しょちこあとる

後編

――すまない。

丈高き塔の、さらに最上階。

幽閉された部屋の中央にただ茫洋と立ち、意味を失って存在を霞ませていくカイトに、男はそう告げた。

――貴方は野辺に在るべき神だ。貴方を還そう、在るべきへ。居るべきへ。小さきいのちの声届く場所へ。

カイトは応えなかった。

意味を失い、存在が霞んでいたせいもある。

解放を告げた男が、見も知らぬ人間であったこともある。

己を捕まえた『人間』とは違う『人間』だが、人間は人間だ。

神と人間との関係に修復し難いまでの亀裂が入り、不和が広がり、不信が満ちていた時代だった。

昨日の味方が今日の敵と目まぐるしく、敵と味方との判別は難しい以上に、不可能な時代だったのだ。

そう、応えない理由は多く、しかし。

――来たれ、我が後に。野に還れ、花とうたの神。小さきいのちの守り手よ。うたと踊りの享楽の主よ。

応えがなくとも構うことなく、男はカイトを促し、塔の階段を下りた。

霞んでも、カイトは願い叶える神だ。

願われれば、叶える。

たとえそれが、己を捕らえ、幽閉したものの同族であったとしてもだ。

否、たとえそれが、己を捕らえ幽閉したもの、そのものであったとしても――

願われれば、叶える。

だから、カイトは願われるまま男の後について、静かに足を踏み出した。

静かにしずかに、足を。

静かに、しずかに、しずかに――

大地を叩き響かせることもなく、拍子を刻むこともなく。

まるで他の神のように、普通の人間のように――

祝福を与えることなく、カイトはただ、進むために歩いた。

普段のカイトが踊るように大地を叩き響かせ、拍子を刻み歩くのは、祝福を与えるためだ。

うたうだけが、力ではない。

カイトの踊るような歩き方、それがすでに祝福で、恩寵であり、力なのだ。

あまねく区別なく、すべてのものに与えられる、願い叶えいのちを与える神からの――

けれどカイトは、音を鳴らすことなく、拍子も刻まず、静かに歩いた。

静かにしずかに、ただ、進むことだけのために、歩いた。

静かに、しずかに、しずかに――

それこそがもっとも苦行であり、拷問であり、気が狂うほどに過酷な所業だった。

それでもカイトは、静かにしずかに歩き続けた。

塔から逃し、野に還してくれようとする人間の後を、静かにしずかに。

決して、けっして、祝福も力も、与えることのないよう――

己を大地から引き離し、空へと幽閉した人間の暮らす場所に、恩寵も恵みもないよう。

***

「……っ」

こころにひんやりとしたものが満ちて、カイトはくちびるを噛んだ。

昔のことだ。過ぎ去った日の、終わった話だ。いくら神であっても、もはやどう足掻こうとも戻れもしなければ、取り返しのつけようもない。

それでも思い出すと、こころがひんやり冷えて、身の内に眠る『滅びのうた』が首をもたげるのがわかる。

ひやひやとしたもので満ちたこころが『滅び』に傾き、堕ちようとするのが。

あのときカイトは、一時的ながらも悪神に堕ちた。

ひと時の憤激が収めようも見つからず、募る悪意のまま、『滅び』に繋がる意図を持ち、行動と成した。

そう、あれは悪意だった。

カイトが明確に、明瞭に、意図して犯した、悪意であり、悪行だった。

思い出せば、すぐにもまた引きずられ傾き、堕ちるほどの悪意だ。『滅びのうた』が疼き、首をもたげる。

だからこれまで、懸命に封じこめ、思い出さないようにとしていたのに。

あれから諸々あった結果、今はもう、『滅びのうた』は失ったが、だからこそ――

「す、みませんっ、カイト殿っっ!!」

「ふぇっ?!」

驚愕に固まったまま、しばし寝台に転がっていたがくぽだ。

それがようやく我に返ったかと思いきや、唐突なほどの勢いでがばりと起き上がり、すぐにまた伏した。正座して、手は前に、頭は――実際は寝台の上だが――地に擦りつけ。

土下座だ。

カイト相手に土下座をやらかして、さらにがくぽは激情のまま、叫ぶように謝る。

冷える腹を持て余し、傾くこころに掛ける歯止めを探ることに懸命となっていたカイトは、なにが起こったのかわからない。

自分が記憶に遊んでいる間に、がくぽはいったいどういう結論へ達してしまったというのか。

戸惑うカイトはひたすら瞳を瞬かせ、土下座する愛人のつむじを不審に見た。

「が、がくぽあのね、あたま……」

「そういう話ではないというのは、わかっていますきっとこわくて辛い思いをされたのだろうと、否、このような言葉では足らぬ、筆舌尽くし難い屈辱、艱難辛苦のご経験であったろうと、理解しているのです斯様なことはまるで筋違いですし、見当違いも甚だしく……」

「ぅ、ぅえ、がく、がくぽっ?!むつかし、ええと、おちついて?!」

激情に駆られた挙句、がくぽが使うのはカイトには難解に過ぎる言葉だ。初めはなんとか配慮しようとしていた気配があるが、言い募る間に感情も募った挙句、後半に進むほど難易度が上がっていくという。

