こよるしゃうき

『いない』。

がくぽのこころを占めていたのは、その絶望感だけだった。

『いない』――

そんなはずはないと、片隅でこころが言う。

そんなはずはないのだ、己は得た、己が――

けれど『いない』。

『いない』。

どこを見ても、探しても、『いない』。

いないいないいないいないいないいないいないいないいない――……………

心が虚無に堕ち、視界が濁り沈む。

そうだ、『得られなかった』。

どれだけ望み、切望し、自らを切り刻み求めても。

『得られなかった』。

「――っ!」

絶望は声にならなかった。

なろうはずもない、そうだろうと、狂いに落ちてがくぽは思う。

声は呼ぶものだ。

求めるためのものだ。

叫べば得られる、叫べば届くという希望があって、声は出る。

がくぽは絶望したのだ。

希望はなかった。

叫んでも得られず、届かず、ならば声などもはや、出ようはずがない。

絶望とはそういうものだ。それが絶望だ。

だから、けれど、しかし、――

「――っ、っ!」

ならばなぜ、己はもがくのだろう。足掻くのだろう。

出ない声を張り上げ、いったいなにを求める。

『それ』は『ない』のだ。

『それ』は『ない』というのに、いったいどうして、なにを、なぜ、違う、ちがう、ちがう――!

「がくぽっ!」

「っあ、っ!」

呼ぶ声とともに冷たい薄荷水がのどに流しこまれ、全身を吹き渡って、がくぽは咳きこむように全身を跳ねさせた。かっと、目を開く。

――開いて、反射の動きでごくりと飲みこみ、がくぽははたと、我に返った。

「がくぽくるしいつらいいたい?」

「ぁ………」

寝台に横たわるがくぽを上から覗きこむカイトは、珍しくもひどく早口だ。危急の事態にもどこかおっとりとした風情で話すのが、ずいぶん慌ただしく問い詰めてくる。

その表情は夜闇に紛れてつぶさには見えないが、きっと穏やかではないことだろう。がくぽを案じて、いや、『案じて』?

