もっとも完璧な数式-02-

「だめったらだめったらだめぇええ!!」

「やだやだやだやだやだやだったら、ぃやだかんなっ!!」

常に騒がしいカイとイトだが、さらに姦しく叫びながら書斎に突入してきた。

ぎょっとして顔を向けたがくぽに、二人は勢いままに飛びつく。

ノリは女子高生――いや、幼稚園児だ。

しかし体は立派な、成人男性。がくぽより背が低く、多少華奢なつくりであろうとも、成人は成人。男は男。

そして人数は二人。

「っっがっっ!!」

呆然自失としていたため、避けることも出来なかったが支えることも出来ず、がくぽはスツール諸共床へと倒れた。

「がくぽっ?!カイ、イトっ!!」

スツールに、ロイド三体だ。転がる音も派手だったが、衝撃も大きい。大量の本を納めて歪みも撓みもしない頑丈な本棚が揺らいで啼き、ミトトシは蒼白になって腰を浮かせた。

「ケガはっ?!ちょっ、大丈夫………」

「じゃないもんんんっ!!」

「ちょぉぜつイタイっつーのっっ!!」

諸々の衝撃が積み重なった結果、咄嗟には応えられないがくぽに対し、元凶たちは非常に偉そうかつ堂々と主張した。

容赦も加減もないタックルによって床に転がしたがくぽに伸し掛かり、のみならずがっしりと組みついた状態で、おろおろと手を伸ばすミトトシを睨みつける。

「ぼく、がくぽの旦那さまなんだからっ!」

「おれ、神威がくぽの奥さんなんだぞっ!」

「「別居なんか、ぜっっっっったいに、しないぃいいいいいっっっ!!」」

「っっ」

――がくぽが顔を歪めたのは、痛みゆえではない。いや、ある意味で痛みゆえだ。

カイとイトの声は、あまりに大きかった。ボーカロイドとして、ライブハウスの大音響の中で二十四時間過ごしても耐えられるよう設計されているがくぽの聴覚だが、きぃんと鳴って振り切れた。

