ブーツを履いたがくぽは、振り返った。泣きそうだ。

――がくぽが、ではない。

お見送りのカイとイトが、だ。

こわんこのトロワ・ワルツ

「がくぽ……っ」

「ぅー………っ」

「あー……………」

なぜこうも、愁嘆場の雰囲気が醸し出されるのだろうか。

言葉に詰まるがくぽに、潤む瞳をいつも以上にゆらゆらと揺らがせるカイが手を伸ばした。するりと頬を撫で、堪える涙に震えるくちびるを近づける。

「がくぽ………ん。ね、気をつけてね………ケガしないで………ちゃんと無事に、帰ってきて………」

「あー………」

ちゅっちゅと、触れるだけのもどかしいキスを受けながら、がくぽはさらに言葉に詰まった。

愛らしい。

健気で可憐な風情のカイは、がくぽのアレ的な好みど真ん中だった。たとえ成人男性であったとしてもだ。

乗り越えて好みは好みだし、なにより成人男性とは言っても、カイは元々の容姿もそれなりに愛らしい。

その好みを容赦なく突いてくれるカイが、涙ながらにがくぽとの別れを惜しんでくれる。普段から健気で愛らしいカイだが、現在の健気レベルは頂点超え。

絆されて想いが募って仕様がない。

が。

「そうだぞ、神威がくぽっいつも以上に、うんと気をつけないとだめだからなっ!」

偉そうに言ったのは、離れたカイと入れ替わってがくぽのくちびるをついばむイトだ。言葉は威勢よく発するが、何度も何度もくちびるを掠めるキスはやわらかい。

そしてなにより、いつでも思うままに振る舞うイトが、今にも泣きそうなのを懸命に堪えている。

「今日は旦那さんも奥さんも、おまえのそばにいないんだからな………なんかあっても、おれたちがなんとかしてやれないんだから、いつもよりもっとずっと、気をつけないとだめだぞ!」

「いやイト、己な………!」

――なにか別の意味で、言葉にならなくなったがくぽだ。

どうしてイトというのはこうも、ツッコミどころを量産してくれるのか。

がくぽはおばかさんが、アレ的に好きだった。大好きだった。しかし無自覚だ。

無自覚だが、体の某所がアレ的にきゅんきゅんにときめいて仕様がない。たとえ相手が成人男性であったとしてもだ。

つまりおばかさんなツッコミどころを、これでもかと惜しげもなくばら撒いてくれるイトは、がくぽの好みどストライクだった。しかも成人男性とはいえ、イトの容姿はそもそも、健気さでがくぽの好みを突いてくれるカイと同じくKAITOシリーズ、愛らしさは保証付きだ。

その好みを遠慮なく抉ってくれるイトが、健気さプラスで懸命に涙を堪えながら、がくぽに説教する。ツッコミどころ満載の。

現在のがくぽのきゅんきゅん度は、軽くK点超え。

だが。

だが――

「がくぽ、がくぽ………私のかわいいサムライマン正気に返りなさい。ブーツを脱がない、家に戻らない気持ちは察して余りありますが、おまえはこれから、お出かけです!」

「はっ!!」

背後から撓るように呼ばれて、がくぽははたと我に返った。

瞬間的に本気で存在を忘れたが、背後にはマスター:ミトトシがいる。爆笑する海斗と抱き合っているが、思い募って抱え上げ、部屋に戻ることはない。

出かけると言ったら、出かけるのだ。それがミトトシという人間だった。

がくぽはといえば言われた通り、まさにブーツを脱がんとしているところだった。もちろん理由は、――

「んと、がくぽ………」

「もー、しょーがないなっ、神威がくぽはっ……ほんと、甘ったれの寂しがりなんだから……っ」

「ぅぐ………っ」

やさしいカイは気遣って言葉を濁してくれたが、イトは容赦なく言い切ってくれた。とはいえ、語尾は涙に掠れてぼやけ、ずびびっと洟を啜る音に半ば掻き消されたが。

本日、がくぽは己のマスターであるミトトシとともに、二人でお出かけだ。

以前、ミトトシと二人きりのときにはよくあったことだが、『カイト』三人衆と同居を始めてからは、絶えてなかった。

カイとイトの子守りのためだ。成人男性二人だが、がくぽは言い切る。

子守りだ。

悪意はない――ロイド、特に旧型と呼ばれる草創期のロイドは、環境の変化への適応力が低い。

特に今回、カイとイトは住んでいたアパートを火事で焼け出されるという、異常事態に巻き込まれての突然の引っ越しで、仮住まいで、新しい知人との出会いだった。

元気に振る舞ってはいても、掛かるストレス値は計り知れない。

不安定に揺らいでいる可能性のある精神を支えるため、もしくは早急に揺らぎに気がつくため、がくぽは常に二人の傍で、二人を見守っていたのだ。

新型であるがくぽのシリーズは特に、精神プログラムの繊細さと緻密さに目を見張るものがある。そこに冷静さと鋭い観察眼を併せ持っているから、他のどんなロイドよりも揺らぎや変化に敏感だ。

