生真面目な顔で問題を解いていくがくぽは、ノートから顔を上げないまま、口を開いた。

「先生。えっちがしたいです」

ロズウェラ・モーヴ-01-

問題を解くためにノートに走らせるペンに淀みはなく、かりかりと紙を引っ掻く音はリズムがいい。

がくぽの隣に座ったカイトは、ほんのりと笑みを刷いて首を傾げた。

「うん、がくぽくんもしかして悩みとかあるんだったら、せんせ、聞いてあげるよ?」

「え?」

カイトの言葉に、がくぽはようやくノートから顔を上げた。ひどく幼い、きょとんとした表情だ。

そうやって見た相手の笑みが非常に生温いことに、がくぽはわずかに体を引いた。

「…………せんせ?」

なんの話だと問われて、カイトは生温く微笑んだまま肩を竦める。

「悩みがあるんじゃないの、がくぽ珍しくも、本音が駄々漏れてたよ?」

「だだ………」

「俺も一応、せんせだからね生徒が悩んでるなら、聞くくらいのことはするよ聞くだけ、だけど」

「……………………」

生温い笑みで、微妙に突き放したことを言う。

仰け反っていたがくぽだったが、やがてがっくりと項垂れると、机に懐いた。

礼儀正しい少年だ。疲れていても、姿勢を崩すことは滅多にない。

たとえ自宅で、大学生のバイト家庭教師相手とはいえ、『先生』の前で机に懐くようなことは。

珍しいほどの、尋常ではない疲れきり具合をそうやって見せつけて、がくぽは情けなくため息をついた。

「悩み…………悩みですか。目下最大の悩みは、隣に座る先生がいいにおい過ぎて、ムラムラしてしょうがないことくらいです」

「わあお。それはなんとも深刻な」

素晴らしいまでの棒読みで答えてから、カイトはぶっと吹き出して笑い崩れた。

「せんせぇ……………っ」

「や、いやいやいやいや若いね、若いっていいよ、がくぽタイヘンだね、かわいい!!」

「………………せんせぇえ………」

ツッコミそのいち:がくぽを若いと言うが、カイトも現役合格での大学生。年の差は五歳もない。

ツッコミそのに:大変なのかかわいいのか、いや、大変とかわいいを同居して語らないで欲しい。

ツッコミそのさん:笑ってないでいいからツッコませ以下略。

頭の中でだけツッコミを駆け巡らせ、がくぽはため息をついて瞼を下ろした。

そういうひとだ。がくぽの家庭教師であり、秘密の恋人であるカイトというひとは。

「あー、笑った笑った。さて、じゃあ、気分転換も済んだことだし、続きね続き」

「……………ぅあぅ」

億劫そうに瞼を上げたがくぽの返事は、呻きと区別がつかない。

爆笑の余韻の涙を拭うカイトはというと、今度はひどく大人びた、頑是ない子供を相手にしているかのようなやわらかい表情を浮かべた。

がくぽの頭をぽんぽんと軽く叩くと、体を折っていっしょに机に懐き、視線を合わせる。

「あのね、状況わかってる今ここ、がくぽの家。夜。ご両親ご在宅。俺=かてきょとして訪問中。――それで、はいじゃあヤろっかって、答えられると思う?」

「…………」

いっしょに机に懐きつつも、ぴ、ぴ、ぴ、と指を立てて数え上げていくカイトに、がくぽは再び瞼を下ろした。

そのくちびるから、あえかなため息がこぼれる。

「ですよね…………」

「そ。カイトせんせにだって、それくらいのジョーシキはあるのです☆」

ぱちんと飛ばすウインクとともに言われ、がくぽは気怠く瞼を上げる。

「要らんところで、要らんときにだけ………」

ぼそっとつぶやいたがくぽに、カイトは愛らしいとしか評しようのない、満面の笑みになった。

「神威がくぽくん?」

「なんでもないです」

愛らしいことこのうえなく、抜群とすら言い切れるのだが、背筋には堪えきれない悪寒が走った。主に野生の本能とか、そういうものだ。

がくぽは慌てて体を起こすと、一度は放り出したペンを握り直した。

「勉強ですよね。すみません、あと一問で終わりますから」

「ん、よろし☆」

いつも通りの『まじめっこ』に戻ったがくぽに、カイトもまた体を起こし、『先生』に戻った。

その後は同じ話題に触れることもなく、まったくいつも通りに時間が終わり――

「んじゃね、がくぽまた今度~」

「はい、ありがとうござい」

「と言いたいとこだが、ちょっと顔貸せやコラ☆」

「はいせんせ?」

頭を下げて見送ろうとしたがくぽの胸座を、カイトはにっこり笑って掴んだ。

ぎょっとして首だけ仰け反らせたがくぽに、カイトはおねだりをするとき特有の、蕩けた上目遣いを向ける。

「ごめんちょ。夜も遅いのに、生徒にこんなん頼むのもアレなんだけど………。コンビニまで、道案内してくれない?」

「………コンビニ、ですか?」

仰け反ったまま、がくぽはきょとんとして瞳を瞬かせる。思わず、窓の外へと視線を投げた。

カイトのほうは胸座を掴んでおねだり顔という、微妙な格好のまま頷く。

「そ、コンビニ。買い物したいんだけどさ、ここら辺ってちょっと、道が入り組んでるでしょ道順教えてもらっても、まっすぐ行ける自信も、そこからおうちに帰れる自信も、ないんだよね」

