がくぽが玄関扉を開き、家の中に入った途端だ。

HOME SWEET HOME

「かえ………」

「がくぽっ!!」

「っっ」

がくぽが最後まで言い切るより先に、部屋からばたばたと駆け出して来たカイトが、勢いままに飛びついた。

体格を比べれば、がくぽよりもカイトのほうが小柄だ。骨組みもわずかに細い。

しかし成人男性に変わりはない。

加減なく飛びつかれて問題ないということはないが、がくぽはなんとか受け止めた。多少揺らいだものの、しりもちをつくだの、背後の玄関扉に後頭部を強打するだのといった、無様は晒さない。

「おいっ、っ」

「おかえりっ!!」

声を上げかけたがくぽだが、基本的に聞いてもらえない宿命にある。

ことに、最近迎えたばかりの『新妻』には。

困った方向で『旦那さま』への信頼に溢れているカイトは、自分の体格で力いっぱい飛びついたことへの反省はない。

がくぽは必ず自分を受け止めると、信じるレベルを超えて『事実』で認識されている。危うく潰されかけたがくぽが抗議しようとしたところで、知ったことではない。

だから満面の笑みでもって、渋面のがくぽのくちびるにくちびるを重ねた。

言いたいことは山とあれ、それはそれでこれはこれ。

この二人がくちびるを重ねて、かわいらしい触れ合いで終わったことはない。

それは、あまりに微妙過ぎる兄弟の時代から、ずっと変わることなく。

「ん、んん………っ、ん、ふ…………っぁ」

「………ったく、んっ」

「んーっ…………」

帰って来て、がくぽはまだブーツも脱いでいない。

カイトもいい加減構うことがないが、がくぽも構わない。

二人は互いの口を探り合い、貪り合って、不在の空漠を埋めて余りあるキスに溺れた。

「ん、ぁ、ふぁあ……………」

「…………」

ややしてカイトの膝からかくりと力が抜け、落ちる体とともにようやく、くちびるが離れる。

腰を抱いて支えてやりつつ、がくぽは引いた唾液をちゅるりと啜り、濡れるカイトの口周りをやわらかに舐めてやった。毛づくろいする動物にも似た、慰撫するような舌遣いだ。

「ふゃ………っ」

キスのせいですでに蕩けていたが、カイトはさらにとろんと崩れて、くすぐったいと笑う。

満ち足りた笑みを眺めつつ、がくぽはカイトを抱き直した。

「…………それで?」

「……………………………………………『それで?』?」

鸚鵡返しにつぶやくと、カイトは瞳を瞬かせて首を傾げた。

問いの意味が取れないでいる相手に、がくぽはわずかに瞳を眇める。

「なにかあったのだろう俺が不在の間に――」

「…………なにか?」

断定的に言われ、カイトはわずかに身を引いた。

きつく腰を抱かれている。体はほとんど離れないものの、カイトの困惑ぶりは図れる。

首を傾げ、瞳を瞬かせ、ひたすらに戸惑いを表現するカイトを、がくぽはじっくりと観察した。

特に大きく、変わりがあるようではない。

全身をつぶさに見なければ断定は出来ないが、怪我をしているでもなし、なにかしらの動揺を抱えているでもなし――

「…………………………………………………………………………………………だめ?」

「ふん」

ややして、なにとは明確にせずに訊いたカイトの声は、力なく、自信を失って弱かった。

鼻を鳴らしたがくぽは、瞳を伏せたカイトの体をきつく抱き寄せる。

くちびるが皮肉を混ぜた笑みに歪み、抱かれるまま首元に顔を埋めたカイトの耳朶に触れた。

「っ、ん…………っ」

「どうしようもない甘えたが。貴様はまったくもって、手の掛かる嫁だ」

「ぁ、ぅ…………っ」

耳朶に触れたまま、くちびるは腐す言葉を紡ぐ。滴る蜜毒のように甘く熱っぽく、心と思考をとろりと灼く声で。

しがみつく手に力を込めて震えたカイトに、がくぽは笑った。蕩けて崩れるカイトの足を支えることを止め、廊下に転がす。

「がくぽ」

「俺がいなくば、夜も日も明けないとはな。留守にしたのはほんのわずかな間だというのに、こうも寂しがりおって」

「が…………ぁっ、ゃあ……………っ」

愉しそうに腐しながら、がくぽは転がしたカイトの首に顔を埋め、やわらかな肌に牙を立てる。食まれ、啜られて、カイトは言葉も継げずに仰け反った。

敏感に反応するカイトにがくぽはますます機嫌を上向かせ、コートの前を肌蹴る。シャツの中に手を入れ、仄かに熱を持ち出した腹を殊更にねっとりと撫でた。

「ん、んんっ、ぁ…………っ」

「………寂しさのあまりに余計なことをしていないか、とっくりと調べてやる。ついでに、寂しい思いの埋め合わせもしてやろう」

