ひょこんとキッチンに顔を出したグミは、ひくひくと鼻を蠢かせた。

充満するのは、甘く蕩ける芳しい香り。

スウィーティア・スウィーティ

「カイ兄者ーできたか?」

「うん、グミちゃん。ちょーど焼けたとこ」

訊いたグミに、蕩ける香りの持ち主――と錯覚しそうなほどに甘く笑って、カイトはオーブンから熱々の鉄板を取り出した。

その上でこんがりキツネ色に仕上がっているのは、手作りのクッキーだ。

「うまそうじゃの」

ひょこひょこと寄って来たグミは、コンロの上に置かれた鉄板を覗きこみ、じゅるりと唾液を啜った。

「うん。うまくできたよ」

さらりと言いつつ、カイトは新しくオーブンペーパを出して、その上に焼き立てのクッキーをいくつか取り分けて包んだ。

じゅるじゅると唾液を啜りつつも、グミはその様子を眺めているだけだ。つまみ食いのための、はしたない指を伸ばすことはない。

それは単に、熱過ぎるから、ということのみならず――

「………ということは、終いじゃの?」

「うん。終わり。あとは、後片付けして………っとと?」

クッキーを焼いている間に、ざっと洗い物は済ませた。しかしまだ多少、残りがある。

キッチンを見回して言ったカイトの背を、グミはぐいぐいと押した。キッチンから出るようにと促され、カイトはきょとんとした眼差しを背後の少女に流す。

「グミちゃん?」

「後はグミがしておく。ゆえにカイ兄者は、疾くとリビングへ行け」

「でも、グミちゃん」

そんなの悪いし、とつぶやくカイトを、グミはきりりと見上げた。

「カイ兄者にしかできぬ、お役目があろう。グミは良い。残りのクッキーを報酬に貰えたなら、それで」

「うん。それは自由に食べてもらって、いいけど……」

ぼそぼそと言いつつ、カイトは軽く天を仰いだ。

自分にしかできない、お役目――

「リリィも手伝うから、だいじょぉぶよ~、カイトくん♪」

「ぅわっ!」

わずかに考えこんだところで、神出鬼没の少女――リリィに明るく背中を叩かれ、カイトはびくりと竦んだ。思わずクッキーの包みを取り落としかけて、慌てて抱え直す。

「ね、カイトくんおりょーりしたあとの片付けなんて、オトコらしく、いもーとたちに押しつけてリビング行っていって~☆」

「えーとー……………」

微妙に引っかかる言い方だが、これはこれでリリィの心遣いだ。それが世間一般の『男』というものだから、カイト一人が横着なのではないと。

「うん。じゃあ、お願い………クッキー、全部食べちゃっていいから」

「はぁい、ごちそぉさまぁ♪」

カイトは笑って『妹』たちに頭を下げると、リビングへと歩き出した。

その背に、リリィは可愛らしい笑顔で手を振る。

「あんっなメイワクさまの面倒、カイトくんにしか見られないし~それに比べたらお台所の片づけなんて、ちょちょいのちょいの、ちょろちょろりんよ~☆」

「そうか。ではリリィは片づけ係、グミはクッキー食い係な。グミはちっとも、ちょろちょろりんじゃないしの」

すでにばりぼりと、焼き立てで熱いクッキーを鉄板から直食いしているグミが、リリィに向かってさらりと手を振る。

にっこりほわわん笑顔のまま、リリィはそんなグミの頭を鷲掴みした。

「それとこれとは、別なのぢゃー☆」

***

リビングのソファにだらしなくぐでんと凭れていた、リリィ曰く言うところの『メイワクさま』は、切れ長の瞳を壮絶に険しく眇めてカイトを見た。

「遅いぞ、貴様っ!!」

「遅いって、がくぽ…………」

怒鳴りつけられて、リビングに入ろうとしたカイトは軽く肩を落とす。

毎度毎度のことながら、我が儘大王ぶりに躊躇いがない、この男。

遅いとは言うけれど、カイトは待っててくれと言った覚えもなし、待ち合わせの記憶もなし。

待っていたのは、一方的にがくぽの勝手だ。

――という、至極まっとうな理屈が通じる相手では、ない。

「弟が仕事から、疲れて帰って来たというのに、なにを愚図愚図していた?!兄である貴様が今、もっとも優先すべき仕事は、疲れている俺を甘やかすことだろうが!」

「あー……もぉ……………」

兄だ弟だと言っても、年齢設定的には微妙なところだ。たかが起動日の、遅い早い。

だがこの我が儘大王様は、ふんぞり返って自分を『弟』だと主張し、『兄』であるカイトを顎で使う。

今もそうだ。

リビングの扉口に立ち尽くしたまま軽く天を仰いだカイトに、がくぽは苛々を隠しもしないで、ばふばふとソファを叩いた。

「早く来いっ。俺を甘やかせっ」

「ほんっといつもながら、どうしてそうまで堂々と甘えたがるかなあ………」

いい年した男が、という一言は辛うじて飲み込み、カイトは立ち尽くしていた扉口からリビングに入った。

主に反論する面倒さから命じられるまま大人しく、がくぽがふんぞり返って座るソファの前に行く。

そうやって、甘やかせ甘やかせと、恥も外聞も衒いもなくカイトに命じるがくぽだが、実際のところ――

「ったく、手間をかけさせるっ。俺は仕事で疲れているというのに、貴様というやつはっ」

「はぁい。ごめんねー」

罵りながら、がくぽはカイトを自分の膝に乗せて抱きしめた。

カイトは大人しく抱かれながら上滑りな謝罪をこぼし、がくぽの体に凭れかかる。