人間であるミトトシはさらに被害だっただろうが、ミトトシはつまり、ミトトシだった。ロイド保護官だ。

「両手に花ですね、がくぽそのうえ溺愛なんて微笑ましい!!」

「これを『微笑ましい』と表現するか、マスター………他に言うことはないのか………」

ないとわかっている。それでもがくぽはツッコんだ。しかしわかっているので、声に力はない。

ミトトシの口から涎が垂れている。いや、現実には垂れていないが、垂れている。垂れていないのだが、視覚が補って錯覚的に。

真面目かつ几帳面な性質で、どんなことあれ弾け飛んで振る舞うことはないミトトシだが、ロイド保護官だった。

ロイドを溺愛している。おっとり天然系のKAITOシリーズは、業界ではご褒美。

理性も突っ切れる。

一夫一妻制の日本において、がくぽ一人に夫と妻がそれぞれいる状況とか、そもそも夫も妻も三人ともすべてが、男である状況とか――

「………不毛だ」

――ここにツッコミだすと、きりがない。

思い切ったがくぽは、寸でのところで受身を取って、なんとか床との激突は免れた後頭部を撫でた。打ちつけた痛みはないが、長い髪を体の下に敷いたせいで、引きつれて痛む。

「僕、ぼく、ずっとがくぽの旦那さまなんだからっ離婚なんかしないんだからぁっ!」

「そうだぞっ奥さんと旦那さんがいっしょにいなかったら、神威がくぽどうするんだよっ!」

がくぽが転がったまま自分の体の状態を確認しているところで、同時に愁嘆場が進行している。馴れというもので、がくぽはいやんな予感を抱いた。

きゅうきゅうと苦しいほどにしがみつくカイとイトは、涙目だ。

いみじくもミトトシの言うとおり、『夫』も『妻』もがくぽを溺愛してくれている。

夫と妻がいるという状況に、しかも全員が男だという破天荒も過ぎる関係に、がくぽ自身、往生際悪く言いたいことはある。

あるが同時に、がくぽもまた、夫と妻を愛していた。溺愛だ。

だから今、ミトトシがしようとした話にがくぽとても、衝撃を受けている。受け入れられないと、認められないと、叫んで喚き、駄々を捏ねたい。

が、それはそれでこれはこれの、いやんな予感だ。

どちらかというともはや、首絞め状態とまでに腕に力を込めた奥さん――イトが、ずびびっと洟を啜って叫んだ。

「神威がくぽってさびしがりの、甘えんぼさんなんだぞ奥さんと旦那さんがいっぺんにいなくなっちゃったら、泣いちゃうだろ!」

「待てこら!」

誰が寂しがりの甘えんぼで、泣くのか。すでに泣きが入っているのはむしろ、イトのほうだ。

成人男性二人に伸し掛かられ締め上げられている状態だったが、がくぽは火事場的な器用さと超常さを発揮し、イトの頭を掴んだ。

しかし忘れてはいけないのは、がくぽの相手はもうひとりいるということだ。

「そぉだよがくぽさびしくって、ずっとずっと泣いたまんまになっちゃうからっ旦那さんと奥さんに甘やかしてもらえなく欲求不満で、ワガママいっぱいの困ったちゃんになっちゃうからっっ!」

「己らな!」

イトを止めたところで、カイがいる。

それにしても、夫婦のことを語っているというより、子供扱いされている気がしてきたがくぽだ。

まさかカイとイトに子供扱いされるなど――屈辱とか、そういったレベルを軽く振り切って、言葉にならない。

がくぽはもう片手を繰り、カイの頭も掴んだ。

がっしりと二人の頭を掴んで――ぎゅうっと胸に押しつけ、抱きしめた。いつもならば、痛いと苦しいと、喚かれるほどの力で。

抱きしめて、加減してやることが出来ない。回路が切れたように、二人を抱く腕が言うことを利かなかった。

「己ら………っ」

言葉にならない。

二人はこんなにも懸命に、言葉にして訴えたというのに――感情が激しながらも、言葉として自分たちの思いを、願いを伝えたというのに。

がくぽとずっと、いっしょにいたいと。離れて生きるのは、嫌だと。

がくぽの咽喉は激し過ぎた感情に閊えて塞がり、思考は眩んで、言葉が言葉にも、音にも出来なかった。

きちんと話せばきっと、ミトトシはわかってくれる。たとえ新居の契約が済んでいても、自分の思い諸々あったとしても、がくぽの願いをも叶えるために、尽力してくれる。

願い、訴えれば、ミトトシは――がくぽの『マスター』は、必ず汲んでくれる。

自分の『マスター』に揺るぎない信頼と確信があって、なのにがくぽは言葉に出来なかった。

感情ばかりが荒れ狂い、暴走して、やるべきことが出来ない。まさしく子供だ。あまりに、幼い。

「みぃの言うとおりさやっぱ、『微笑ましい』で、いいと思うんだよね」

床に転がって固まり、動きも取れなくなったロイド三人を覗き込んだのは、『カイト』三人衆最後にして最初のひとり――カイとイトのマスター、海斗だった。

いつの間に来たのか、転がるがくぽたちの頭の傍に膝を抱えて座った海斗は、場の空気にそぐわないほどやさしく、やわらかに笑う。

まるで、陽だまりのような。

「「マスター!!」」

力の緩んだがくぽの手を振り切り、カイとイトはがばりと顔を上げた。懸命な嘆願を宿して、自分たちのマスターを見つめる。

ミトトシには喚きたてたカイとイトだが、海斗に対しては違った。瞬きをくり返して涙を振り払いながら洟を啜り、ひたすらに見つめる。

「うん」

頷いた海斗は、膝を抱えていた腕を解いた。自分のロイドたちの頭をくしゃりと撫でてやると、離した手でがくぽの前髪も梳き上げ、床から一枚の紙を拾う。

三人がきちんと見えるようにかざすと、にっこりと誇らかに笑った。

「『こねこのカイとイトに、あたらしいかぞくができました。あたらしいかぞくのなまえは、ガク。こいぬの、ガクです』」

「………っ!」

がくぽのみならず、カイとイトも瞳を丸くし、掲げられた紙に見入った。

見せられたのは、絵だ。

絵本作家である海斗の代表シリーズ、『こねこのカイとイト』――おそらくはその新作の、一ページ。

まるくなって眠る二匹のこねこがぴったりとくっついているのは、いつもの、飼い主の青年ではなかった。

こねこ二匹より遥かに体格がよく、しかし顔はあどけない子供そのものの、まさにこいぬ。

将来は頼もしい大型犬に成長するのだろうとわかるこいぬが、二匹に寄り添い、寄り添われて眠っていた。