翌朝、カイトはきちんと部屋から出てきた。

朝となると家族全員が集まるダイニングにやって来て――すでにテーブルについていたがくぽを見て、その顔が歪んだ。

嫌悪ではない。罪悪感だ。

顔の半分をガーゼに覆われたがくぽの痛々しい姿に、カイトはその傷を負わせた自分を責めたのだ。

悪かったのは自分のほうだと、がくぽはわかっている。

約束を破った。なにをしたとしても、決してやってはいけないことをした。殴られて当然だ。

だから、カイトが罪悪感を抱く必要など、まったくないというのに――

War of Bride Pride-3回戦-

「あ、ああ、ええと……………っ、カイトっおはようっ!」

「っぁ、はい、マスターっ…………おはよう、ございます………」

なんとも言えない空気の中、マスターが中途半端に明るい声を上げた。気を遣っているのが、あからさまだ。

反射で返事をしたカイトだが、すぐに卑屈なほどの愛想笑いを浮かべると、後ろへとにじった。

「あ、…………あの。俺、やっぱり、部屋で…………」

「っっ」

はっと顔を上げたがくぽをちらりと見てすぐに目を逸らし、カイトは後ろ向きににじって、ダイニングから出て行こうとした。

慌てたのはがくぽもだが、マスターもだ。

椅子から立ち上がると、マスターはわたわたと手を振った。

「い、いやっ、カイトっカイトは悪くないからっ悪いのはたぶんがく」

「マス、!」

「ちーーーーーーーんっっ☆」

なにかしら下手なフォローを重ねようとしたマスターに、カイトが悲痛な顔を向けるのと同時だった。

真実明るい声が上がり、ちゃりんという軽い音ともに、マスターの前には紐の通された五円玉がぶら下がった。

リリィだ。

キッチンで朝食を作っていたリリィだが、カウンタを挟んだダイニングの様子はきちんと窺っていた。

そして満を持しての――満を持しての。

「はぁい、マスターこの五円玉を、よぉおっく見てね~ぼ~んぼ~んぼ~んや~りっ♪」

「ぼ」

リリィの言葉をくり返しかけて、マスターの瞼がぱたんと落ちた。怪しい半眼となって、ぶらぶら揺れる五円玉を追う。

「ぼ~ん……………ぼ~ん………………」

「そぉよぉ、マスター心配事なんか、なぁんにもないのーマスターは、リリィの作った朝ごはんをたっぷり食べて、今日も元気にお仕事行ってね~☆」

「りりたんの…………つくった、ごはん…………たべて…………………しごと…………いく…………」

「そぉそぉ!大事なことだから、もう一回~♪」

「だいじ…………」

――胡乱にもほどがある過程を経て、ダイニングと家族は仮初めの落ち着きを取り戻した。

あくまで、仮初めだ。

がくぽとカイトは顔を背けたまま、決して見合うことがない。

がくぽは常にカイトを膝に乗せて独占したがったが、今朝は腕を伸ばす素振りもなかった。

膝に乗るどころか、カイトはがくぽと対角線になるグミと、場所を交換した。本来なら二人の席は隣同士だ。

マスターは胡乱な過程のために目がぐるぐるしていて、グミは努力によって平静な顔を保っている。

まったくいつもと変わらないのは、リリィだけだった。これは天性ともいえる、マイペースさ加減によるものだ。彼女のペースは、兄同士が喧嘩した『程度』では崩せない。

そうやって、気まずいにも程がある朝食を終えると、カイトはそそくさと自分の部屋に帰ってしまった。

「………っ」

思わずがくんと顔を落としてダイニングテーブルに懐きかけて、寸でのところでがくぽは堪えた。

隣に座っているのは、グミだ。『待つ』とは言ったものの厳しい目で、崩れかけた兄を睨んでいる。

『見て』もらえることに、甘えすぎるわけにもいかない。

がくぽはカイトにとっては『弟』だが、グミにとっては『兄』だ。情けない兄の姿を見て、うれしい妹はいない。

テーブルに肘をついて額に当て、ぎりぎり堪えたがくぽに、グミは鼻を鳴らした。及第点はもらえたようだ。

くちびるを苦い笑みに歪めたがくぽに対し、グミのほうがべたんとテーブルに顔を懐かせた。ただこちらは、がくぽとは意味が違う。

そうやって俯く兄の下になって強引に顔を覗きこんだグミは、憤りでももどかしさでもない、不思議そうな光を宿した瞳をしていた。

「がく兄者。グミは最前より、不思議に思っていたことがあるのじゃが」

「応。……………なんだ」

問われる雰囲気に、がくぽは顔を上げた。椅子の背もたれにだらしなく体を預けると、テーブルに懐いたままの妹を見る。

「なにゆえがく兄者は、カイ兄者と『兄弟ごっこ』なぞをしておるのじゃがく兄者が『兄弟』と言いながら、『兄弟』にあるまじき振る舞いに及ぶゆえ、カイ兄者も混乱して、今回のようなことになるのじゃろう?」

