「いうわね、人間」

答えたのは、女性のほうだった。

しょちぴるり

第1部-第5話

カイトの手に瞬間的に力が篭もったものの、がくぽは構うことなく、顔を向ける。

不愉快そうに睥睨する彼女に、気持ち、頭を下げた。

「礼を取れぬ身を、お赦しください。……なれど、ひとつだけ」

「むつかしい言葉を、つかうんじゃないわ!」

「……………」

もっともなのだが、挫かれる。

居丈高に命じる女性に一瞬だけ瞼を下ろして眩暈と闘い、がくぽは再び瞳を開くと、しっかりと彼女を見据えた。

「カイト殿は、私の命の恩人です。恩を仇で返すような真似は、しません。カイト殿に仇なすことだけは、決してしないと、誓約申し上げます」

「がくぽ」

がくぽを抱くカイトの手に、力が篭もる。がくぽはカイトへと視線を流し、頷いた。

「……」

南の海を思わせる瞳が、水を湛えて揺らいでいる。そのせいでなおのこと、海のようだった。

思わず見惚れるがくぽを、カイトもひたすらに見つめる。

「………むつかしい言葉を、つかうなって、いったのよ」

「……っ」

不機嫌な声に、がくぽは再び眩暈を感じた。

すでに語彙が尽きている。

揺らぐ思考を懸命に回転させ、幼い弟と話したときの記憶を掘り起こした。

「………カイト殿を絶対に傷つけないと、裏切らないと、誓います」

「……」

これ以上平易な言葉に直せと言われたらもう、後がない。

そういう意味で冷や汗を伝わせるがくぽを、女性は不機嫌に睨みつけていた。カイトが顔を上げ、涙に潤む瞳で女性を見つめる。

睨むには至らない、恨みがましさだけを宿した瞳だ。

「めーちゃん」

「あたしはあんたに、ひどく当たったわ」

呼びかけるカイトを無視して投げられた言葉に、がくぽは首を横に振った。

「私は得体の知れぬ人間です。カイト殿を案じ……心配しての、ことでしょう。当然のことだと思います」

「がくぽ……っ」

「………」

抱きしめるカイトへと微笑みかけ、涙に濡れたままの頬を撫でてから、がくぽは女性へ顔を向けた。

炎のような色なのに、ひどく冷たい光を宿す瞳を、しっかりと見返す。

ふと、それまで不機嫌の塊だった女性が、にんまりと笑った。

「いい忠義心だわ」

嘲るように言って、ぐっと身を屈める。カイトの胸に抱かれるがくぽへと、触れ合わんばかりに顔を近づけた。

「お名乗り、人間。きいてやるわ」

カイトがわずかに身を引いて、がくぽを女性から守ろうとするように動く。けれど、わずかにも距離は開かない。

がくぽは自分を抱えるカイトの手を軽く掴み、宥めるように撫でながら瞳を伏せた。

「拙は………私の名は、神威がくぽです。東の国で、剣士をしておりました」

カイトへ名乗ったのと同じように名乗ると、女性は身を起こした。

「ふん、東の………。きいたことがあるわ。東の人間は、ばかみたいに忠義ものだと。いのちの恩は、必ずいのちで返すと」

嘲る色はそのままにつぶやき、女性は胸を逸らして、放り投げるように告げた。

「名を赦すわ。あたしはメイコ。このヌケマの姉」

「………ありがとうございます」

このヌケマ、というのがおそらく、カイトのことだろうとは察せられた。反論は山ほどあれど、言い返せる立場でもない。

がくぽはわずかに身じろいで、なんとかカイトの腕から抜け出した。痛みが走って呼吸が止まるが、堪える。

自分ひとりで座り、分厚い布地に隠されても豊かさがわかる胸を張って立ちはだかる女性――メイコへと向き直った。

不機嫌はどこへやら、一転、楽しそうなメイコは、カイトときょうだい神であるとは思えないほどに性悪な笑みを浮かべて、がくぽを見下ろす。

「ここは北の森。『神の最後の安息地にして棲息地』。人間がいては、いけないの」

「ええ、わかっています」

「めーちゃん」

すぐにも出て行けということだろうと、見当をつけて頭を下げたがくぽに、カイトが手を伸ばす。

縋るように袖を掴まれて、胸に未練が沸き起こったが堪えた。

そのがくぽに、メイコは屈みこむと顔を近づけた。

「あんたに、『試練』を上げる」

「……」

メイコから香るのは、煙に似た香りだ。竈の炭のように懐かしく思えることもあれば、イクサに焼けた草原のようにも思えて、一定しない。妙に不安を煽られる。

揺らぎそうな瞳を堪えて見返したがくぽに、メイコはにんまりと口を裂いて笑った。

「剣士なんでしょう剣を上げるわ。カイトの守り役になりなさい。どんなときでも、どんなところでも、いつもそばにいてカイトを守る――剣となり、盾となりなさい」

「っっ」

「めーちゃん?!」

瞳を見張ったがくぽに対し、カイトも驚いた声を上げる。

メイコは弟へ顔を向け、目を眇めた。

「………ここんとこ、森のそばを人間がうろついてるわ。これとおんなじニオイのね」

「私は」

「おまえの昔のことは、どうでもいいの。ききたいのは、今のことよ。カイトを守るというなら、生かして上げる。カイトのために、おなじ人間とたたかい、ころすというならね」

