北の森の短い夏、その盛りの、ある日のことだ。

しぺ・とてっく

前編

「♪」

ともに野辺に出た娘神が、珍しくも鼻唄をこぼしていた。

それを漏れ聞いたがくぽは、なるほど今日の娘は非常に機嫌がいいらしいよし絶対に関わらないようにしようと、固く心の内で誓ったのだ。

が、その誓いは脆くも次の瞬間には崩れ去った。

「♪ー♪」

「ん一寸待て、リン。そこは『♪~♪』ではないのか?」

「え?」

うたを止めてきょとんと見返してきた、つまり父親の存在を認めた娘、リンに、がくぽは堪えようもなく、思いきり顔を引きつらせてしまった。

絶対に関わらないようにしようと誓ったその矢先に、刹那でやらかした――

運が悪かったとしか、言いようがない。

もちろんそんなものを言い訳とするのは、東方の剣士の風上にも置けないというものだ。

とはいってもやはりこれは確かに、いくつもの不運が重なった結果ではあった。

まず、『絶対に関わらないようにしよう』という、誓いを立てたところだ。

迂闊に耳をそばだてていれば、いずれなにかしら関わらざるを得なくなるのだから、がくぽは心の耳を塞ぎ、流れる音をないものとしようとした。

そう、『しようとした』だ。

間に合わず、未だ塞ぐ前の耳に入った音に、つい、気を取られた。

それで、いったいどうして気を取られたかだ。

知っていたのだ、リンが鼻からこぼす、そのうたを。

だから『運が悪かった』と、不運の重なった結果だと、言うのだ。

これまでがくぽは、うたや踊りといった娯楽とは縁遠い生活を送ってきた。

ただしこれは、狂的なまでの忠義を謳われる物難い東方の剣士だからとか、がくぽの生活の中心がイクサ場であったからということではない。仲間内の剣士では、自らつくったうたをうたい、イクサの夜の無聊を慰めてくれるものもあった。

ゆえにこれは、単にがくぽの特性だ。もとから興味が薄かったのだ。

なにより出奔するまでのがくぽは、いっこうに剣の主を得られないことに日々、狂想を募らせていた。ますますもって、娯楽に浸る余白がない。

そういう半生だったし、北の森に来てからは、最愛の伴侶こそうたを司る神でも、だから『神』だった。

それも、永遠と同じほど長寿の神の世界にあってすら、『古き』と冠されてしまうほど、初期に発生した。

普段の言葉はなんとか通じるものの、うたううたとなると、すでに人間の世界からは喪われた古代の装飾音を用いており、つまりまったく、意味が取れない。

意味だけでなく、音の流れも難解だった。

今うたっているうたと先にうたったうたが同じか違うのか、その判別もつかない。

これはおそらく、がくぽがあまりにもうたと親しんでこなかったがために増幅された弊害だろうが、確かに聞き慣れないものにとっては、古代の典礼用装飾音というのは非常に独特に響くのだ。

それはともかくだ。

とにかくがくぽは北の森に来る前も来たあとも、うたと親しみが薄かった。

ろくに知っているうたがない。

――だというのに、まさか、娘がたまさかうたっていたそれが、知っているうただった。知っているだけでなく、誤りを指摘できるほど、よく覚えてもいる。

「ぱぁぱぁ、知ってるの、このうた?」

リンはきょとんぱちくりとして、ただ意想外だけを表し、父親を見た。

リンの父親は、非常に見た目がいい。イクサ場にあって歴戦を冠し、神のみならず、異次元をも切り裂く超越級の剣技を誇る剣士だが、少なくとも容姿は武骨さとは無縁だ。むしろ優男寄りで、父親の幼馴染みによればやはり、街に戻れば非常にモテたという。

が、見た目は見た目だ。剣技も剣技だ。

リンは父親の『中身』がとても残念であることを、よく知っていた。知り尽くしていた。伊達の父娘ではない。

いや、娘であればこそなおのこと、家族の内で父親に対する点数がもっとも辛いのが、リン――

が、深掘りした墓穴の予感に引きつるがくぽの答えを待つことなく、リンはすぐ、自分で納得した。

「そっか。これ、東のだもんね。いくらぱぁぱぁでも、さすがに知ってるか」

――そう。

リンがうたっていたのは、東方のうただったのだ。

それも、一時の流行歌なら知れるわけもないがくぽでも知っていて、のみならず、違いを指摘できるほど熟知している、いやだから、どうしてよりによって、珍しくも娘がたまさかうたったと思ったら、それなのだ。この選択なのだ。悪魔か娘は。

――動揺の極みのがくぽは心中でそう嘆いたものだが、念のために補記すると、がくぽの娘は神である。いずれ<世界>を創造する定めを負う、神の内でもことに高位の神、神の長たる創生の全能神である。

