「ああ、がくぽ。すみません、発達心理学の本で………」

「恋愛心理学ではなくか?」

「はい?」

優柔不断ギガテック

ミトトシが自宅に構えた書斎に収められた本は、雑多だ。仕事に絡むものがもっとも多いが、娯楽本も置いてある。刑法や六法全書、機械工学に人工知能心理学、人権運動や環境保護関連の書籍に入り混じり、時代小説、ファンタジー、刑事もの、エッセイに写真集、絵本――

「なにゆえ今の時代に、遡ってヴィゴツキーなど読み返すのだ基幹となった思想かもしれんが、古いだろう。現実に即すか?」

「それは――」

「マスターはいっそ、小学生女児向けの恋愛読本から読み直したほうがよいと思うぞ?」

「……………………」

――ミトトシの書斎に収められた本は、雑多だ。その置き方もまた、雑多だ。仕事と趣味を区分ける、もしくはジャンルによって置き場所を決めるということが、為されていない。

これを聞くと、大抵のひとが驚く。

ミトトシといえば、見た目だけでなく性格も几帳面で生真面目で、堅物だ。ジャンルごとに区分けるのはもちろん、ミリ単位で測って高さや幅まで揃え、収納しているイメージがある。

しかし実際のところ、置き方は雑多だった。散らかってもいないし、埃を被ることもなく清潔だが、雑多だ。

自分なりの法則はあるらしいが、他人にはわからない。がくぽもにもさっぱり理解が及ばないが、ひとつだけ言えることがある。

ミトトシは一度収める場所を決めたなら、必ずそこに戻す。

ジャンルも傾向もまったく区分けられてはいないが、毎回違う場所に戻すことはない。本棚に入っている本はだから、ある意味で定位置が決まっている。新しい本が増えたとしても、一度覚えれば探すことは難くない。

だからこそがくぽもこうして、ミトトシの手伝いで資料探しをすることが可能だが――

「……………小学生女児向けの恋愛読本は、確か持っていなかったと記憶していますが」

「俺も見たことはない。しかし幼児向け絵本があるのは、知っている」

「………………………」

ミトトシは完全に黙りこみ、しらりとした表情で二冊の本を差し出すがくぽを見た。一冊は、ミトトシが持ってきてくれと頼もうとした本だ。持ち帰った仕事の資料として、必要とした本。

そしてもう一冊は――

「がくぽ。私のかわいいサムライマン……………あまり、こういうことは言いたくありませんが」

「見つけたのは、カイとイトだ。自分たちの本があると、大喜びだった」

「…………………」

しらしらと続けるがくぽに、ミトトシは沈黙に陥らざるを得ない。

多少きつめなほどに、いつもきりりと整っているミトトシの表情だが、今は微妙な感情に揺れていた。無邪気とすら言える顔で本を差し出すがくぽを、きちんと見返すことも出来ない。

二冊の本を差し出すがくぽは、取れと促すように軽く振った。

「自分たちのマスターの本がすべて揃っていると、夢中になって読んでいた。――いや、違うな。二人がかりで俺に読め読めと、音読をせがんでな。それはそれは愛らしかったぞ?」

「どうして呼んでくれないんです?!」

今度のミトトシの反応は、ほとんど反射だった。ロイドを溺愛し、肝心のロイドからすら引かれることがあるロイド保護官としての、いわば本能的な。

絵本を読んでくれとせがむ、カイとイト――KAITOシリーズの姿など、彼らにとってはまさにオアシス。やっているのはすでにいい大人、成人型で、しかも男だということなど、歯牙にもかけない。

