「じゃぁあんっりりたんのすぅぱぁけっさくうっ☆」

膠着状態も三日目に入った朝は、休日だった。

家族は多少ゆっくりと朝食を済ませ――たが、リリィだけはさくさくっと食べ終えた。

そして席を立ち、ダイニングから出て行ったかと思うと、戻ってきた手に持っていたのが、――

War of Bride Pride-4回戦-

「お、りりちゃんがくぽか!」

「ぅふふふふふぅっマスター、あったりぃ♪」

リリィが最高傑作だと言ってお披露目したのは、布製の人形だった。ぬいぐるみと言ったほうが、近い。

二頭身にまで縮められ、デフォルメが利いたキャラクタ化されたのは、誰あろう、がくぽ――『神威がくぽ』という汎用製品ではなく、『リリィの兄』である、がくぽだ。

大きさは、人間の赤ん坊ほどもあるだろうか。手作り品だとしたら、かなりの大物といえる。

微妙な空気を醸し出して、それぞれ明後日な方向を見ながら食事をしていた家族だ。

しかしさすがに今は、リリィが誇らしげに掲げる『がくぽ人形』へと視線が集まっていた。

「リリィが縫ったのか?」

デザートのシフォンケーキを食べていたグミが、テーブルから身を乗り出して訊く。リリィは人形を前後に振った――おそらく、頷かせたのだ。

「そぉよ~りりたんがあいじょーこめこめ、手縫いしたのぉ☆」

答えてから、リリィは人形をがくぽの顔の横に持ってきた。嫌そうに視線を投げたがくぽに構わず、上機嫌で人形を振る。

「ね、見てみて~ほら、目つきの悪いとこなんか、おにぃちゃんにそっくりぃ~♪」

「やめんか、っぶっ!!」

睨んだだけでは効果がないと声を上げたがくぽの顔に、べしりと人形の顔がぶつけられた。

当初よりは多少小さくなったものの、がくぽの口周りには未だにガーゼがある。口の中も補修剤とパッチの効果で、概ね傷は塞がったといえる状態だが、まだ痛い。

綿をきつく詰めた人形の顔パンチはそれなりに重さがあり、思う以上の痛みが走った。

ぐっと歯を食いしばって苦鳴を堪えたがくぽは、今日もグミと席を交換しているカイトへ素早く目をやる――やはり、がくぽを見ていた。

人形を追いかけていれば仕方のないことだが、そうとなると。

「………っ」

痛みに思いきり歪めたいのを根性でねじ伏せて、がくぽはすぐに元の平静な表情を取り戻した。

カイトはふいと視線を背け、ダイニングを踊るように歩くリリィに振り回される――共に踊る人形を、追う。

「ぅふふふっおにぃちゃん人形のファーストキスは、おにぃちゃんに奪われちゃったわね~ぃやぁあんっおんなじ顔同士でちゅうなんて、いやらしぃいっ♪」

「リリィっ!」

確認しよう。

『がくぽが奪った』のではない。リリィが人形で、がくぽに顔パンチを食らわせたのだ。

こういった曲解はいつものこととはいえ、楽しげに踊りうたうリリィに、がくぽは渋面で腰を浮かせる。しかしすぐに、椅子に戻った。

カイトが立ち上がったのだ。

「リリィちゃん、ごちそうさま。ケーキもおいしかったよ」

「はぁい、お構いしましたぁ♪」

やわらかく笑みながらもがくぽを見ることなく、カイトは自分の食器をシンクに放り込み、ダイニングから出て行く。

そのカイトに、リリィは人形の感想を訊ねることもなく、笑って手を振った。人形のではなく、自分の手を。

「…………」

カイトの姿が見えなくなるのと同時に、がくぽは額に手を当て、くしゃりと前髪を掴んだ。

徹底した、カイトの姿勢だ。

がくぽのことは一切見ない。声も掛けない。

笑みは浮かべるようになったが、目はずっと赤く、泣き腫らしたまま。

「……………っ」

「………………」

深く項垂れて沈み込みたい気分になったがくぽだが、すぐに体を起こした。隣に座るグミの目が、厳しい。

背筋を伸ばして顔を上げたがくぽに、グミは厳しかった視線をすっと外した。

「ふん」

