もっとも扇情的なのが、カイトだということだけはわかった。

しょちぴるり

第1部-第6話

「メイコの考えることも、よくわからないなぁ」

嘲るように言いながら、大木に凭れて座るがくぽの顎を撫でるのは、女ノ神だ。森の色を映したような色の長い髪を持つ女ノ神は、ミクと名乗った。

触れられた瞬間に背筋に走ったのが堪えようもない怖気で、がくぽは反射で腰の剣を抜きかけ、必死に自制した。

相手は神だ。そしてここは、神の領土――北の森。

招かれざるは自分で、ここは彼女の領分なのだ。

御多分に漏れず、ミクは美しい女ノ神だった。単に容姿が美しいというのではない。妙にひとを惹きつける、雰囲気というか、魅力がある。

人間であれば求婚者が途絶えもせず、奪い合いで決闘やイクサまで起きそうだ。

しかし同時に言い知れぬ不安を掻き立てられて、落ち着かない気分にもなる。

顔を撫で回され、募る怖気と戦いつつも表情には出さないようにしていたがくぽだが、ミクは敏かった。

気がついて、せせら笑う。

「大丈夫、キミの反応は正しいよ、人間」

そして殊更に手のひらを押しつけるようにねちっこく、がくぽの頬を撫で上げた。

「ボクは冥府の女王<みくとらん>。<しょちぴるり>――カイトが『生』を司るなら、ボクは対岸に位置するもの。ボクは不吉、『死』そのものだ。生きたいと願えば願うほど、ボクに触れられるのは不快になる。なにより実際に、ボクの手は命を吸い取る。――もちろん、今もね?」

「冥府の………」

聞かされて腑に落ちながらも、がくぽは嫌がらせとして触れられる手を、跳ね除けはしなかった。

ひたすらに耐える。

分厚い布で厳重に隠されているだけでなく、体はおそらく未発達で平たい部分が多いと思われる彼女は、そんながくぽを冷たく笑った。

「メイコの考えることって、ほんとわかんないね。この人間のなにがそんなに、お気に召したやら」

「その猟奇的なまでの、忍従の姿勢だと思いますわ」

答えたのは、がくぽではない。ミクとともに訪れた、ルカと名乗る女ノ神だ。彼女はがくぽとミクから少し離れた場所で、大木に凭れて立っていた。

ミクと同じほどの長い髪の持ち主だが、こちらは春の花色を映した華やかな女ノ神だ。冴え冴えとした美貌の持ち主で、ミクと比べると肉付きも豊かそうだ。

しかし彼女もまた、女性としての魅力に溢れた体を分厚い布で厳重に覆い、ほとんど肌の露出がなかった。

メイコと出会い、神獣との戦いの中で失ったと思っていた己の剣を取り戻して、数日。

体の包帯も、ほとんど取れた。今まだ痛むのは、治りかけをメイコに踏まれて悪化した、胸の傷だけだ。

そのメイコは、どうやって手に入れたのか、剣とともにがくぽの新しい衣装まで用意してくれていた。それもがくぽの故郷である東方の、下着まで含めてひと揃い、完璧に。

剣を持つなら、寝間着でいるわけにもいかない。

しかし四方世界の衣装は地域ごとに差が大きく、類型がない。北の寝間着はかろうじて東方の衣装に似ていたが、あくまで寝間着だ。普段着ではない。

がくぽは着慣れない衣装で過ごすことを、覚悟していた。

慣れない衣装で剣を振るうのも難儀なのだが、贅沢の言える身ではない。そうやって腹を括っていたところに、着慣れた衣装だ。

しかも訝しむがくぽにカイトがあっさり言ったところによれば、寝台に置かれた布団一式も、がくぽの体を覆っていた包帯も、すべてメイコが用意したものだという。

理由も言わずに欲しいと言った『ヌケマ』の弟に、心配性の姉は理由も訊かずに用意してやったと――

疑問はあったのだ。住処はまったく手入れされた様子がなく、森に飲み込まれるに任されていたのに、布団は新しいものだった。

普段、神の誰かしらが棲んでいる様子もなく、なのにもっとも最初に朽ちるはずの布団が新しい。

むつかしい言葉を使うなと、カイトと同じく言う。がくぽは幼児を相手にするがごとく、言葉を噛み砕かなければ意思疎通が図れない。

だがメイコは、カイトとは違う――油断がならない。

初めのとき、まるでがくぽの存在を知らなかったように振る舞っていたが、元から承知していた可能性がある。

承知したうえで、どういった手合いかを見極めるため、わざと泳がせていた――

カイトは無邪気だ。姉神の企みも心配も、まるで察する様子がない。

現在、神の一族の長であるメイコの許諾を得た以上、カイトはがくぽを秘する理由がなくなったと笑った。許諾の条件が微妙に不満で不安はあっても、がくぽを自由に連れ出せることが単純にうれしいらしい。