「……………」

咄嗟には答えられず、がくぽはガーゼに覆われた頬に触れた。

妹というものは、時として残酷なまでにはっきりと事実を指摘し、痛いところをあっさり突いてくる。

男同士ならば暗黙の了解で流すものを、妹――女性は、赦さない。曖昧に誤魔化すことも、答えを濁すことも。

わずかにくちびるを引き結んでいたがくぽだが、じっと見つめてくるグミに諦め、苦い笑みを浮かべた。

「………役目が必要だと、思ったのだ。ただ漫然と受け入れるのではなく、はっきりとした役目=『役名』が」

「………」

無邪気とすら言える眼差しのグミに、がくぽのくちびるはますます苦く笑んだ。

話すたびに、痛い。頬の傷は一朝一夕にどうにかなるものではなく、だらしない関係に甘えていた自分の愚かさとともにさらに痛みを増して、泣きそうだ。

泣くわけにもいかないので、がくぽは笑う。

「あれを初めて抱いたのはな、――あれの『マスター』の訃報が届いた日だった」

「っ!」

カイトは階下の自室に引き篭もって、マスターも出勤の準備のため、すでにダイニングにいない。

聞かれてまずい相手もいないがそれでも声を潜めて、がくぽは吐き出した。

グミが弾かれたように体を起こし、こちらもさっとダイニングを見回してから、がくぽへと視線を戻す。

「兄者」

さすがに責める響きが入ったグミに、がくぽは視線を逸らさないよう、腹に力を込めた。

「覚えていようそもそもあれが、うちに来た経緯だ。『人間』が懸命に考えて、あれのためを思ってした苦渋の選択であり決断だったが、――肝心要の本人が、さっぱり納得していなかった」

「………じゃな」

カイトが納得して『貰われた』わけではないのは、確かだ。それには同意するしかないので、グミも頷いた。

しかし相変わらず、瞳には微妙に兄への不信感が覗いている。

逃げたくなる己を叱咤しつつ、がくぽは記憶を探るようにわずかに瞳を伏せた。

「………『マスター』の命令とあらば、俺たちロイドに拒否権はない。うちに来た日だ。『マスター』権の移譲はすでに済ませていたにも関わらず、あれは『マスター』を思って、泣き腫らしていた」

「…………そうじゃ。事情が事情じゃし、仕方のないことと思うたが……」

「そうだな。あれの願いはひたすらに、『マスター』の傍にあることだった。余命を宣告されて幾許も残らない日々を、『家族』としてしあわせに彩り、『マスター』を看取ってやること」

「……………」

相槌も打てずに、グミは再びテーブルに懐いた。

考えたくもない。いずれ訪れることはわかっていても、『マスター』が死ぬことなど。

死んで、置いていかれる日のことなど――

だがカイトは、実際にそういう場面に晒された。

まだ若いにも関わらず、致命的な病魔に冒された『マスター』が余命を宣告されたことによって。

「俺たちにとって、『マスター』の『死』ほどにダメージを食らうものもない。たとえ憎み合っていてすら、少なからぬ傷を被る。関係によっては、自壊することも――看取るなど、論外だ」

「ああ」

「それを回避し、なんとかあれを永らえさせようと、『マスター』同士が協議しての生前贈与――『マスター』権の移譲だ。先に『マスター』が変わっていれば、たとえ前の『マスター』が死んだところで、己を支える基幹たる『マスター』は、存在している。傷は小さい」

「…………」

カイトを引き取るということになったときに、事前にすべての事情はロイドたちに明かされた。

そもそも、常から好みではないと言っていたラボのロイドを引き取るのだ。『家族』の不信を買うことは必至で、そのうえに背景だ。

黙って放り込めば、すでに傷ついているカイトをさらに傷つけることになる。

だからマスターは、がくぽとグミとリリィを集めて、きちんと説明した。

こういう事情で、カイトを引き取るからと。

俺もがんばるけれど、おまえたちも協力してくれないか、と――

「………最後までカイトは、『マスター』の家族として傍に置いてくれと、泣き喚いていたらしい。自分がいなくなったら、『マスター』は家族もなく、ひとりで最期を迎えなければならない。そんなことは、絶対に嫌だと」

「ついでに、『マスター』権の移譲が済んで、うちに向かう道中でもずっと、泣いておったのじゃろう」

「らしいな」

新しい家に上がって、新しい家族の前に立ったときには涙を止めていたカイトだが、それまでずっと泣き通しだったのだ。泣き腫らした目といい顔といい、浮かべきれない笑みといい、痛々しい以外のなにものでもなかった。