――鳴らされた鼻は不満そうだが、ぎりぎり及第点は貰えたと判断していいだろう。

密かに安堵するがくぽに構わず、グミは再びリリィへと身を乗り出した。

「どうするのじゃ、それ?」

問いに、リリィは人形を力いっぱい抱きしめて笑った。

「それはもちろんイヤラシイコトに使うのぢゃー☆」

――力いっぱい抱きしめられたために、布製の人形の顔は歪んでいたが、がくぽの顔も壮絶に歪んだ。

***

自分の部屋に入ると、もうカイトは堪え切れなかった。

「ふ…………っぇ、…………っ」

これだけ泣いても、まだ泣ける。

日も経ったというのに、まだ涙が溢れて止まらない。

「ぇ…………っ、え、ふぇえ…………っ」

懸命に嗚咽を噛み殺しながらも涙を止められないまま、カイトはよたよたとベッドまで歩いた。べたんと床に座り込むと、ベッドの下に手を突っ込む。

「ひ………っ、ぅ、ふええ…………っ」

ぼろぼろと涙をこぼしながら取り出したのは、ぐしゃぐしゃになった――羽織だ。

それをさらにぐしゃっと胸に抱きしめると、カイトはベッドに顔を押し付けて泣いた。

主に無断で持ち出して、数日経つ。その間、部屋にいるときにはずっとずっと抱きしめているからもう、香りなど残っていない。

嗅いでいても罪悪感が突き上げるだけで、心休まるわけではないけれど――

それでも、なにもないよりはましだった。

「ぇ、ふぇ…………っえ、えっ、え……………っ」

こんなに悲しいのは、久しぶりだ。

立ち上がれる気がしない。

初めのマスターと悲しいお別れをして、新しいマスターの元に来て、新しい家族と出会って――

崩れた体を、引き上げてもらって立つことを、覚えた。

仮にも成人男性であるカイトを軽々抱えてしまうひとに出会って、そのひとに腕を引いてもらうことに慣れてしまった。

腕を引いて、立ち上がらせてもらって、それでも足らないなら、抱え上げて持ち運んでくれる。

その力強さに頼ることに、縋ることに、あまりに慣れすぎた。

こういうときに、どうやったら自分の足で立ち上がれるのか、立ち直れるのか、わからない。

忘れてしまった。

「が………くぽ……………っ」

腕を引いてと、求めてしまう。

いつものように強引に、我が儘いっぱいに――四の五の言うなと居丈高に言って、抱いてくれと。

「ぅ……………っ、く」

頼るにはあまりに薄っぺらい羽織を抱きしめ、カイトはもう、痛みもない己の拳に爪を立てる。

ほとんど反射だった。

怒りが湧き上がって――その怒りはもちろん、約束を守ってくれなかったがくぽに対してもある。

けれど一番は、自分への怒りだった。

しあわせだと思った。

その自分が一番腹立たしくて、反って、腹の中のがくぽに怒りが向かった。

八つ当たりだ。

がくぽが求めてくれることに、甘えていた。

理由を問い質せば、もう触れてくれなくなる気がした。

すべてをはっきりさせたときに、自分が求める『答え』が得られるという自信がなかった。

そもそもの初めからして――

「ぅっふふかーいとくんっ☆」

「……………っんっ」

泣き濡れながら慙愧の念に沈んでいたカイトの前に、いつ来たのか、リリィがちょんまり座っていた。

それでも止まらない涙目で見つめるカイトの口に、ぼふんとやわらかなものがぶつけられる。

膝をついて座るリリィは、両手に掲げる人形を楽しげに揺らした。

「間接キッス~ぅふ、カイトくん久しぶりに、おにぃちゃんとちゅうしちゃったわねぇ☆」

「ぅっ、ふ、ふぇ、……………え………っっ」

リリィの言う意味がわかって、カイトの瞳からは堪えようもなく、大粒の涙がこれでもかと溢れた。

リリィが持っているのは、食卓で公開した手縫いの『おにぃちゃん人形』だ――曰く主張するところによれば、おにぃちゃん人形のファーストキスはおにぃちゃん本体、がくぽに奪われている。