しかしすぐに、がくぽによって引き離された。

「おい」

「………はぁい」

指示語だけで傲然と命じられて、カイトは手に持っていた包みを自分の膝の上に置く。

じっと睨みつけるがくぽの頬に手を添えると、瞼に鼻にこめかみに、ちゅっちゅと軽い、羽ばたくようなキスの雨を降らせた。

――かわいい女の子は、たくさんいるのに。

がくぽにキスの雨を降らせながら、カイトはわずかに考える。

――かわいい女の子はたくさんいて選り取り見取りなのに、どうして成人した男である自分からのキスを欲しがるのか、この男。

疑問はあっても口には出さず、カイトはひたすらがくぽにキスを与える。

慰撫するように、激情を宥めるように、――

ややしてがくぽの肩からわずかに力が抜けたことを確認し、カイトはキスを止めた。途端に、がくぽの瞳は尖る。

「おい。誰が止めていいと」

「ね、がくぽ。おやつ食べよクッキー、おいしいよ?」

ぎろりと睨まれても怯むことなく微笑んで、カイトは膝に置いた包みから、こんがりキツネ色のクッキーをひと欠けつまみ出した。

微笑んだまま目の前で軽く振ると、がくぽはぎしぎしと奥歯を軋らせる。

「貴様………よくよく学習しないな…………………俺は甘いものは嫌いだと、幾度言えば」

「でも、がくぽ。疲れたときは、甘いもの食べると早く元気になるって言うよ疲れたんでしょね、おやつ食べよ」

「……………」

がくぽはぎしぎしと奥歯を軋らせ、カイトが掲げるクッキーを睨みつけた。

それでも引かれることなく差し出されたままのクッキーを挟み、沈黙の攻防を繰り広げること、数秒。

「がぁくぽ。………あーん」

「…………っ」

甘い声で促したカイトに、がくぽはゆっくりと口を開いた。

素直な態度がかわいいと、うっかりときめきつつ、カイトはその口にクッキーを押し込む。

ばりぼりと壮絶な顔で咀嚼していたがくぽだが、ふっと眉を上げた。

「……………貴様が作ったのか」

「んうん、今ね。………がくぽ、焼き立てのクッキーはおいしいって言ってたでしょ。だから」

問いに、カイトはほわんと微笑んで答える。

がくぽはさらに壮絶な渋面になってから、口を開いた。

「寄越せ」

「うん」

おなかの空いたひな鳥のようだ。

見た目からするとまったくそぐわない感想を平然と抱きつつ、カイトは強請られるまま強請られるだけ、がくぽの口にクッキーを運んだ。

結局、小さな包みに持ってきたクッキーはカイトの口にひとつも入ることなく、がくぽがすべて食べ尽くした。

甘いものが嫌いと言ってはいるが、がくぽはカイトが作ったおやつを残したことがない。

「いい子」

「ぬかせ」

「んっ……………っ」

褒められて吐き捨てたがくぽは、カイトの後頭部を掴むと押さえこみ、強引にくちびるを重ねた。

瞬間的にびくりと竦んだカイトに、抱きしめるがくぽの手に力が篭もる。

そんなことをしなくても、逃げない。

言っても通じないので、カイトはがくぽの首に腕を回した。自分から顔を寄せて、さらに深くくちびるを重ねる。

「ん………っ、んん、ふ…………ぁぅ」

――かわいい女の子は、たくさんいる。

くちびるを触れ合わせるだけでなく、舌を絡めて互いの口の中を漁りながら、カイトはわずかに考える。

――かわいい女の子はたくさんいて、それこそ選り取り見取りなのに。

どうしてもがくぽは、カイトとキスをしたがる。同じくらいの年の、男であるカイトと。

挨拶のキスではなくて、もっと深く激しいキスを――

「ふぁ………あ…………」

ややしてくちびるが離れると、カイトはすっかりくたんと蕩けて、がくぽに凭れかかった。

事ここに来てようやく、がくぽの表情から険が取れ、体が緩む。膝の上でくったりとろんと蕩けるカイトを宝物のように抱いて、ご満悦顔だ。

甘やかせ、と。

がくぽが求めるその意味が、未だに掴めないカイトだ。

膝の上に乗せられて、抱きしめられて、キスに溺れて、結局最後はがくぽに頼り縋る。

おやつを口に運んでやったのが、ようやく『甘やかした』ような、微妙なところ。

どちらかといえば、がくぽがカイトを甘やかしているように見えるだろう。

目的は果たされていないはずなのに、我が儘大王様のご機嫌は上昇中だ。

「ほんっと、よくわかんない………」

「あ゛?」

もつれる舌で吐き出されたカイトの慨嘆に、がくぽの瞳にわずかに険が戻った。

苦笑して、カイトはがくぽの頬を撫でる。とろんと蕩けた瞳で、険しく尖る花色の瞳を見つめた。

「キス。…………もう一回したいって………言ったら、イヤ?」

問いかけると、きつく尖っていた瞳がふわっと開いた。

すぐにくしゃりと歪むと、わずかな意地の悪い色と、たっぷりとした喜悦を含んで、蕩けた微笑を向けるカイトを見つめ返す。

後頭部に手が回って、がくぽのくちびるが近づいてきた。

「まったくもって我が儘で、仕方のない兄だな、貴様は。手が掛かるったらない」

偉そうに腐すくちびるが、苦笑に歪むカイトのくちびるを躊躇いもなく覆う。

自分も腕を回してがくぽにしがみつくと、カイトは舌を差し出した。

「………はぁい」

同意とも、さらりと流すともとれる言葉を吐くと、カイトはがくぽとのキスに溺れた。