マスターの母親の部屋に入り、鏡台の前にマスターを座らせ、格闘すること十分強。

天才さんのバナナ×いちご加糖版

「よし、いいぞ。これで元の通り、いい女だ」

「きゃは!」

自分で掻き混ぜた頭を、自分で元に戻すという地味に自業自得な作業を終え、俺はマスターの肩を軽く叩いた。

とはいえ普段から、マスターの髪は俺とカイトで入念に手入れをしている。長さはあるが、傷みは少ない。ぐしゃぐしゃに掻き混ぜてやっても、大した労もなく元に戻せる。

そのせいで頻繁に、掻き回しては元に戻すという作業が発生するわけだが。

「ありがとう、がくぽ」

「……どういたしまして」

そもそも、マスターの髪を掻き混ぜてぐしゃぐしゃにしたのは俺だ。

忘れているのか、カイトの躾の賜物か、マスターは構うことなく、俺に礼を言う。

苦笑して受けてから、俺はマスターの頭をやさしく撫でた。

「さあ、そろそろ寝る時間だ………今日の絵本を選んで来い」

「はぁい!」

マスターは元気よく返事して、椅子から下りる。くるりと一回転して鏡の中の自分を見てから、俺に向かってにっこり笑った。

まだまだ小さなマスターだが、そうやって鏡の中の自分を気にする様子は、やはり女なのだと思う。

そしてきれいにしてやったときに閃かせる得意げな笑みなども、マスターがきちんと女なのだとわかって、面白い。

こんなに小さくても、そうやって認識がはっきりしているというのは、ひどく興味深いことだ。

「じゃあね、がくぽ、またベッドでね!」

「ああ、また」

部屋を出たところで、マスターとは一度別れる。

マスターは自分のおもちゃ部屋へ行き、今日、寝る前にカイトに読んでもらう絵本を選びに。

俺は、寝る前の家の見回りに。

そもそも俺は、音楽家として世界中を飛び回って不在がちなマスターの両親に、マスターの護衛として買われた身だ。

どこかネジの外れたマスターの両親は、警護専用のロイドもいるというのに、わざわざボーカロイドの俺を、一人娘の護衛として選んだ。

その理由が、『周囲に威圧が利いて、武の心得があり、ついでにうたがうたえる』というものだから、頭を抱える。要するに警護専用ロイドを選ばなかった理由は、『ついでにうたがうたえ』ないからだ。

