相手が名無星カイトでなければ聞き流していたであろう諫言だ。しかし諫言は名無星カイトからであり、名無星カイトがなにかといえば、そう。

おとうとを溺愛するおにぃちゃん仲間である(少なくとも明夜星カイトの認識上は、そうなんである)

明夜星カイトだとて、おとうとが傷つくかもしれないことなら看過できない。

もちろん恋人が傷つくかもしれないことも看過できないが、これは実はまだ、よくわかっていなかった(なにしろ恋人などできたのは生まれて初めてのことだし、やはりあれこれ、『家族』とは勝手が違う。相手の対応もだが、自分のこころの動きがまずどうにも制御が難しく、厄介なのである)

しかしおとうとを思う兄の気持ちであれば共感できるし、そこから探れば、どう対処すればいいかもわかる――

そういうわけなので、明夜星カイトは一度は落とした両手を上げた。そうでなくともぬめるように白い肌だが、今は別の意味で白くなっている恋人の顔に伸ばす。

がつっと、掴んだ。遠慮なく、容赦もなく。

「ぃっ?!」

――明夜星カイトががつっと掴んだのは、名無星がくぽの耳だった。両の耳たぶを掴んで、ぐいっと引っ張り、自分のほうへと強引に顔を戻させたのである。

痛みと衝撃と痛みで(くり返したのはタイプミスではなく、大事なことだからである)抵抗もできず顔を戻さざるを得なかった名無星がくぽを、明夜星カイトは少しわざとらしく頬を膨らませ、瞳を尖らせて迎えた。

おとうと相手の必殺技『おにぃちゃん、怒ってるんだからね?』の表情である。

まあそう、――おとうと相手の必殺技であり、明夜星カイトの認識としては、おにぃちゃんとして精いっぱいの威厳をこめた表情なわけである。他人からどう見えるかは置き、明夜星カイトの認識上では。

で、そうやって恋人を睨み上げながら、明夜星カイトは最終的にその両耳を塞いだ。自分がされているのと同じように、いや、若干、力を強く。

もちろん、痛みを与えない程度にではあるが、キッチンからの音はきっと、完全に拾えなくなった。怒鳴ったり喚いたりといったよほどの音量でない限り、話しているかどうかすら、もはやわからないだろう。

――かぃ……

恋人のくちびるが、呆然と自分の名を紡いだのを明夜星カイトは見た(なにしろ明夜星カイトの耳も塞がれたままなのである。聞こえない。目で見て読み取るしかない)

呆然と、凝然と――

互いで耳を塞ぎ合い、花色の瞳と揺らぐ湖面の瞳は、深く静かに見合った。

――といったような経緯であったため、名無星がくぽは明夜星がくぽの過ぎ越した要求に対し、兄がどう答えたのか、それを聞くことはなかった(それで兄との不仲を解消しきれないおとうとはあとあと、少しばかりやきもきすることとなった)

ここで改めて、本筋に戻る。

あなたには聞いておいてもらおう。それをあなたから名無星がくぽに知らせてやるかどうかはともかくとして、しかし名無星カイトの答えである(もしも聞きたくないとおっしゃるなら、この話はここまでにして次の話へ飛ぶと良い)

さて、名無星カイトである。明夜星がくぽのこの無茶苦茶な要求に対し、どう答えたのか?