リリィはあの通りの性格なので、綺麗に無視して明るくカイトを迎えてみせた。

がくぽは鮮明に覚えている。グミが反射的にがくぽの羽織を掴んで、どうしたらいいのかと縋ってきた、その感触を――

「ただ『迎える』だけでは、駄目なのだと思った。そうでなくとも、あれは旧型だ。曖昧を理解するのに、俺たち新型より時間が掛かる。歓迎していると空気で伝えるのではなく、家族におけるわかりやすい役目――『役名』があることが、まず必要だと」

「…………それで、『兄』だと?」

片眉を上げて訊いたグミに、がくぽは頷いた。

「そうだ。一般的に『兄』と『弟』というのは、『家族』に対しての呼称だろう。割り振られる役目もわかりやすい。『兄』は『弟』の面倒を見るもの。『弟』は『兄』に世話をかけるもの」

「………………掛け過ぎじゃと思うがのー…………」

ぼそっとこぼしたグミだが、わかってもいた。

それくらいに手の掛かる『弟』でなければ、駄目だった。大人しく兄に従う貞淑なる弟ではなく、年下であることを振りかざして我が儘放題し、兄を振り回すような弟でないと。

――貴様、起動はいつだ。

泣き腫らした顔で、卑屈なほどの媚びる笑みを浮かべていたカイトに、がくぽは前置きもなくそう訊いた。

瞬間的にきょとりとしてから、カイトは怯えるように身を引いて答えた。

――三年、くらい、前?

――曖昧だなまあ、いい。俺が今、あと少しで三年になるところだ。つまり貴様のほうが、起動が先、年上だ!

――えー………………っと。………………そう、なる………の……………?

卑屈な笑みを消し、カイトは困ったように瞳を瞬かせた。計算ができないのだ。

そのカイトに考える隙も与えず、がくぽはずいっと顔を寄せた。間近で、湖面のように揺らぐ青い瞳を覗き込む。

溺れそうだと、思った。

――そうだとも貴様が兄で、俺が弟だ。存分に甘えてやるからな遠慮するな、貴様も好きなだけ、俺を甘やかすがいい!

――えー………………………

にんまり笑って告げたがくぽに、カイトは束の間、微妙な表情を浮かべて瞳を瞬かせ。

笑った。

――がくぽって、ヘン………………………

それは先までの媚びを売る卑屈な笑みではなく、心から浮かんだ、カイトの『初めて』の笑みだった。

溺れる。

そう思った。

それからは、カイトもなんとか『家族』に馴染み、新しい『マスター』にも心を開くようになり――

「したが、そうまでしても、程なくして届いた『マスター』の訃報を聞いて、あれはひどく動揺した」

「グミはそのとき、お出かけ中じゃった。家に帰ってきたら、マスターが葬式に出かけたと聞かされて…………でも、泣き腫らした顔はしていても、カイ兄者は………」

「抱いた」

「………………」

簡潔明瞭に告げられた言葉に、グミはテーブルに懐いたままずずっと後ろへにじって、兄から離れた。

不信感が山盛りになった妹の視線に、しかしがくぽは笑みを浮かべてみせる。

「動揺したと言ったが、――『マスター』たちがああも努力奔走したというのに、あれはほとんど、自壊寸前だった。すべての企みが、あれを幸いに永らえさせるためだったというのに、無為でしかなかった」

「それでは……」

「葬式に行くかと訊いたマスターの前までは、あれも動揺している程度に見えた。しかし気を落ち着けたいと、己の部屋に引っ込んで――」

一人にしてやったほうがいい。

そう判断する常識的な自分とは別に、ひどくまずい予感があった。

がくぽはカイトを追いかけて、固く鎖された扉をこじ開けて部屋に入り――

「…………ショック療法のつもりだった。『マスター』の後を追って、あれの心はほとんど、彼岸に行っておったゆえ。男に――これまで信頼していた『弟』に押し倒されれば、それなりに衝撃を受けよう?」

「まあ………」

あまり考えたくはない種類の衝撃だ。

衝撃だという点では頷いたものの、グミの顔は複雑な感情に歪んでいた。

短絡的というより、それ以外に方策がないと思いつめるほど、カイトの状態は悪かったということだろうが、それにしても。

「それでも戻らぬなら、――さすがに俺には打つ手もない。しかし幸いにも、口吸いして押し倒し、服を剥く途中で意識がはっきりしてきてな」

「…………ほう?」

グミは多少の不信感は残しつつも、どこか楽しげに話すがくぽを見つめる。ひどく無邪気な顔だった。

がくぽはカイトに、『兄弟』では決してしない激しいキスをし、固まったまま動かない体を強引にベッドに転がして、服を開いた。

手では肌を探りながら、がくぽは多少の傷は仕方ないという覚悟で、カイトの肌に咬みついていった。

――っぁ、がく……………っ?!ゃ、いた………………っ!