がくぽにしても、メイコの懸念がわからないわけではない。がくぽは人間だ。本来は敵なのだ。

油断ならないとは思っても、納得は出来る。

だから着慣れた衣装を与えられたことには結局、素直に感謝することにした。

「がくぽ、もう好きなように、おそと出られるよ」

明るい笑顔で言ったカイトは、外に行くときにはがくぽを伴うようになった。

カイトの守り役をするという約束の元に、永らえたがくぽだ。元よりついて行く気だったが、カイトが嫌がるようなら、影からこっそりと後をつけねばならない。

面倒とは言わないが、土地勘もない場所で、病み上がりの身にはかなりの難行となる。

カイトが自分から伴ってくれることは、がくぽにとっても願ったり叶ったりだ。

そうして生活を共にしてみると、カイトはほとんどの時間を歩き回って過ごしていることがわかった。

森の中を飽きることなく巡り、ふとした瞬間に咽喉を開いて、唐突にうたい踊り出す。

自由そのものだ。

カイトを知れば知るほど、人間の手に落としてはならないと思う――幽閉され、恵みを強要され、見返りもなく生きる。そんな境遇にだけは、落としてはならないと。

今日もまた、いつもの通りに歩き回っていた、森の一角だった。

「おじーちゃん、ちょっと元気ない……」

大木が立ち並ぶ場所に来たカイトは唐突につぶやき、中でも一際立派で、年経たことがひと目でわかる大樹に手を添えた。瞳を閉じると幹に額を当て、小さくちいさくくちびるを開く。