「でも、『ちがう』って、ぱぁぱぁ、じゃあ」

「あ。スキあり?」

未だ無邪気な娘がなにか言いかけたところで、その片割れ、双子のきょうだいたるレンが割りこんだ。

ただし、レンの諸々の名誉のために言っておけば、そもそもがくぽはレンに剣の稽古をつけている最中だった。

とはいえがくぽとしては、片手間の暇つぶしという扱いだ。

最愛の伴侶にして剣の主たる相手の守り役こそががくぽの本分であり、周辺への警戒こそが常に主眼にある。

それで、片手間に息子を鍛えながら警戒していたら、なにか聞き慣れない音が引っかかり、うっかり迂闊にも耳を澄ましたなら、珍しくも娘がうたっていたという。

それも、よりにもよってがくぽの生国のうたを。

すでに相当数、打ち合ったあとだった。

負けがこんでいたレンは、愕然として無防備になった――少なくとも、レンにはそう見えた――父親へ、ここぞとばかり、打ちかかった。

がくぽの眦がぴくりと引きつり、瞳に烈火が灯る。息子神が打ちこんだ渾身の一撃を難なく受け、しかし止めるのではなく剣を絡めるようにして、大地へ誘導する。

「ぅ、おわっ、ゎ!」

見切りから動きまで、速さもさることながら、やはり巧みだ。

絡められた木刀をなんとか解き放ち、自らへ取り戻そうと、レンとても教わった限りの技能は尽くしている。が、その動きまでいいように利用され、結局、自分諸共、大地へ沈められた。

しかも、これで終わりではない。むしろ始まり、再開だ。

地べたに叩きつけられた瞬間、衝撃を感知して痛みが痛みとなる寸前の、酷寒にも似る灼熱感を覚えたあたりでもう、父親は容赦なく次の剣戟を放ち、息子を打ち据えにかかっている。

「打ちかかる前に予告して勝てるほど、まだそなたの実力はなっておらんと言っておろうが、このたわけっそもそも気配が姦しいきちんと呼吸を整えてかからんから、そうやって俺の呼吸に呑まれる!」

挙句、厳しいダメ出しこと、お説教付きだ――

「ゎ、んがっ、え、おわっ、あっ!」

レンといえば、いつもの減らず口を叩く間もない。とにかく、嵐のように降る剣戟を避けるので手いっぱいだ。呼吸を整えろと言われても、無理だ。

なんとかかんとか隙を見て立ち上がり、木刀は構え直したが、――

レンも今は、理解していた。これは自分の力ではない。立ち上がらせてくれたのだ、父親が。

剣の稽古だ。

いつまでも野辺をごろごろ転がっているだけでは、木刀を振れない。振れる体勢にしなければ意味がないから、『避けながら立ち上がれる』よう、誘導してくれた。

そう、レンはもう、決死の覚悟でもなければこの激しい稽古についていけないが、イクサ場において歴戦を冠した父親といえば、ほとんど繊細と評せるほどの注意力でもって、とても手加減していた。

事実、これだけ激しく剣戟を降らせながらも、レンの体はほとんど、傷ついていない。

ぎりぎり、避けられる速さに合わせてくれているのだ。それでもうっかり避けられないとなったら、寸前で見極め、わずかに軌道をずらして父親のほうが避けてくれる。

叩きのめすことが目的ではない、『稽古』だからだ。

使えぬものを使えるように、使えるものを使いこなせるようにするのが目的であって、叩きのめし、使い物にならなくしてどうすると。

それががくぽにとっての『稽古』であり、自らを育んだ東方の教えそのものでもあったわけだが。

「んっがぁあああああああっ!」

「喧しい!!」

――とはいえ、それも長くはない。なんとかして反撃をと力んだ少年の、懸命ながらも空回りな一撃を、がくぽは無碍な叫びとともに一蹴、もとい、叩き落とした。

木刀に当てる剣の、当て方と、当てる部位だ。先に地面に沈められたのとはまったく違う感覚で、柄を握るレンの手に雷でも通されたかのような衝撃が走り、反射で指が開く。

堪えようにも手首までしつこく痺れて自由にならず、木刀はあえなくレンの手を離れ、地面に落ちた。

なにあれ、この父子の間では、どちらかが剣を取り落としたなら一戦終了と、暗黙のうちに決めてある。

「っだぁあああっ、もぉおおうっ!」

敗北の叫びとともに野辺に倒れこんだ息子神を、がくぽは息も切らさないまま、涼しく眺めた。

「だから、喧しい。無為なところに力を回すから、せっかくの技が小手先で終わる。のどではなく、まず腹に落とせ。腕に回し、剣に繋げ。できておれば、少なくとも三度は俺に打ちかかれたはずだぞ」

「え゛ぇええ゛ーーー………うっそだぁあ……」

稽古も始めたばかりなら、そうかと単純に頷いたレンも、続く日々にそろそろ父親の実力を理解し始めた。もとより侮っていたわけではないが、もはやそんなことを言われても、まさか届くような気がしなくなっている。