カイトもその瞬間を見ていた。

あれはキスではなくて、顔面アタックだと思う。頭突きと言おうか。

なににしても間違いなく、『攻撃』だ。

思うが確かに、がくぽのくちびると触れた。

傷を刺激された痛みに顔をしかめたくせに、カイトが見ていると知るや、すぐに平静を装ってみせた――やさしいやさしい、『弟』に。

「はい、カイトくん。上げる抱っこしてだっこして☆」

「っ、ぇ、…………っんく」

リリィはその華奢な見た目からは想像もつかない力で、泣き濡れるカイトの腕を開いた。わずかな隙間から、くしゃくしゃになった羽織を取り出すと、代わりに人形を突っ込む。

「ぁ、……………っふ…………っっ、………っっ」

人形を突き放すことは出来ないものの、がくぽの縁である羽織も手放せない。

一応は抱いたものの、取り上げられたものを求めて中途半端に手を伸ばすカイトも、リリィは予測済みだった。

「あら、やっぱり~イヤだめぇそうだと思って、じゃぁあんりりたんから、もいっこおみやげ~♪」

「…………っっ」

明るく笑って、リリィは背後から取り出したものを広げて見せた。

羽織だ。

カイトが抱いていたものと同じ――けれど、主の香りが染みついた、新しい。

瞳を見開いて緩んだカイトの腕から、リリィは突っ込んだ人形を抜いた。新しい羽織を着せ掛けると、笑顔でカイトへ突き出す。

「これならどうぢゃ~☆」

「っ………っっ」

カイトはぱっと腕を伸ばすと、人形を抱き取った。ぎゅううっと抱きしめて、濡れる顔を埋める。

そうするとわかったが、人形も仄かに香った。がくぽが好んで使う、香料が。

羽織にはがくぽ自身が名残りを燻らせ、人形からも応援するように香りが立ち昇る。

ぎゅううっと抱きしめると、羽織一枚より遥かに弾力があって、ぬくもりがあって――

「ごめ…………っね、………………ごめ、ね、…………っりり、………ちゃんっ」

人形をきつく抱きしめ、泣きながら謝るカイトの頭を、リリィはやさしく撫でた。まるで母親か、姉のようだ。

彼女の兄式計測法だと、リリィはまさしく正しくカイトの妹なのだが。

時として妹のほうがずっとずっと強くて、やさしくて、しなやかだ。

「泣いちゃうほど歓んでもらえるなんて、製作者冥利に尽きるわぁ、カイトくんリリィの努力も、報われるってものよ~☆」

「…………っね、………ごめ……………っ……っ」

「ぅふふ♪」

人形を抱いてひたすら謝るカイトに、リリィは明るく笑う。

その瞳がすっと細くなって、カイトの前髪を梳き上げた。

釣られて濡れる瞳を上げたカイトに、リリィは愛らしく小首を傾げてみせる。

「おにぃちゃんのことが、好きよね、カイトくん?」

「……………っ」

問いに、カイトの瞳からはぼろりと大粒の涙が溢れた。戦慄くくちびるは、言葉を言葉にもできない。

くちびるを空転させるだけで、結局なにも言えなかったカイトに、リリィはやさしく微笑んで頷いた。

「ありがと。リリィは、それで十分よ」

「……………っ」

ぎゅううっと人形を抱きしめて、カイトは首を横に振る。

そもそもの、事の初めだ。

初めて家に来たときから、がくぽはずっと、カイトのことを案じていた。

元のマスターへと揺らぐカイトが、物思いに沈んだ挙句に、ろくでもないことを考えつかないように――

がくぽはとにかく、カイトを構った。我が儘放題された。

振り回されてへとへとになって、カイトが物思いに沈む余力もなくすと、今度はがくぽが甘やかしてくれた。

仕方のない、手の掛かる兄だと腐しながら、カイトを甘やかすがくぽは楽しそうだった。