いつものようにのびのびと放埓にうたうのではなく、ささやくように、慰撫するように、やわらかに静かに――

厳粛な空気に、がくぽはカイトの傍らからわずかに離れた。おそらく、あまり傍にいて気を散らすようなことをしないほうがいい。

そう判断し、カイトの姿が見えて、すぐに駆け付けられる場所に腰を下ろした――ら、すぐ頭上の枝から、ミクが逆さにぶら下がって現れた。

気配など感じない――のはもう、神の特性だと諦めかけている。人間の気配まで感じられないほど鈍っているなら、問題だが。

そして枝から下りたミクは挨拶も前口上もなく、素っ気なく名前だけ告げると、ぶつくさとメイコを腐しながら、がくぽをこねくり回したのだ。

「貴女に触れられたときの反応を見れば、わかります。並みの人間なら叩き払っているものを、堪えた――おそらく、アレを邪魔しないために」

「んああ………アレか」

ルカに言われて、ミクは振り返った。

老木には未だにカイトが寄り添って、うたを紡いでいる。がくぽには『元気がない』のかどうかわからなかった老木の状態だが、今はわかる気がした。

うたとともに葉につやが戻り、曲がり折れそうだった幹が心持ち伸びたように見える。

ここにミクやルカといった眷属が現れたことにも気がついていなそうな、カイトだ。おそらく少しばかりの物音で、破れるようなやわな集中ではないのだろう。

だとしても――

「貴女に触れられて堪えるんですよ。いくら守り役とは言え、猟奇的な忍従姿勢だとしか言えませんわ」

「…………そこまで強調されると、びっみょーに傷つくな………」

ミクは言葉通りに微妙な表情になると、ようやくがくぽから手を離した。

「……っ」

呼吸が戻ってきたような感覚に、がくぽは思わず大きく息を吸う。しかし吐き出すときには慎重に、平静を装った。

ミクはがくぽに構うことなく立ち上がると、少し離れたところに立つルカの元へ行く。手を伸ばすと、相手の頬を軽く撫でて笑った。

「キミと比肩するような、忍従精神の持ち主ってこと?」

「………」

束の間、ルカは痛みに歪んで瞳を逸らす。

ややして視線を戻したが、そこに言及することはなかった。

「カイトに付けるのですもの。生半な人間では困るでしょう」

「そこは認めるけれどね」

さらにミクが口を開こうとしたときだった。

「あ、ミク。それに、ルカも」

うたい終えたカイトが振り返って眷属に気がつき、明るい声を上げる。老木の幹を一度撫でて別れを告げると、微笑みながら歩み寄った。

「どうしたのおさんぽ?」

「………」

がくぽは軽く、瞳を眇める。

がくぽには――嫌がらせも含めてだろうが――気安く近寄り、ルカにも触れたミクだったが、カイトに対してはわずかに体を引いた。

扁平な体を厳重にくるんだ分厚い布地の衣装にさりげなく手を隠し、のみならず後ろに回す。

そうやって注意深く触れないようにしたうえで、冥府の女王はカイトへと微笑みかけた。

「久しぶり。元気にしてた?」

「うん。病気してないよ」

ミクの振る舞いに気がつかぬようで、カイトはいたっていつも通りに明るく、のんびりと応じる。

「……」

並び立った神を見比べて、がくぽは内心、頭を抱えた。

男と女の別が、完全に反転しているような気がする。

扁平であれ豊かであれ、女ノ神であるミクとルカは分厚い布地の衣装で厳重に体をくるんで、ほとんど肌の露出がない。

対して男ノ神であるカイトの衣装は、上も下も肌が透ける薄絹で、南方の踊り子もかくやという軽さだ。肌の露出も多く、時として目の遣り場に困る。

醜い肉の付きをしていればまた違うのだろうが、カイトは男としては華奢な部類に入った。ところどころは骨が浮いて見えるほどに肉付きが薄く、腰も細い。

女には決して見えないのだが、かえってそこが不安定に、ひとの劣情を煽る。

こうして女ノ神と並んで比べてしまうと、さらに色香は妖しさを増した。

「………」

ため息を噛み殺し、がくぽは立ち上がる。神と並んで立つことほど不遜なこともないので、カイトの背後に回ってひっそりと控えた。

気配は完璧に殺しているはずなのだが、眷属と対していたカイトはがくぽが後ろに来たことを察して、うれしそうに振り返る。

いつものようにがくぽに微笑みかけて、ふとその顔が曇った。

「顔色わるい?」

「………っ」

伸ばされた手に頬を撫でられ、がくぽは軽く息を飲んだ。

冥府の女王に触れられたことで背筋を這い回っていた悪寒が、きれいに治まった。

今度こそ本当に息が継げた気がして、がくぽは心配そうなカイトへ嘘偽りなく微笑みかけた。

「そうですか?」

「………」

穏やかながくぽの笑顔に、カイトはなんとも言えない表情になる。

戸惑ったまま頬に触れる手はミクと同じで冷たいが、そこから身に沁みる感覚はまるで違う。ずっと触れていてほしいと思うほどに心地よく、――

「ボクが触ったんだよ」

甘い視線を交わす二人を呆れたように眺めていたミクが、ぼそりと口を挟んだ。

「ミク?」