根っから音楽家とはいえ、頭のネジの外れ方はどうにかしてほしいものだ。

俺は『ついでにうたがうたえる』のではなく、『うたがうたえるついでに』護衛やらも出来るというのが正確なところなのだが。

「……よし」

施錠からセキュリティ機器のチェックまで一通り終わらせ、俺は寝室へ向かうために廊下に出た。

そこで、洗面所から出て来たばかりのカイトとばったり会う。

「あ…」

「応」

口元を軽く押さえていたカイトは、俺を見るとほんのりと赤く、頬を染めた。

………もはや、顔をばったり会わせた程度で赤くなるような関係ではないはずなのだが、どうしてこうもいちいち、反応が初心なのか。

動揺はしつつも、俺はカイトへと笑いかけた。

「やってみたか」

マスターは何種類かの味の歯磨き粉を、その日の気分で適当に使い分けている。

しかし今日は、バナナ味といちご味のどちらにも決めかねる気分だったらしく、ひどく悩んでいた。

なのでまあ、俺としてはちょっとした悪戯のつもりで、二つの味を混ぜたらどうかと提案してみたのだ。

絶対におかしな味になるだろうから、顔を歪めたところで大笑いしようと思っていた。

しかし意外にもおいしかったらしく、マスターに大絶賛されてしまった。

そしてお気に召したマスターの歓びに付き合う形で、カイトもバナナといちごの歯磨き粉を混ぜる約束をしていたわけだが。

「……うん」

訊くと、カイトはおかしそうに笑った。指が、くちびるの形をなぞる。

「ヘンな感じ……おいしいとは思うけど、なんか、すっごい、ヘン………」

「そこがマスターのお気に召したらしいぞ」

「わかる……ぁは。ヘンなんだけど、いやな感じの『ヘン』じゃないんだよね」

カイトは楽しげに笑う。釣られて笑いながら、俺はカイトの指から目が離せない。

くちびるの形をなぞる、指。

なぞられるくちびるから覗く、舌。

「……」

誘われている場合ではないのだが、そもそもカイトに誘っている意図はないのだが、どうしてこうも悩ましい存在なのか、こいつは。

「マスターが絵本を選んで待っている。行こう」

「うん」

無理やりにくちびるから目を離し、俺は後ろを向いた。

しかし、歩き出す、その瞬間に。

「ぁ………」

「……」

小さな声を上げたカイトに寝間着の背を軽くつままれ、動けもせずに止まる。

なんだそのつまみ方。

遠慮がちで、妙に幼い。

これからマスターを寝かしつけなければならない以上、ここで煽られている場合ではない。そもそもマスターが学校に行っている昼間に、存分に堪能しただろうといえば、それもその通りで。

懸命に平静を装って、振り返った。

「どうした」

なんでもないかのように訊くと、カイトはぱっと寝間着から手を離した。真っ赤になって身を縮め、俯く。

「あ、ごめ…………つい……」

つい、でひとを煽るな!!

そうとは思ったが、何度も言うように、俺の都合だ。細かな仕種のいちいちに、煽られる俺に忍耐やら我慢やら諸々が足らない。

「………なにか気になることでも、あるのではないか?」

意味もなく、ひとに縋るようなカイトではない。こういう関係になって、いつでも縋れとそれとなく示しているのだが、これでいて強情で、頑固で偏屈だ。

どんなことでも自分ひとりで抱えて、どうにかしようとする癖が、今ひとつ直りきらない。

きちんと向き合って顔を覗き込んだ俺から、カイトはふい、と目を逸らす。羞恥に赤く染まったままだ。このままうっかり、口づけて押し倒しても赦されるような気がする。

もちろん、そんなことをすれば烈火のごとく怒られることが目に見えているのだが。

「………ん、ぅうん………ごめ……なんでもなぃ………」

もそもそと言いながら、カイトはくちびるを指でなぞる。

さっきもしていた。口になにか違和感があるのか。

嘘をつくような性格ではないから、歯磨き粉が口に合わないならそうとはっきり言うだろうし、なにが気になって口を弄っているのか。

「カイト?」

辛抱強く呼び、見つめ続ける。

それでも強情に口を噤んでいたカイトだが、ややしてさらに赤くなると、上目遣いに俺を見上げた。

「…………惚れ直した」

「は?」

出て来た単語が、まったく意味不明だった。

いったいどこからどう繋がって、なにに惚れ直したというのか。

咄嗟に応じられずに間抜けな声を漏らした俺に、カイトはますます赤くなり、瞳を熱情に潤ませる。

「………がくぽに、惚れ直した」

「……あ?」

今度は、胡乱な声が上がる。

俺にべた惚れなカイトだから、惚れ直すことなどしょっちゅう――だといい、とか、希望的観測はさておき。

思いつつ、黙って先を促す。

カイトは目を逸らして口元を押さえ、もごもごと続けた。

「………あまいもの、だめなのに……マスターにつきあって、甘い歯磨き粉使ってあげたり………ちゃんと、うそじゃなくて、おいしかったって、言えたり………マスターがヘンなふうに誤解して、傷つかないように、言い方を工夫したり………」