「………ええと、あの。カイト、殿?」

起き抜けということに因らず、がくぽは妙に覚束ない心持ちで声を上げた。眠りから無理やりに引き上げられたとき特有の億劫さを抱える体を、ゆっくりと起こす。

「がくぽ」

大丈夫なのかと案じる――いや、だからどうして自分はカイトに案じられているのだ。最愛の伴侶にして剣の主たる相手に、無様にも案じさせているのだ。

「く……っ」

がくぽは軽く頭を振り、湧き立つ自らへの憤りと、身を染める怠さを払った。

そして、ふと思う。

いくらカイトとの共寝が心地よく、滅多になかったほど深い眠りに沈むにしても、――そこから無理やりに起こされたのだとしてもだ。

この体の怠さはおかしい。

がくぽの半生はイクサ場にあり、歴戦を誇る剣士だった。

歴戦だ。

ただ、イクサ場にいたというのではない。

戦いに戦い、生き残ってきた。

起こされ方がどうであろうと即応できなければ、イクサ場の渦中にあって戦いに戦い、生き抜くことなどできない。

こんな体の怠さを覚えるような脆弱さは、とうに克服した。

そのはずだ。

そのはずが――

「……カイト殿、その、」

「がくぽ、うなされてた」

声なき声を聞き、願いを叶える神であるカイトはこういった、言葉にできず口ごもるときほど、意を汲んでくれる。

戸惑う声を上げたもののうまくまとめられないがくぽにも、カイトはすぐに答えてくれた。

「すごく、くるしいみたいで………いたくて、つらいって」

「ああ……」

説明に、がくぽは嘆息とも慨嘆ともつかない声をこぼした。

「夢を」

つぶやいて、また、黙る。

そう、夢を見た。夢を見ていたのだ。ろくでもない、ひどくろくでもなくて、ひたすらろくでもない――

けれど黙ったのは、そのろくでもなさゆえではない。

そんなもので騒がせたらしい自分を恥じたからでもなく、ただ、思い出せなかったのだ。

『ろくでもなかった』という感触はある。

『ろくでもなかった』という、感触しかない。

なにがどうして、どれほどろくでもなかったのかという、内実が思い出せない。

ただただ、『ろくでもなかった』と。

「こわい夢?」

「いえ、――いえ、そうだったの、でしょうね。こわい………」

案じる声音で覗きこまれ、がくぽは苦笑を返した。

間近に最愛の伴侶の顔がある。けれど夜の闇が深過ぎて、つぶさに見えるものがない。

ただ、明るいところで見れば南の海に似る瞳だけ、星を宿してきらめいているような気がするだけだ。

周囲の気配を探れば、未だ夜が深い。朝は遠く、日の出には間がある。起きるには早い。

そう、今のこの生活においては、これ以上のなにを勘繰ることもなく、ただ眠りに戻っていい。こうして傍らにあってくれる、最愛の伴侶を腕に抱きこんで。

「……ははっ」

「がくぽ?」

笑いながら、がくぽは寝台に転がった。再び枕に頭を預けると、カイトの顔があるだろうと思しいあたりに目を向け、手を伸ばす。

「カイト殿……カイト」

手招くだけでなく、とっておきに甘えるときの呼び方をすると、不可解を醸していたカイトもころりと、傍らに横になってくれた。わずかにもぞついて、がくぽの胸にすりつく。

抱えこみながらがくぽは注意深く手をやり、カイトの顔を撫で、その配置を確かめた。

見つけたくちびるにそっとくちびるを寄せ、羽ばたくように軽く、触れる。触れて、離れ、触れて、――

「カイト殿…」

「ぅ、んー……」

言葉にすることはできず、けれどもどかしさを訴えると、カイトはがくぽを受け入れるため、あえかに開いていたくちびるを閉じた。

しばらくもぞついてから、わずかに身を起こす。カイトから伸し掛かるような体勢となると、がくぽのくちびるにくちびるを重ねた。

受け入れのためにすぐさま開かれたそこへ、カイトはそっと、舌を垂らす。

寝るときの常で、カイトの表皮、表側は、人並みの温かさとなっている。抱き合ったところで、がくぽに伝えられるのは心地よいぬくもりだけだ。

が、がくぽの口中に差し入れられたカイトの舌は、氷を含んだあとのようにひやりと冷たかった。その舌を伝い、がくぽが求めたままに流しこまれた唾液もだ。

ひやり、冷たく、――不可思議に香る、胸が透くのに甘く満たされる、薄荷水だ。

「ふ、ん……っ」

「んん……」

冷たく滴る唾液に、唾液を伝わせる舌に、がくぽは夢中になってしゃぶりついた。

神気を乗せた呼気とは違う。身の内を吹き渡る爽快感はなく、けれどやはり力が満ちていくとがくぽは思う。

満ちていく力は、満たされる心だ。

幼いころの、切ない思い――

長じてからの、切なる願い。

がくぽの生まれてからこれまでのすべての想いを、願いを、祈りを、叶えて満たす、甘いあまいあまい、薄荷水――