伸びたまま起き上がれない息子を見下ろし、がくぽは小さく笑った。

「こと剣に関して、俺が虚偽を言うか。さすがにゆくゆく、創生の破壊神たるだけはある。筋は悪くない。悪いのは……」

「そーよ、レンは筋は悪くないの。悪いのは、呑みこみだけなのよ」

言おうとしたことを先取りされ、しかも先取りした相手だ。

がくぽは瞬間、棒でも呑みこんだような顔となり、それからそろそろと、――それこそ息子にぜひとも手本としたいほど上手に気配を眩まし、傍らに来ていた娘を見下ろした。

リンは無邪気な態で、野辺に転がってひいひいと喘いでいる片割れを見ていたが、察しよく父親の視線に応え、顔を上げた。

にっこり、笑う。

「それはそれとして、ぱぁぱぁ。知ってるのね?」

「あ?」

レンとの一戦は、そう長い時間だったわけではない。それでも一瞬、リンの言いだしがどこから続いたものかがわからず、がくぽは非常に不審げな表情を返した。

が、すぐに思い出す――そう、がくぽは『知っている』のだ。

不審から、非常にまずそうな顔となった父親に、リンはますます楽しげに表情を輝かせた。

未だ地べたに転がったままながら、その様子を眺めたレンが不思議そうに瞳を瞬かせる。

「なんだよ、リンなんの話?」

たとえ手加減されていても、レンは死にもの狂いだ。よく通じ合う双子の片割れとはいえ、なにをしていたか、把握できる状況ではなかった。

父親に生じた隙にしても、ただなんだか隙が生じたから便乗せねばと、それで精いっぱいだ。

自分を誘いこむための罠ではなさそうだというところまでは見極めたが、ではなにかという、詳細な理由を探れるところまでは達していない。

問われたリンは、顔を双子のきょうだいに戻した。

「あのね」

「いや待て、リン!」

「ぱぁぱぁが、おうた、うたってくれるの!」

もはや、北の地方の日差しではない――まるで南の地方の日差しほどに眩く輝く笑顔で言いきった娘に、がくぽは力なく天を仰ぎ、片手で顔を覆った。

ちょっと手をこまねいたら、容赦なく外堀を埋めてきた。

飛躍もいいところだが、『事実』と言いきった娘を覆すのは、ことに口下手な父親にとって、至難の技なのだ。

「んぇえぱぁぱぁがかあうたなんかうたえんのかってか、そもそも知ってるうたなんか、あんのかよ?」

よたよたと起き上がりながら言う息子は、不信感の塊だった。いくら半身たるリンの言うこととはいえ、さすがに全面的には信頼し兼ねると、まるで隠しもせず訴える。

なかなかに失礼な態度ではあったが、だからそれがきょうだいの父親、がくぽという剣士なのだ。

「なんだよ、ぱぁぱぁがうたえるっていうと、………はやりうたなんか、ぜっってぇ、無理だろ………てぇと、子守唄とかええうたえるかぁ?」

ぶつくさと失礼な検証を続けるレンの言葉に、がくぽの額がびきりと引きつり、リンの顔がますますもって華やぎ、輝いた。

父親ときょうだいの反応を比べ、レンはそうでなくとも大きな目をさらに大きく、丸くした。

「えそうなのそうなのかこもりうた………?!」

「そうよ、子守唄よね、ぱぁぱぁ!」

「なにが『ね』だ、リン………っ」

きらきら輝く娘とまったく対象的に、父親は根暗く、恨みがましく返した。

「そもそも俺はうたうとまでは言って」

「ねーーーッッまぁまぁーーーッ!!来てぇーーーッぱぁぱぁが、おうた、うたってくれるってぇーーーッッ!!」

「っが、ふ………ッ!」

――ちょっと手をこまねいたら、容赦なく内堀を埋められた。

いっさいの止める隙もなく、まさに流れるような手管で最愛の伴侶まで呼ばれ、がくぽは軽く、息の根を止められた。

危うく地に膝をつくところでなんとか堪えたが、堪えたのは東方の剣士として、膝をつくなら死ねと、脊髄反射となるまで叩きこまれているからで、それだけでしかない。

もうひとつ言うなら、敵に背を向けて逃げるなら死ねとも、叩きこまれている。

そう、なんであれ、がくぽは逃げられないのである――

「ぱぁぱぁ。うん。………あれだ。そう。強く生きろよ?」

先まで、立ち上がれないほど追いこんでくれた相手だが、今やレンにとっては最大の師でもある相手だ。

全面的に味方はできないものの、若干の歩み寄りを見せた息子に、父親はやはり、恨みがましい目を向けた。

「ひとのことを言っている場合か。そなたも破壊神なれば、もう少しこの、リンの無情ぶりを見習え。畳みかけるとは、こういうことだ!」