――このうすらぼんやりが。

息を吹き返した声に、がくぽは実のところ、頽れそうなほどに安堵していた。

しかしおくびにも出すことなく、未だ固い動きでがくぽに抗するカイトの肌を撫で回し、くちびるを辿らせた。

――そうやってうすらぼんやりしているから、こういうことになる。貴様には、手の掛かる甘えたな『弟』がいることを、忘れるなよ。油断すれば咬みつくぞ。俺から寸暇も意識を逸らせば、食らい尽くすぞ。

伸び上がって耳朶に吹き込みながら、がくぽはカイトの下半身を弄った。重なる衝撃に、カイトの男の象徴は未だしんなりとしていた。

構うことなく、がくぽは強引に手に取ったそれを扱き、擦り、撫でてやって――

達したところで、カイトはほとんどいつも通りに戻っていた。多少の動揺は引きずっていても、あくまでも動揺の範囲だ。

そこで止められれば、よかった。

しかしカイトに、膨れ上がって求めるがくぽの欲望を知られ――

入れていいよ、と。

堪えようとしつつも、離れがたくカイトの下半身を弄ってしまっていたがくぽに、カイトが言ったのだ。

――いれて、いーよ、がくぽ…………俺のなか……………。

なにを思って吐き出された言葉なのか、考えることもしなかった。できなかった。

初めて会ったときに強く思ったまま、がくぽはカイトに溺れていた。

いいよと言われたなら、そこにどんな意図があっても、付けこむことに躊躇いも覚えないほど。

初めてでも、ロイドだ。カイトの中はやわらかくほどけてがくぽを受け入れ、伸ばされた手も絡みつく足も、懸命にしがみついて――

「そういえば、あれからじゃな。がく兄者が、四六時中カイ兄者をつけ回し、追い掛け回すようになったのは………膝抱っこしたがるようになったのもそうじゃし、『兄弟』にあるまじきキスやらを矢鱈とやるようになったのも、夜中に寝床に忍び込むのも………」

「…………覚えたからな。あれの味を。あれに触れる快楽を。堪えも利かなくなった」

「………………」

苦く笑って吐き出したがくぽを、グミは不信感もない、透明な瞳で見つめた。

じっと、じっと――

がくぽはさらに苦笑し、俯いた。グミの視線から逃げて、首を振る。

「不安だった。わずかでも目を離せば、またああなるのではないかと。一人きりにしたなら思い出に耽り、また――」

そう思うと、傍にいなければ不安で仕様がなくなった。片時も離れずに見ていなければ、触れていなければ、『連れて行かれる』と。

けれど同時に、触れる快楽も知った。

不安で傍に置いているのに、いつも通りのカイトを見て安堵すると、今度は堪えようのない欲望がもたげる。

「………………わかっていながら、甘えた。俺の咎だ」

「まあ、そうじゃな」

がくぽが吐き出した結論に、グミはあっさりと頷いた。テーブルに懐いていた頭をようやく起こし、こきりこきりと首を捻る。

俯いたままのがくぽをちらりと見てから、伸びをした。

「なにゆえカイ兄者が『甘え』させてくれていたか、考えもせずに肉の快楽に溺れたのじゃ。当然の報いじゃな、がく兄者は」

「はっ」

容赦のない指摘に、がくぽは笑う。

これだから、妹というものは――

痛みに歪む笑みを浮かべたがくぽの額を、グミはべちりと平手で払った。

「がく兄者はな、当然としても――カイ兄者を道連れにするな。あと、時間を遣るとは言うたが、俯いていいとは言っておらん。グミの兄者なら、死んでも顔は上げておけ!」

「…………………ふ………っ」

言い置いて立ち上がり、ダイニングから出て行くグミを見送って、がくぽは叩かれた額を撫でた。

おそらくグミはこのまま、カイトの元に行く。しばらくは、彼女がカイトを見ていてくれるだろう。

その間に――

「まったくもって…………」

これだから、妹というものは――有り難い。

苦い中にやわらかさを宿して笑い、がくぽもまた、重い腰を上げた。

まだ、カイトのところに行くわけにはいかない。

ただ少しでも、カイトが部屋から出て来やすくするには、がくぽが部屋に篭もっていることが必要だ。

そう考えて、がくぽもまた、自分の部屋へと戻った。

一歩入り――

「……………?」

違和感に部屋を見回して、がくぽは眉をひそめた。

部屋の片隅に置かれた、コート掛け。そこに吊るしておいた羽織が、なくなっている。

替えもあるから、急には困らないものの――

「……………」

しばし立ち尽くし、がくぽは空白を見せるコート掛けを眺めていた。