「おまえ、な…」

真っ黒にきらきらと輝いてにっこり笑う明夜星がくぽに、名無星カイトは瞬間、絶句した。『瞬間』だ。わずかに仰け反った体も瞬間で、引きかけた足もすぐ戻った。

戻るだけでなく、むしろ半歩、明夜星がくぽへ寄る。同時に片手が伸びて、あまえんぼうのわがまま王子の頭をわっしと掴んだ。

わっしと掴み、わしわしわしわしと掻き撫でる。

「なに、カイト…」

「しないって、言っただろ」

撫でる手を振り払いはしないものの微妙に迷惑そうな顔とはなった明夜星がくぽへ、名無星カイトはきっぱりと告げた。

「別に、しないと困るからしてたわけじゃないし、――しなくても、俺は困らない」

きっぱり告げ、投げるように明夜星がくぽの頭を放す。

揺らいだ体が半歩ほど下がり、名無星カイトの視界が広がった。反射的に目をやったのはカウンタ外の恋人たちである。

より正確には明夜星カイト、明夜星がくぽの兄である。あまえんぼうのわがまま王子を育てた、盲目的な愛をおとうとに注ぐ兄――

が、こんなおとうとの発言を聞いたらどうなることかとさすがに危惧したわけだが、結論だけ言えば、たいして困ったことにはならないと判断した。

名無星カイトのおとうとの手が、またもやその両耳を塞いでいたからである。

おとうとが夢見がちであることも、たまには功を奏するという例だ。今度はどういうわけか明夜星カイトの両手もおとうとの耳を塞いでいるのだが。

どうしたらそうなるものか、どう考えてもまったく経緯のわからないことになっている恋人たちだったが、そう、『恋人たち』なのである。

名無星カイトはとても賢かったため、わざわざツッコミに行くような愚を犯すことはなかった(そんなことをすれば明夜星がくぽから『あんたマゾでしょばかでしょマゾなんでしょう!』とひどい勢いで罵られるような状況に陥ることは目に見えている。彼らに悪気はない――蹴る馬も好きで蹴っているわけではない――しかして『恋人たち』の間に入るとは、時として『そう』いった危険を孕む)

そういったこともあって、名無星カイトが目をやったのはほんの一瞬であり、投げられてよろめく明夜星がくぽが復活するまでの短い間ですら余るほどの時間でしかなかった。

体勢を整え直した明夜星がくぽが見たとき、名無星カイトはすでに作業台へと向き直っていて、その手には鍋があった。

それにしてもだ、材料の準備まではスムースだったというのに、その後の作業が美事なまでに停滞しきり、まったく進んでいない。

その原因が、どちらも同じだ。

明夜星がくぽ――意味不明を成型して服を着せたもの。

おとうとの不始末の責任は兄であるあんたが取れと、ある日捻じこんできたあまえんぼうのわがまま王子。

鍋を手に、名無星カイトはちらりと明夜星がくぽへ視線をやった。掻き撫でられてくしゃくしゃになった前髪を、癇性なしぐさで直している。

じっと見つめることはせず、名無星カイトはすぐ、作業台へ目を戻した。もちろん目を戻すだけでなく、手も動かす。

まずは鍋に薄く湯を張り、ココアパウダーに砂糖に塩にと、基本の調味料を計量スプーンでざっくざっくと掬い、放りこんでいく(念のため言うが、名無星カイトは計量スプーンを使ってはいるが、こと細かに量っているわけではない。容れ物から鍋へ、移し替えるためのツールに過ぎないという使い方だ)

そうやって目はココアをつくるための作業に固定し、休まず手を動かしながらくちびるを開く。

「俺がしないって言ったら、しないんだ。――おまえは余計なこと考えず甘えてろ、甘ったれ」

端然と、同時に傲岸に、言い放つ。

癇性だった明夜星がくぽの手が止まる。

きょとんぱちくりと花色の瞳を瞬かせ、小首を傾げた。無邪気であり、どうしても愛らしくしか見えない。

ひたすら愛らしい有り様だったが、名無星カイトはもはや作業に集中して視線を寄越す気配もなかった。

その手が小型の泡立て器を持ち、だまを潰す作業に入る。持っているのは泡立て器だが、激しくかき混ぜるわけではない。できるだけ空気を含ませないようにして、だまを見つけては文字通り押し潰し、湯に馴染むよう丁寧に溶いていく。

根気のいる作業だ。根気と、集中力と――

「うん」

なにへの肯いであるのか不明になりそうなほどの間を置き、明夜星がくぽはようやく頷いた。頷いて、頷く。

「うん、別に。………知ってたけど、そんなの」

つぶやいて、――

破顔した。

笑って、明夜星がくぽは足を踏み出した。前のめりの姿勢でだまを潰す作業に集中する名無星カイトの背後へ回ると、遠慮なくその腹へ腕を回し、背中にべったり、張りつく。

いつもと同じ、背後霊ポジションだ。

いつもと同じではあるが、腹に回された腕の力と伸し掛かり方が、いつもより強いような――

「重い…」

名無星カイトがこぼした抗議は諦念にまみれ、なんとなく力不足だった。案の定で、明夜星がくぽはいっさいの離れる素振りもなくますます懐き、ご機嫌に擦りつく。

「そういえばさ、今日のおやつはなにを買ってきたの。とうとうあんたのいちばん好きなもの、兄さんに教えてやったのねえ、あんたのいちばん好きなおやつって、だからほんと、なんなの?」

ご機嫌に擦りつきながら、挙句、矢継ぎ早の質問だ。質問というか、答える隙もないほどよくしゃべる。

名無星カイトといえば、やはり諦念にまみれていた。耳元でぴーちくわーちくしゃべりまくる背後霊を大人しく背負い、黙って作業を続ける――