「えー…………………っん、んんんっ」

言っていることが無茶苦茶だ。言いたい放題とも言う。そのうえに、やりたい放題の合わせ技。

微妙な声を上げたカイトだが、長続きはしなかった。がくぽの触れ方はコツを掴んでいて、容赦なくカイトの感覚を追い上げる。

なによりも、寂しかったかと問われれば否定しようもなく、埋め合わせてくれるというなら願ってもない。

「ん、ぁ………ぁ、あ、…………がくぽ…………ぉ…………っ」

潤む声とともにしがみつくカイトへ、がくぽは堅気としてどうなのかというレベルの、凶悪な笑みを浮かべた。

満足に染まって、素直で従順な体に沈み込む。

「まったくもって、貴様の手の掛かることと言ったらないな!」

「ん…………ごめ、…………っふぁあっ」

どこかうきうきと吐かれる言葉とともに、与えられるのがこれ以上なく甘く蕩ける快楽だ。

いつものように誠意の欠片もなく、習い性というものでこぼれかけたカイトの謝罪は嬌声に取って代わった。

「ぁ、あ………ゃあっ、がくぽぉ…………っきもちぃい………っ」

ねっとりと肌を撫で回され、カイトは嬌声を上げるだけのイキモノに変えられる。

悶える姿を眺めるがくぽのくちびるは、裏腹にひどくやさしく綻んでいった。

「………………このうえなく手を掛けさせてくれる、まこと愛らしい嫁だ。貴様は」

つぶやきは小さく、煽られる感覚と自分の嬌声に耳を塞がれたカイトには、届かない――

「ところで愚兄者ども。ここが未だ玄関だということは、覚えておるか」

「ふぁ………?」

「ぁあ゛?」

――周りの見えない、互いへと溺死状態の新婚夫婦の頭上から、唐突に降って来たのはこれ以上なく不機嫌な声だ。

カイトとがくぽは離れることなく、声の主へと視線だけ向けた。

とはいえその眼光の鋭さは、まったく違う。

カイトの瞳にはほとんど正気の色がなく、熱に蕩かされ、潤んでぼやけ、甘い。

対してその上に乗るがくぽのほうは、今日もその美貌を遺憾なく無駄にし、安定品質であるちんぴらの目つきだ。そんな品質の安定はいらない。

しかして安定品質であるために馴れきっている妹――グミは、まったく怯むことなく廊下に足を踏ん張って、兄たちを睨み下ろした。

「ここは玄関でひとが出入りする場所じゃというのを、覚えておるか、この愚兄者ども!!」

「ぁあ゛?」

再度訊いたグミへ、がくぽも再度、堅気としてどうなのかという凄みを返した。

カイトの上から退くことはないまま、くちびるを歪める。

「細かいことを言うな、グミ。客の来る予定があるでもなしに」

「予定のあるなしではないわ夫婦のアレコレなぞはな、寝室でやれ、寝室で衆目に晒すな、家族であっても!!」

現状、がくぽはグミに見下ろされている。なぜといって、とりもなおさず廊下にカイトを転がし、その上に伸し掛かっているからだ。

いくらグミが小柄とはいえ、立っているのと座り込んでいるのなら、さすがに目線は上に来る。

そうでなくても、微妙な迫力に満ちた妹だ。

この体勢で敵うものでもなく、がくぽは美麗な顔を勿体無く歪め、そっぽを向いた。

「ちっ」

「ぁははおにぃちゃんの負け~ってことで、カイトくんともども、てっしゅーてっしゅー☆」

「ん、ぁ、リリィちゃん………」

負け犬の遠吠えならぬ舌打ちをこぼした兄に、グミの後ろから電話の子機を持って現れたリリィが明るく促す。

カイトは未だにほわんと蕩けた声を上げただけだが、がくぽはますます表情を歪め、反省することなく舌を鳴らした。

「まったくもって狭量な………………ん?」

負け惜しみをつぶやいてから、がくぽは顔を妹たちに戻した。正確には、グミの後ろから現れたリリィに。

電話の子機――を、どうして持ち歩いているのか。

胡乱げに見つめるがくぽと、とりあえず起き上がったカイトの前で、三和土に下りたリリィは保留ボタンを押した。

「マスター片付いたわよ~もう入ってもだいじょぉぶ~♪」

子機に向かって話しながら、玄関扉を開く。

「ひ…………っぁ、ふゃぁああああっっ!!」

「……………」

そこまでずっとぼんやりしていたカイトのくちびるから、惑乱した悲鳴が迸った。これ以上なく朱に染まると、慌ててコートの前を掻き合わせ、肌を隠す。

がくぽの表情もなんともいえずに空白に落ちて、扉の外に立つ人を見た。

大変気まずい様子で、携帯電話を耳に当てて立っていたのは、マスターだ。

彼は懸命に笑みを浮かべると、遠慮しいしい、カイトとがくぽに手を振った。

「た、ただいまー、カイトー、がくぽー…………」