「………まあ、ろくでもない夢だったのですよ」

ややして気が済んだがくぽはカイトを胸に抱きこみ、訥々と語った。

「それしか、覚えていないのですが………ろくでもない夢だったのです」

「ぅん」

覚えていないと言いながらそう断言する根拠を、カイトは問おうとしなかった。ただ頷いて、容れてくれる。

いや、ただ容れるだけでなく、すりりと、胸にすりつかれた。傷ついた伴侶を慰撫するしぐさだ。

暗闇に紛れてしぐさのすべてがつぶさに見えずとも、感触だけでがくぽの胸は満たされ、熱を覚える。

浮かぶのが、どうしても堪えきれず、笑みだ。

カイトと出会い、紆余曲折があり、こうして伴侶として過ごし――

笑ってばかりだと、がくぽは思う。

思いもせず表情が緩み、気がつくと笑っている。

心がやわらぎ、ほどけ、笑ってしまう。

それこそ、ろくでもないほどにだ。ここは笑う場面だろうかというところですら、心が強張りきれず、ともすると、笑う――

神の最後の棲息地にして安息地たる北の森、世界の北限たる最果ての地にまで来て、がくぽの世界は広がった。

いや、ようやく、<世界>が始まった。

「ですが、………」

言いかけて、がくぽは続けられず、黙った。

抱くぬくもりに、眠気が誘われて仕方がないということもある。なにしろ未だ朝遠き深夜で、うなされたにしても、それ以上に神経に罹るものがない。

そう、『ない』のだ。

ひどくうなされたらしいし、『とんでもなくろくでもなかった』という感触だけは、覚えている。

覚えているが、それが神経に罹らない。

妙な胸騒ぎに繋がるわけでもなく、だからと無闇な楽観に浸っているわけでもない。

ただ、言うなれば、そう――

「……ええ。そういうものを、見るようになったのだなと、思いました。あなたのそばでは常に深く、無防備なほどよく眠ってしまうものですが、だとしても、……そういったものを、夢に見るようになったのだと」

「ぅん」

また大人しく頷いて、カイトはわずかにもぞついた。胸に埋まっていた顔が上がり、枕に戻ってきて、がくぽと額を合わせる。

「困る?」

訊かれて、だからそういう場合ではないというのに、がくぽはつい、吹き出してしまった。

笑って、自分からもすりりと、カイトの額にすりつく。

「あなたを起こしてしまいます。今のように」

こうまで間近に覗きこんでも、夜の闇こそろくでもない。ようやく得られた剣の主にして、なにより最愛の伴侶たる相手を、まったくつぶさに見ることができないのだから。

ただ見える気がするのが、星が瞬いているような瞳の、その無邪気な光だ。

穢れを知っても無垢で、清明さを失うことがない――

「おれは、困らないよがくぽがいたいとか、くるしいなら、困るけど」

「はい」

答えはほとんどわかっていたから、がくぽは意想外を覚えることもなく、頷いた。頷いて、笑う。

「あなたが困ると困りますが、困らないなら、私も困りません」

「…ぅん?」

がくぽは難しいものの言いはしていなかったが、カイトは少しだけ、考えこんだ。

しばらく考えて、カイトは額を放した。もう少しだけ身をよじ上げると、がくぽの頭を胸に抱えこむ。

「カイト殿…」

抵抗はしないものの、意図を訊ねたがくぽの長い髪を、カイトはやわらかに梳いた。

「おれの剣士は、甘えるの、ヘタなの」

言って、胸に抱えこんだがくぽの頭に頬をすりつける。小さく笑う気配がして、さらに抱きこまれた。

「でも、だいじょうぶ。おれは甘やかすの、うんとじょーずだし、ダイスキだから。だって、がくぽがいーーーっぱい、おれのこと甘やかして、あいしてくれてるからね!」

「…はあ」

それこそわかるような、わからないような、だ。

妙な理屈をこねつつ、とにかく甘やかすぞと宣言してくれたカイトへ、がくぽはわずかに戸惑う声を上げ――

結局、笑った。

笑って、抱いてくれるカイトの胸にすりつく。

ほうと息を吐くと、体から力を抜いた。

「あなたが甘やかし上手だということなら、もとから知っていますよ。出会ったそのときからずっと、私はあなたに甘やかされどおしで………今やすっかり、骨抜きです。東方の剣士としては、なまくらもいいところだ」

「困る?」

つぶやくようながくぽの言葉に、カイトはやわらかく返す。

がくぽはもはや目も開けられず、ほとんど睡魔に負けながら、首を横に振った。

「いいえ、――いいえ」

半ば夢に沈みかけの、泡のような声だ――

自分で思いながら、がくぽはなんとかこれだけはと、のどを圧し、くちびるを開いた。

「今の私はもはや、東方の剣士ではありませんから……生くも逝くも行くも、ただあなたのために、あなたの剣士として――あなたに愛される私に誇るところはあれ、恥じるところはありません、カイト」