驚いた声を上げ、カイトはがくぽから手を離し、ミクを振り返った。

後ろに回していた手を閃かせ、ミクは性悪な笑みを浮かべる。

「ちょっとイジメたった」

「ミク……っ」

小さく悲鳴を上げて、カイトは後ずさる。がくぽの胸元に縋るように寄り添い、潤む瞳で見上げた。

頬を撫でられて、その感覚に、がくぽはわずかに体を強張らせる。

先とは、触れ方が違う――これは、口づけるときの。

思った通りにカイトが伸び上がるが、がくぽは咄嗟に振り払うことが出来ない。

人目があると、内心慌てふためくがくぽに救い手を伸ばしたのは、意外にも、というか、意外でもないのか、ミクだった。

「カイト」

それまでとは声音を変えて、厳然とカイトを呼ぶ。

振り返ったカイトに、ミクは自分のくちびるに人差し指を当ててみせた。

「やっちゃだめなことは、なにがあっても、やっちゃだめだ。――覚えてるよね?」

「………っ」

「いくらその人間が、守り役になろうともです。していけないことは、してはなりませんわ、カイト」

瞳を見張ったカイトに畳み掛けたのは、それまで沈黙を守っていたルカだ。厳然と命じるミクとは違い、声音は幼子を嗜めるようにやわらかい。

けれど含める想いだけは強く、瞳はきつくカイトを見据える。

女ノ神二人の制止に、カイトはがくぽに縋りつく指に力を込めた。

抱きしめたい。

浮かんだ衝動を飲みこみ、がくぽはきつく縋るカイトの指を撫でた。

「………虐められてなどおりません。大丈夫ですから」

「………」

「大丈夫です」

揺らぐ瞳を穏やかに見つめ返し、がくぽは落ち着いた声でくり返した。強張るカイトの指を撫で、宥めるように軽く叩く。

「………ん」

ややしてカイトは気弱に俯くと、がくぽの胸に頭を凭せ掛けた。抱きしめようと手が動き、腰に触れる寸前でがくぽは我に返る。

しばし彷徨った手は結局カイトを抱きしめることなく、背中をあやすように叩いて終わった。

「…………りょーき……」

「そう言いましたわ」

ミクが呆れたようにつぶやき、ルカが平然と応じる。

そのあまりに平然とした態度に、ミクは恨めしげな視線をルカに投げた。しかしそれ以上、ごねることもない。

代わって浮かない顔のままのカイトへと、笑いかけた。

「ごめんね、カイトメイコがどんな人間を選んだのか、知りたかったんだ。でも、ほんのちょっとだよ……寿命を削るとか、そこまでじゃないから」

「……」

ひらひらと手を閃かせるミクの笑顔に、カイトは瞳を見張った。がくぽの胸から体を起こし、ミクへと向き直る。

「あ………の、ごめんねおれ、そんな……っ」

「……っ」

仲直りのために伸ばされた手を、ミクは避ける。

素早く後ずさって距離を開けると、瞳を揺らがせるカイトから気まずく顔を逸らした。

「さわんないで」

「…………あ、その…………ええと」

伸ばした手の行き所もなく、カイトは戸惑う視線を彷徨わせる。ミクは俯き、分厚い布地の中に手を隠すと、背中に回した。

流れる空気の微妙さに、がくぽはくちびるを引き結んだ。

冥府の女王だと名乗った。触れるものの命を吸うと。

ミクが触れることは人間のみならず、神にとっても不快であり、生命に関わることなのだろう。

日常のしぐさの中で、何気なく、触れる。

それにすら神経を尖らせ、気を遣わなければならないのが、ミクという神の持つ宿業。

「……っ」

「……」

潤む瞳に縋るように見上げられても、がくぽにも対処がわからない。そもそも、ミクとは今日が初対面だ。下手に庇えば、相手の自尊心を傷つけるだけに終わる。

「ふん!」

困惑と悲愴の入り混じった嫌な空気の中、唐突にルカが鼻を鳴らした。ミクの元へ行くと、俯く顔を持ち上げ、歯がぶつかりそうな勢いでくちびるとくちびるを合わせる。

「る………っんんっ!」

驚きに開いた口の中に舌まで差しこんで軽く舐めてから、ルカは掴んでいた顔をぽいと放り出した。

「ふんっ」

呆然とするミクに、再び鼻を鳴らす。

咄嗟のことについていけないのはカイトもがくぽもで、二人して目を丸くして、ミクとルカを見つめるだけだ。

振り返ってその二人の視線に力強く応え、ルカは分厚い布地に覆われてもわかる豊かな胸を逸らした。ミクが初めにぶら下がっていた大木を指差す。

「カイト、後をお願いします。ミクが『ひと休み』に使いましたの。おそらく、『疲れた』でしょうから」

「あ……」

指差されるままに振り返って木を確かめ、それからカイトはふわりと笑み崩れた。

ふてぶてしく偉そうなルカを、いつもの笑みで見返し、頷く。

「わかった」

「用は済んだでしょう。行きますわよ、ミク」

「………」

促し、さっさと背を向けて歩き出すルカの背を、くちびるを押さえたミクは呆れたように見やった。

その顔が再び笑みを取り戻し、カイトへ向く。

「ルカって、おっかしいよね!」

言って、かわいらしく手を振ると、弾むような足取りでルカの後を追った。

カイトも手を振り返すと、背が消えるまで見送ることもなく、ルカに示された大木の元へと向かった。