「ああ…………」

がくぽの家の周辺は、ごくありきたりな住宅街だ。日本のよくある住宅事情で、似たような形の家が密集して建っている。

ここに日常暮らすがくぽですら、時として自分の家か他人の家か、外観だけだと微妙に悩むこともある。

週に何度か訪れるだけのカイトなら、なおのことだろう。

道が入り組んでいるのも、確かだ。まっすぐな道というものが、基本的に存在しない。

何軒目の家をどこに曲がって~などと説明したところで、ハテナマークが量産されること請け合いだ。

「構いませんよ、それくらい。俺もコンビニならば、夜に出かけることがありますし、慣れていますから」

「ほんとナニしに行くんだ、えっち☆」

「は?!」

「なはははっ!」

おかし過ぎる問い返しにぎょっと目を見張ったがくぽに、ようやく胸座から手を離したカイトは怪音で笑い、背を向けた。

「じゃ、いこいこっ」

「あ、せんせ………っ」

――案内してと言いつつ、うかうかしていると置いていかれそうだ。案内してと、カイトが言ったにも関わらずだ。そういうひとだ。

がくぽは慌てて、自分の財布と携帯電話、それに家の鍵を持って、カイトの後を追った。

「父さん、母さん?!俺、コンビニに行きがてら、カイト先生を送って来ますからっ!」

両親が揃うリビングへと顔を突っ込んでとりあえず叫び、靴を突っかけると外に出る。

「先生、そっちじゃなくてこっちですってば!」

案の定、他人のことを置いていくカイトに悲鳴を上げつつ、がくぽはきっちり鍵をかけてから、走って追う。

追いつくと、カイトは無邪気としか言いようのない、きゅるんとした瞳で見上げてきた。

「こっちってどっち?」

「あのですね、仮にも案内を頼んだんでしたら、俺のことを置いていかないでください……」

微妙に項垂れつつ嘆願したがくぽに、返って来たのは反省皆無の高笑いだった。

そういうひとだ――年下の少年があたふたわたおたと振り回されるのを、このうえない愉しみとしている。

たまに、愛されているのではなくて弄ばれているだけなのではないかとすら、思ってしまう。

単純に自由人なだけだとは思うのだが、本当にそうかどうか、こと恋愛に関しては圧倒的に経験の不足するがくぽには断言できない。

その自由さはもちろん、コンビニまでの道のりだけではなく、コンビニから出たあとも発揮された。

「先生、ちょっと帰るなら、そっちじゃなくて………っ」

「いーじゃんいーじゃんっ寄り道草道しよーよ。大丈夫だよ、がくぽっすべての道はローマに通じてる♪」

「ローマに通じていることが、イコールで家に通じていることにはなりませんよ…………っ」

カイトの家は、ローマにはない。しかもここはそもそも、ローマ有するヨーロッパではない。日本だ。

途方に暮れつつも、途中で放り出すことなど出来ず、がくぽは軽い足取りで先へと進むカイトを追った。

「………まったく」

いいように弄ばれている感、芬々。

それでも嫌いになれないし、追いかけることを止められないし、愛おしさは募っていくばかりだし――

「がくぽ、こっちこっち♪」

「………セイレンですか、先生は」

「んなに?」

先に行って手招くカイトに、がくぽはため息とともにつぶやく。

弱々しい声は離れたカイトには聞こえず、ただ首を傾げられて、がくぽは苦笑いを浮かべた。

「………なんですか、先生。まさかこの期に及んでさらに、童心に返ってブランコに乗って行こうとか言うんですか?」

カイトが元気よく手招いたのは、公園の入り口だ。

これまでのカイトから考えれば、いかにも言いそうな気がする――確か出かける前、こんな夜遅くに生徒を連れ出すのはとかなんとか、言っていたくせに。

諦念を浮かべるがくぽに、カイトのほうはわざとらしく瞳を見張ってみせた。

「やだなー、がくぽくん。その発想、まんまオコサマで。俺のなけなしの罪悪感が、刺激されちゃうじゃん」

「すでになけなしなんですね。でも存在することはする………ん罪悪感?」

いつもの勢いと反射でツッコんでから、がくぽは首を傾げた。

公園でブランコに乗って童心に返れというなら、罪悪感を覚える必要もない。はずだ。

罪悪感を覚えると、戯れにでも言葉にするなら、なにか他の企みごとがある?

ふと兆した予感に眉をひそめたがくぽの手を取り、カイトは公園の中、鬱蒼とした木立の合間に招いた。

「先生、まさか…………」

予感を言葉にしようとしたがくぽのくちびるは、カイトのくちびるに塞がれた。

単に触れ合うのみならず、とろりと蕩けるように熱い舌が、あからさまな欲を示してくちびるを舐める。

「先生っ」

「えっちしよ、がくぽ。ここで♪」

慌てて体を引き離したがくぽに、カイトは暗闇にすらわかる艶やかな眼差しとともに、ささやいた。