メイコの言葉は直截なようでいて、迂遠だ。

彼女は単に、『人間と戦って殺せ』と言っているのではない。『同国人』であっても、カイトに仇なすなら殺す覚悟があるかと、訊いているのだ。

カイトと同じように『むつかしい言葉はわからない』と言うが、メイコの話の中身に幼さはない。歴戦の為政者も斯くやの、油断のならなさだ。

わからないと言い放って心を挫くのはむしろ、相手を惑乱させるための手法ですらあるような。

どうして森から放り出さないのかと訝しく思う気持ちはありつつ、がくぽはちらりとカイトを見やった。

あまりに無防備で、無邪気だ。

がくぽに対する態度もある――森にどれだけ神がいて、どんなふうに生きているかは定かでないが、狩られるというなら、真っ先に狩られそうな。

狩られて国へと連行されたなら、生涯を檻に囚われて過ごすことになる。

ひたすらに大地へ恵みを与えることを強いられながら、決して自由も愉しみもなく。

あれほど生き生きと、しあわせと安寧に満ちて自由にうたい踊っていたカイトが――

それは裏切りに他ならなかったが、同時に、なにひとつとして裏切っていない。

がくぽの剣は下賜されたものだが、主を定めることが出来なかった。迷いと躊躇いに翳った挙句、最後には狂気に陥って無闇と血を吸った。

そんな曖昧な剣を捧げるなど、不遜極まりないが――

「カイト殿に、私の剣を捧げます」

思ったよりもすんなりと、その言葉は音になった。以前にはひどく苦労し、堆積していく違和感から狂いにまで追い込んでくれた言葉だというのに。

誓約したがくぽに、メイコは満足そうに頷いた。

「気にいらないくらいに、まっすぐでいい目だわ」

言って、事態がわからないままにはらはらと手を揉むカイトへ顔を向ける。

「わかったわね今から、この男があんたの守り役。あんたの剣であり、盾」

「めーちゃん、そんなの…」

「いやだってんなら、ころすわ。『役目』もない人間を森においておけないのくらい、わかってるでしょ」

「……」

メイコの言葉に、カイトはくちびるを噛む。思わしげに見つめられて、がくぽは微笑んだ。

「私は剣士です。………剣を捧げられる相手がいることが、なによりのしあわせです」

「ほらね」

「………でも」

「ころす?」

「………」

端的にして容赦のない選択肢に、カイトは俯いた。いつも明るく弾んでいたのに、その顔は悲痛に歪んで翳っている。

傷のせいだけでなく胸が痛み、がくぽは息を詰めてカイトを見つめた。

泣かせたいのではない。守りたい、そのために剣を捧げると言っている。これまで誰にも捧げられなかった、剣を。

「…………あぶないこと、しない?」

「……」

無茶を言ってくれるカイトに、がくぽは思わず彼の姉を振り仰いだ。

おそらくこの弟の扱いに長けているだろう姉は、がくぽの視線を受けてあっさりと頷く。

「あんたがアブナイとこに行かなきゃ、アブナイことになりようがないわ。あんたが、ふるまいに気をつければいいってだけのことよ、カイト」

「………」

「カイト殿」

痛む体を押して、がくぽはカイトに向き直った。

きちんと礼を取り、頭を下げる。

「私の命は、あなたが拾った瞬間に、あなたのものです。好きにしてくださって、構わないのです」

「……」

がくぽの言葉に、カイトは気後れしたように身を引く。きゅっと拳を握り、俯いた。