もちろん知っているミトトシは、がくぽを頼みにすることがある。

ただ、そう頻繁にではない。繊細で緻密、そして敏感ということは、がくぽもまた、不安定に揺らぎやすいということだからだ。

そうとはいえ、同居していれば否応なく――

が、がくぽは二人の『子守り』をしていて揺らぐことはなく、むしろ強靭さを増して行った。以前は虚勢を張っていると見えたこともあったが、最近は芯があっての威勢だと、ミトトシは見ている。

がくぽが強靭さを得たのはなにより、カイとイトと過ごしてのこと。

カイとイトを得て、なにがあっても安定していられる、強靭さの影響を受けた――

とりもなおさずそれが、カイとイトがすでに見守る必要もなく、がくぽが自由に出かけても構わないということでもあった。

だからミトトシは、久しぶりにがくぽを連れ出そうと――

したら、これだ。

「すまん、マスター………」

「いいですよ。気持ちは理解します」

気まずい顔を向けたがくぽに、ミトトシはきつめの顔を綻ばせ、やさしく頷いた。

振り返ったがくぽの後ろには、涙目で別れを惜しむカイとイトがいる。一途にがくぽを見つめる瞳は愛情に溢れ、しずくとなって今にもこぼれ落ちそうだ。

がくぽと離れ離れになることが、悲しく寂しい。

しかしそれ以上に、自分たちと離れてひとり出かける『甘ったれで寂しがり』な相手が、心配で仕方ない。

「目の保養も甚だしい!」

「マスター、本音がだだ漏れだ!」

「だねえ。俺を抱いておいて、真顔で叫ぶとか。みぃってすごい男だよ、ほんと」

正気に返れと叫ぶがくぽと、胸に抱き込まれたまま、けらけらと笑う海斗と。

ミトトシはロイド保護官だ。保護官の御多分に漏れず、ロイドを溺愛している。溺愛するあまり、肝心のロイドからすら一歩引かれることがあるのが、ロイド保護官の微妙な定めだった。

そこのところだけは永遠に、ロイド保護官以外との疎通が図れないミトトシは構うことはなかった。

即座にいつもの冷静さを取り戻すと、やさしく笑ってがくぽとカイ、イトの三人へ視線を巡らせる。

「離れていることが嫌なら、早く出かけて用事を片付け、早めに帰宅すれば良いことです。幸いにして今日は、そう面倒な用事でもないですし――」

「そうだったか?」

出かける用事を思い出して眉をひそめたがくぽに対し、ミトトシの笑顔のやわらかさは変わらなかった。

「ええ。ちょっとあちらを急かせばいいだけです。面倒なことなどありません。さっくり速攻で終わらせます」

「………………」

がくぽは賢明だったので、今度はツッコんだりしなかった。余計なことを知らなければ、その後になにを訊かれたところで知らぬ存ぜぬで押し通すのも、容易い。良心の呵責も少なくて済む。

ただし、上品に過ぎる笑顔を見ていると口を噤んでいることも厳しいため、がくぽは視線を外した。流れた視線は、自然と反対側、がくぽを一心に見つめてくれるカイとイトに戻る。

「早く帰って来てね、がくぽ。寂しくっても、あんまり泣かないで………」

「暗くなって怖かったら、迎えに行ってやるから、神威がくぽっすぐ電話するんだぞっ?!」

「己らな………っ」

「がくぽ。私のかわいいサムライマン!」

なんだと思われているのかと、またもや言葉にならなくなったがくぽの肩を、ミトトシががっしりと掴んだ。

離れた海斗は、三和土に手を打ちつけて声もなく爆笑している。

振り返ったがくぽに、さすがにミトトシの眉間にも皺が寄っていた。

「ですからね、がくぽがくぽ、私のかわいいサムライマン正気に返りなさい、ブーツを脱がない、家に戻らないおまえはお出かけですったら、お出かけなんです!!」

「はっっ!!」

――正気に返ったものの、またもや『やらかそう』としていた己に愕然としたがくぽを引きずるように、ミトトシは家を出て行った。

お見送りしたカイとイトは、ぱたんと扉が閉まって足音が遠ざかり、聞こえなくなってもしばらく、玄関に立ち尽くしていた。爆笑していた海斗も笑いを治め、心細さと戦っている自分のロイドたちをやさしく見守る。

「ん、っと僕、がくぽの好きなごちそう、つくるっ!」

「あとあと、疲れて帰って来た神威がくぽがゆっくり休めるように、家じゅう掃除しないと、カイっ!」

「あ、いっちゃんおふとんも干さなきゃあとあと………」

慌ただしく部屋の中へ入って行くカイとイトの背に手を振り、海斗は朗らかに笑った。

「もー、すっかりいい『奥さん』だね、ふたりとも!」

「「ちがうよ、マスター!!」」

その海斗に、カイとイトは振り返って真顔で叫んだ。

「僕はがくぽの旦那さんなの奥さんは、いっちゃんだけ!」

「がくぽの奥さんなのは、おれだけカイは旦那さん!」

諸々突っ切った設定に、海斗がツッコミを入れることはなかった。スルー推奨だからではない。ツッコミ力が低いのだ。

かえって非常に納得し、カイとイトに謝りすらした。

――同時刻。

がくぽは再びミトトシに肩を掴まれ、ため息とともに正気を諭されていた。