「………」

「そぉいうの、ぜんぜん、無理してるふうじゃなくて………すっごく、自然に、やるから………」

そこまで言って、カイトは潤んだ瞳を俺に向けた。

ほんわりと、笑う。

「も、すっごくかっこよくって…………こんなすてきなひとが、って…………惚れ直しちゃった」

最後は茶化すように軽くしながらも、カイトの瞳は熱っぽく潤んだままだ。

俺はほとんど固まって、凝然とカイトを見ていた。

どうしたものだろう、こいつ。

俺に対して夢見がちというか、美化し過ぎというか、どうでもいいから押し倒したい。

今すぐ滅茶苦茶に抱いて、もっともっと夢見がちに蕩かしてやりたい。

動くとおそらく、堪えられないことがわかっていたので、ますますもって俺は動けない。

その俺からふい、と目を逸らし、カイトはくちびるを指で辿った。

「………………惚れ直して………すっごく、キス、したかった………ん、だけど………」

そこまで言って、わずかに口ごもる。

躊躇ってから、困ったように笑った。

「バナナといちごの歯磨き粉で、口のなか、甘くしちゃったから…………できないやって思って、んっ?!」

堪えが利いたのも、そこまでだった。

俺はカイトを掻き抱くと、くちびるを合わせた。驚きに開いた口の中に舌を差しこみ、味を辿る。

確かに妙な甘ったるさがある。

普段、俺とカイトが使っているのは、大人用のミント味の歯磨き粉だ。幼いマスターは『からい』と顔をしかめるが、俺たちにとっては、ちょっとした清涼感を感じる程度の。

だからいつもなら、歯を磨いた直後には、妙に冷たいような、沁みるような感じで、おもしろい。

が、今日は――

「ん、んんん…………ふぅぁ、ぁ………んん」

甘く啼きながら、カイトが縋りついてくる。軽く爪を立てられて、その微細な痛みにまた煽られ、ますます深く口づけた。

残る甘さが唾液によってすべて流されて消えてしまうほどに、丹念に口の中を探り、味わう。

「………はふ……」

ややして離れた頃には、カイトは自分ひとりで立っていられなかった。

ぎゅ、としがみつかれて、このまま押し倒してやりたいと痛烈に思う。

だが、そうもいかない――マスターが寝室で、待っている。今日の絵本を持って、川の字で寝ることを楽しみにして。

幼い彼女に、無闇な寂しさを与えたくない。そうでなくても生まれてこのかた、両親とほとんどいっしょに暮らしたことがなく、常に寂しさと闘っていたマスターだ。

せっかく俺たちがいるというのに、無益な寂しさなど、そうそう与えたくない。

だから、今日は堪える。

無理やりではあるが、不快というほど不快でもない。

女であるマスターが、ロイドとはいえ成人した男である俺たちに添い寝を赦す期間など、たかが知れている。この時間がどれだけ貴重か、わからないほど愚かでもない。

だから、今は――

「………ぁ…」

爪を立てて縋りつくカイトを抱きしめ、俺ははたと思い至った。

立てなかろうが、それは俺が抱いて運べばいいだけの話だから、いい。

問題は。

「カイト。おまえ、話せるか」

「………」

訊いた俺の舌がそもそも、うまく回らなかった。一瞬背筋が粟立つほどに、妙な舌足らず感。

だとすると、カイトはもっと。

縋りつく指にだけ力を込めたカイトに、言葉にならない――出来ない答えを読み取り、俺は軽く天を仰いだ。

絵本読みは、俺がやるしかないようだ。

『がくぽってどうしてそう、デタラメに読むの?!』と、マスターには微妙に不評なのだが、致し方ない。

一度項垂れてから、俺はカイトを腕に抱き上げた。慌てて首に腕を回してきたカイトを抱き寄せ、もう一度、軽く口づける。

「姫抱っこだ。惚れ直していいぞ」

「……」

茶化すように言うと、カイトは俺の肩口に顔を埋めた。すり、と頭をすり寄せる。

「…………がまんできなくなっちゃうから、もぉ、かっこいいの、だめ………」

壮絶なまでの、舌足らずで甘い声音で、吐き出される。

要らんとこにツッコミ入れた。

そこだけは痛烈に噛みしめつつ、俺は逸る体を宥めすかして、寝室へと向かった。