――ヘンなひと。

傷ついた心を甘やかされて蕩かされ、『マスター』の形をしていたカイトが、『がくぽ』の形に造り直される。

そんな矢先に届いたのが、予想よりもずっと早かった、『マスター』の訃報だった。

マスター権の移譲からしばらく経っていたが、月単位の話だ。年単位ではない。カイトの心はまだ、『マスター』の元にあった。

動揺して――

気がつけば自分の部屋のベッドで、がくぽに押し倒されている状態だった。

いったいどうしてそういうことになったのか、カイトには途中経過がさっぱりわからない。

わかったのは、がくぽがひどく焦っているということだった。

――このうすらぼんやりが。

我に返ったカイトを罵る声は泣いているように掠れ、悲痛にひび割れていた。

――そうやってうすらぼんやりしているから、こういうことになる。貴様には、手の掛かる甘えたな『弟』がいることを、忘れるなよ。

そう言われて、わかったのだ――『マスター』を追って彼岸に行ってしまったカイトの心を連れ戻すために、がくぽは同じ男の体を開くという、荒療治に出たのだと。

男同士で、これまでは微妙ながらも『兄弟』としてやって来た。

その相手から体を開かれるなど、相当の衝撃だ。普段であれば、それこそ精神負荷で壊れかねない。

危険性は十分にわかっていて、それでもその手を取るしかないほど、がくぽは追い詰められた。

追い詰めた、カイトが。

彼岸から戻ったカイトをすぐに離すことなく、がくぽは快楽の頂点を極めさせた。

白く灼ける思考と、力強い腕にきつく抱きしめられて、実感する現実。

カイトを形作っていた『マスター』が消え、完全に『がくぽ』の形に打ち直される――

離れようとしたがくぽの欲望が兆していることに気がついて、自分で処理していいと告げたのは、カイトだ。

驚いたようにしていたがくぽだが、すぐにくちびるが塞がれて――

それから、何度も何度も求められた。兄だ弟だと言いながら、がくぽはカイトの体を求め続けた。

口には出さないが、がくぽはカイトが彼岸に行きかけたことをトラウマにしている。一人きりで放っておけば、また行くかもしれないという杞憂に囚われている。

トラウマと、同情と――

同情で抱かないでと、言ったら抱かれなくなる気がした。

兄弟ではいやだと言ったら、触れてもらえなくなる気がした。

『兄弟』なのに体を繋げる、今の状況は不自然で嫌だ。同情で抱かれるのは、嫌だ――

そんな怯懦と、意地と矜持、触れたいと募る欲望との狭間でぎりぎり出せた譲歩が、『中に出さない』こと。

「ぉ、れ…………っ、がくぽ、いないと……………っめ、なのに」

謝れない。

大きなガーゼに覆われた痛々しい顔。

痛みに歪んで、ふいと逸らされる瞳。

謝れない――

「あのね、カイトくん」

人形を抱いて泣くカイトの頭をよしよしと撫で、リリィは笑った。

「リリィはそれで十分だわ、ほんと。十分よ、カイトくん」

「………っ、ぇ、ふぇ……………っっ」

「ぅふふ」

やさしくされて、嗚咽をこぼすしかできなくなったカイトに、リリィはわずかに身を乗り出した。梳き上げた前髪、覗かせた額に軽く、くちびるを落とす。

「いっぱい泣いていいのよオトコノコだって、たまには泣かなくちゃでもね、カイトくん。目が蕩けちゃうほど、泣いたらだめよ♪」

「……………ん、ぅん」

笑って言われて、カイトもくちびるを笑ませた。

すぐにその笑みは消えて、また涙に曇る。

リリィは微笑んで、カイトの傍らにいた。