怯えさせないように遠目から、しかしうっとりがっぷりと一部始終を堪能しただろう。

「常に思うが、マスター………ロイド保護官とは、紙一重の存在だな……………」

「なにと紙一重なのかは、あえて問いませんが」

ふっと目線を逸らしてつぶやいた己のロイドに、ミトトシが堪えることはなかった。いつもの冷静さを取り戻しすらして背筋を伸ばし、威風堂々胸を張る。

ことこれに関してだけは懲りることも改まることもないマスターに、がくぽは目線を戻し、ちょこりと愛らしく首を傾げてみせた。

「真のロリコンは、現実の幼女には手を出さないそうだ」

「詭弁です。現実にあり得ません。信用してはいけませんよ、がくぽ」

きっぱりと言い切ったミトトシから、がくぽは再び目線を逸らした。ふいと横を向いて悩ましく眉をひそめ、悲しげに吐き出す。

「そうか………信用してはならんのか………」

「がくぽ………」

ミトトシもまた、眉をひそめると額に手をやり、小さくため息をついた。

がくぽが差し出す本は、二冊。一冊は、ミトトシの仕事の資料だ。そしてもう一冊は、絵本――『まいごのこねこのカイとイト』。

著者は、『しまうみと』。

この家に居候するカイとイトのマスターであり、ミトトシの古い知己である青年だ。

知己というのは、便利な言葉だとミトトシは思う。

知り合い。

どんな関係のどんな知り合いか、裏側に含まれる情報は雑多に絡んで複雑でも、とりあえず一言のもとに説明を終わらせられる。

過去になにあれ知り合ったことに違いはなく、知り合った相手を大雑把にまとめれば、『知己』だ。

「おまえが気になるのも、無理はありませんが」

「正直どうでも良い。他人事だ」

「がくぽ」

揺らぐ声で説こうとしたミトトシを、がくぽはばっさりと切って捨てた。

声のみならず、表情まで情けなくなったミトトシに、本を差し出していた腕を引っ込める。がくぽはその本で、こんこんと己の肩を叩いた。

「マスターとロイドだろうが、ことそういった方面に口出すものではあるまい。例えばマスターと何某が疾うの昔に終わった関係で、ついこの間までまったく交流が絶えていたにも関わらず、再会した途端に爛れた行為に雪崩れこんだとしても………」

「がくぽ、すみません、ちょっと」

「趣味でもないのに何某の新刊が出るたびに買い揃え、直接の交流はせずとも常に相手の動向を探り、終わった終わらせたと言いながらまったく終わっておらずに未練たらしいことこのうえない、紙一重どころか犯罪すれすれのところを彷徨っていようと」

「がくぽ、すみません、お願いが!」

「実際に捕まらず、互いに合意のうえであるなら、俺の知ったことではない。俺に口を出す義理はないが、義理以上に面倒極まりないので、口を出したくない」

「が………っ」

制止の声もまったく聞かずに言い切ったがくぽの前で、ミトトシの体が揺らぐ。

がっくりと机に手をつき、なんとか体を支えたミトトシは、非常に恨みがましくがくぽを振り返った。

「そこまで言っておいて、どの口を出したくないと………青いナスめ」

「ナスは青いものだろう。赤いナスはトマトと言うのだ」

しらりと言って、がくぽは肩を竦めた。その表情が、微妙に歪む。

「俺はな。俺ひとりだけならな。口も出さん。目も瞑ろう。しかしだ」

「っっ」

がくぽが皆まで言うより先に、ミトトシがはっと目を見開いた。

愕然として、咄嗟に言葉にならないミトトシを見据えるがくぽの瞳は、険しい。

「カイとイトは、そうはいかん。あれらは、好きでもないのに『行為』に及ぶことが理解もできなければ、好きだというのに相手を痛めつける気持ちも理解できん。そのうえ相手が、己のマスターだ――だというのに毎晩まいばん、飽きもせずにぷちっと修羅場をくり広げおって」

「み、見て?!見られ?!それも毎晩?!」

心底から青褪めて悲鳴を上げたミトトシに、がくぽは厳然として吐き出した。

「とっとと肚を決めろ、マスター情操教育に悪いこと、このうえないわ!」