「おれ、そんなつもりで、ひろったんじゃない………」

「わかっています」

頑是ない子供にも似た言葉に、がくぽは頷く。

「あなたが恩返しを期待していたわけではないことは。けれど東方の剣士にとって、命の恩は命によって返すもの。返せないとなれば、生涯の恥であり汚点であり、後悔です」

「……」

カイトはひたすらに俯き、拳を固める。

がくぽはその顔を覗きこみ、微笑んだ。

「あなたを怖がらせたり、傷つけたり、泣かせたりしたいわけではないのです。ただ、しあわせを守るお手伝いをしたい。戦うなと言うなら、戦わずに逃げることも選びましょう。ですから」

「…………ほんと?」

揺らぐ瞳で、カイトががくぽを見つめる。底知れぬ感情があって、がくぽは魅入られたように動けなくなった。

「にげてっていったら、にげるぜったい?」

「……」

東方の剣士は、敵に背を向けて逃げるくらいなら死ねと、脊髄に叩きこまれている。

咄嗟に頷くことは躊躇われて、とはいえ自分でも言ったことだ。

がくぽはくちびるを引き結び、硬い表情で頷いた。

「………ぜったいね?」

「……っ?!」

つぶやくカイトのくちびるが近づき、がくぽのくちびるに触れる。薄荷の香りの息吹が吹きこまれ、言葉が刻みこまれた。

「おれが『にげて』っていったら、ぜったいに、にげて」

「……っ」

冷たさとともに甘さ、そしてなにかが縛り上げられ、逃れられなくなる感覚。

くちびるが離れても、がくぽは凝然とカイトを見ていた。

「カイト」

「だめ。きかない。がくぽにあぶないことさせるの、ぜったいだめ」

苦々しいメイコの声に、カイトは力強く言い返す。

出会って初めて、ようやくきっとした顔で、メイコを睨んだ。

「あぶないことさせるために、つれてきたんじゃないの。いきたいっていうから、つれてきたの。だから」

「このヌケマが」

メイコは低く罵る。

それでもそれ以上捻じ込むこともなく、弟を睥睨した。

「まあいいわ。あたしの目的は果たした…………あんた、しばらくあそこにくらすの?」

問われて、カイトは頷いた。

「うん。人間って、おうちがいるって、きいた」

「ならいいわ。あそこに剣をおいておく。あぶないことさせたくないなら、ちゃんと持たせておきなさい。剣士っていうのはね、剣を持ってたほうがかえって、安全なのよ」

「…………そうなの?」

不安に揺らぐ瞳で、カイトはがくぽとメイコを見比べる。

がくぽは強張る体から力を抜き、控えめに微笑んだ。

「………傍にないと、落ち着きません。すでに体の一部ですから」

「……………………わかった」

不承不承頷いたカイトを確認し、メイコは踵を返す。

現れたときと同じように唐突に去っていく背を見送り、がくぽはわずかに俯いた。

くちびるが、まだひんやりとしている気がする。

彼女の懸念もわかる――カイトはあまりに無邪気で、無防備だ。容易く傷つけられ、暴かれるだろう。

穏やかな笑顔が曇り、瞳が涙に潤んだままになることを思うと、傷以上に胸が痛んで苦しくなる。想像だけで全身が怒りに滾り、視界が眩む。

その未来を回避するためなら、同国人ですら躊躇いなく、剣の露と為そう。

傾倒する心の意味を考えることだけは注意深く避けて、がくぽは未だ包帯が巻かれたままの自分の手を見つめた。