そのうえ早口でまくし立てられてはもう、カイトはお手上げだ。

なんだか後悔しているというか、自己嫌悪に陥っているらしい気配は読み取れるのだが、いったいどういう理由でがくぽが反省会に突入したのか、まるでわからない。

おたおたとしながら、土下座で謝罪するがくぽの頭をなんとか上げさせると、カイトはその頬を挟みこみ、懸命に瞳を覗きこんだ。

「ねね……むつかしいの、わかんない………なになに………?」

「………」

揺らぐ瞳で懸命に訴えると、がくぽは口をきゅっと引き結んだ。

引き結んで、沈黙に陥ること、数瞬。

「がくぽ……」

瞳だけでなく、声も揺らして促すと、ようやく過保護な守り役は観念したらしい。

緩い力で頬を押さえる手を振り払うことはなく、ただ視線だけはわずかに逃して、ぼそりと吐き出した。

「妬きました」

「……え?」

――理解し難い言葉ではなかったのだが意想外にも過ぎて、カイトはきょとりとするだけだった。

そのカイトから目を逸らしたまま、がくぽは小さく息をつく。腹に力を溜めると、もう一度、吐き出した。

「妬きました。………なぜそのときに、あなたを助けたのが私ではなく、ほかの誰かなのかと。なぜあなたを助けるのが、私ではなかったのかと………」

「えと、だってがくぽ、うまれてないもの」

なぜもなにも、助けようがないだろうと。

衝撃に思考が止まったまま、カイトはついうっかり、とても現実的に答えてしまった。

それはそうなのだが、そうではない。

カイトの守り役にして最愛の伴侶は、たとえ相手が神、自分より遥かに年長にして力があるとわかっていても過保護に囲いこむ癖があり、なによりも溺愛を注いでいて――

「わかっていますともですから謝ったでしょう?!」

「ふきゃっ!」

羞恥や諸々から珍しくも怒鳴るようにして、がくぽは対して座るカイトに手を伸ばし、きつく抱きこむ。

痛いほどの力で胸に抱きこめられ、身に沁みこむのが熱だ。もはや火傷でもしそうな、苦しいほどの――

「ぁ……っ」

傾くまま、凍えて霜ついた思いがとろりと蕩かされる。

感触に、カイトは小さな声を上げた。

ひと時はひんやりと満ちた冷気が沁みる熱に温められ、とろりとろりと蕩け、解けていく。

「あ………そ、っか。そう………」

――だから、だいじょうぶ。こわくない………

ささやいた言葉が本当に示していたものに気がつき、カイトは押しつけられる胸に擦りついた。

この腕の中は、世界でいちばん安らかな場所。

世界でいちばん、幸せな場所だ。

カイトが過去に犯した罪を思い出し、悔いと恨みに揺らいでも、もはや絶望にも破滅にも堕ちることはない。

あまりの悔悟と悲嘆に、思い出すことさえままならなかった記憶も、封じこめて鎖したこころも、この腕の中でなら、恐れる必要もなく解放できる。

いくら悔いても悲しんでも、押し潰され、悪意を生じることはないからだ。

多少傾いたところで、すぐに引き戻される。

引き戻されて与えられるのが、長く膿んだ傷を埋めて余りある、赦しと癒しだ。

だからもう、思い出すことからすら逃げる必要は、ない――

「あなたが私など及びもつかぬほどの過酷な時代をくぐり抜け、今ここに在られることくらい、承知していますとも。そも私の言うことが頑是ない幼子程度の感想で、的外れどころか、ろくでもなく情けないにも程があることだって十全に……」

「がくぽ、がくぽ!」

カイトを抱きこめたまま、がくぽはぶつくさとこぼし続けている。抱く腕の力は強いまま、緩む気配もない。

がくぽはイクサ場で生きてきた、歴戦の号を冠する剣士だ。『力』はあれ、花とうたの神であるカイトが抗せるものではない。

抗せないが、そもそもがくぽ相手にカイトが力比べをする必要もない。

カイトは笑いながら、ただぽんぽんと軽く、がくぽの腕を叩いた。

がくぽはぴたりと口を噤み、――ややしてため息とともに、腕の力を緩めてくれる。

なにを言われるか、ほとんどわかっているといった表情の伴侶の額に、カイトはこつんと額を当てた。とっておきに甘ったれて、笑う。

「あのね、むつかしくって、わかんないもっとカンタンに、いって?」

願い叶える神からの『お願い』に、とても賢い伴侶が口の中でしばらく、言葉を転がす気配があり――

膝の上に抱き直したカイトの額に、がくぽはこつりと額を当てた。

「これから先、なにあろうと、私があなたをお守りします。あなたを守るのは、私です。もはやあなたに決して、こわい思いも悲しい思いも、させません」

宣誓して、がくぽのくちびるがカイトのくちびるを塞ぐ。熱でもって刻みこむように含み食んで、触れ合うままのくちびるが続けた。

「愛しています、私の<神>――私が逝くも行くも生くも、すべては最愛たるあなたのために、カイト」