しょちぴるり

第1部-第19話

北の地方の冬の寒さは、格別だ。

冷たさに痺れる拳を握って開き、がくぽは強張る指先を漫然と眺める。

痺れているのは、寒さのせいだけではない。

胸を刺し貫かれたがくぽだが、カイトが与えてくれた『神気』によって、どうにか一命を取り留めた。しかし問題は、傷の大小ではない。

東の隠密衆の武器にはすべて、なにかしらの毒が塗布されているということだ。

その毒の性質の悪さたるや、東の剣士が主に捧げる忠誠心の狂的なことと並び称されて、東の人間は気狂いばかりだと、裸足で逃げ出されるような代物なのだ。

いかに神の気が優れていても、一度ですべての毒を洗い流すというわけにもいかなかった。

それでも、ほんの数日寝込んだだけで、またこうして歩けるようになっている。脳髄まで蕩けたとすら思ったのに、考えることも出来るし、物思うことも出来る。

わずかに鈍りはするものの、剣を振るうことも可能だ。

「………」

がくぽは顔を上げ、空を見た。

どんよりと重い雲に覆われている。そこから、ちらちらと白いものが舞い始めていた。

晴天の日はなくなり、たまさかあっても続かない。北の森は、完全に冬へと入った。

草も花も枯れ、木もしんと静まって、獣もおいそれとは動き回らない。

死んだようになりを潜めるのが北の冬というものだが、今、北の森に限って言うなら、ここには妙な活気が満ちていた。

「♪」

まだ浅いとはいえ、降り積もった雪の上だというのに、カイトは沈みこむこともない。夏の野辺と同じく、踊るように歩く。

歩きながら、いのちを与えるうたをうたう。

その体に纏うのは、すっかり寒くなって雪すら舞う最中にも、肌の透ける薄絹だ。うすうす予感はしていたが、まったく寒くないらしい。

見ているほうが寒いのだが、カイトがその感覚を理解してくれることはない。

がくぽはさすがに厚着を願い出たが、カイトが真似して布にくるみこまれることはなかった。

おかげで、相変わらずの悶々とした日々だ。肌がきれいに隠されれば、あるいはとも、思ったのだが――

「♪」

雪のちらつく中、舞うように歩きながらうたうカイトは、明るく伸びやかで、春の使いのようにしか見えない。

まだ冬は始まったばかりだというのに、そこには希望と生命の予感が満ちている。

『破滅のうた』をうたったと、聞いた。

がくぽが喪われるかもしれないことに、怒り、怯え、悲しみ、――破滅を、呼び寄せたと。

意識が混濁していたときのことで、がくぽにはっきりとした記憶はない。

けれどカイトの神気によって意識を取り戻したあと、メイコに叱られた。

――東の剣士は、たやすく死なないってきいたわ!!カンタンに意識をなくさないで!!

無茶を言ってくれると頭を抱えるが、同じ頭で、当然の要求だとも思う。

守り役の自分がいなくなれば、カイトがどうなることか。

先を見据えれば容易くは死ねないし、意識を失うことすら危うい。

危うい、が――

「♪――♪」

森の生命を啜って、カイトは滅びを招いたという。

これから、厳しい冬が始まる。

――みんなに、ごめんなさい、しないとだから。

カイトは寂しげに微笑んで、そう言った。

長く厳しい冬に耐えるため、森が蓄えていた力を、カイトが奪ってしまった。

神が求めたときには最大限に力を与えるという、契約に従って。

だから、カイトはうたう。

命を与え、傷を癒し、力を与えるうたを。

息をするだけで肺が凍えそうな寒さの中でも、伸びやかに声を上げて。

春の芽吹きを待つ種から奪った力を、枯れ果てても脇芽を潜ませていた草から奪った力を――

重い雪に耐えるため、懸命に根を張る木から奪った力を、すべてすべて返すために。

返してさらに、少しでも楽に冬を越せるように、惜しげもなく、己の力を。

「………っ」

拳を握り、そこに残る違和感に、がくぽはくちびるを噛む。

指先が強張る。痺れて、痒いのにも似た感覚が続いていた。

毒の影響もあるし、この耐え難いまでの寒さのせいもある。そもそも、かじかんでいるのか痺れているのか、判然としないことも多いくらいだ。

だからといって、甘えているわけにはいかない。

カイトは自分の不徳だと言っていたが、事の一因はがくぽにもある。メイコははっきりそう言ったし、彼女に言われずとも、自分でもそうだと思う。

「……っ」

がくぽはくちびるを噛みしめ、かじかんで震える拳を固く握った。震えを止めることが出来ないそれを、じっと睨みつける。

甘えている場合ではない。

あまりに、平和ボケし過ぎた。

カイトの傍は和む。和むが、だからといってそんなことは、なんの言い訳にもならない。

「がくぽ」

「……っ」

うたい止んだカイトが、いつの間にか、がくぽのすぐ目の前にまで来ていた。

相変わらず消している様子もないのに、さっぱり気配が読めない。わずかでも気を逸らすと、途端に姿を追えなくなってしまう。

「………終わりましたか」

瞬間的にぎょっと引きかけた体を懸命に抑えこみ、がくぽは覗きこんで来るカイトへ微笑みかけた。

「次はどこへ………」

「まだ、ヘン体、おかしい?」

「………」

握った拳を睨みつけて、茫洋と過ごしていたのだ。そこに痺れが残っていることは言ってあるし、心配にもなるだろう。

がくぽは微笑んで首を横に振り、さりげなくカイトから距離を取った。

「大丈夫です。冷えているだけですから………」

「………」

まったくの嘘でもない。雪がちらつくような天気だ。人間ならば、かじかみもする。

微笑むがくぽをしばらく見つめていたカイトは、やがて自分の口元に両手を運んで当てた。

ふ、と息を吹きかける。

「………がくぽ」

「っ」

避けようもなく、カイトはがくぽへと抱きついた。

いつもいつも冷たいのが、神の体だ。しかし今のカイトは、厚地を通してすら沁みこんでくるほどに、ひどく心地よくあたたかい。

冬になってから、カイトの体はかえって、あたたかくなった。

それというのもこれというのも、抱きつかれるたびにがくぽがびくりと跳ねて、あからさまに体を強張らせたからだ。

理由を問われて、寒いから冷たさが堪えると言い訳したのを、律義に気にしてくれているのだ。

申し訳ないと思うし、そんなふうに気を遣わないで欲しいとも思う。

決して認めはしないが、カイトはがくぽにとって主だ。主の要求に応えきれない自分が悪いのであって、カイトが気を遣う話ではない。

「ね。ちょっと、あったかい……?」

「…………はい」

実際のところ、ちょっとあったかいで済む問題を、超えている。

思わず抱きしめそうになって、がくぽは懸命に堪えた。

だめだ。

もう、決して、二度と――

「………」

抱きしめ返さないがくぽの胸に縋るように抱きつき、カイトはぼんやりと瞳を巡らせた。

握られた拳に目が行って、そういえば、末端のほうが冷えるといつか語られたことを思い出した。

「ん………」

「カイト殿?」

「ん……?」

拳を取ってみれば、確かに驚くほど冷たい。

がくぽにとってカイトの体が常に冷たいように、カイトにとってがくぽの体は、常にあたたかいものだ。

それは体幹だけでなく、たまに頬を撫でてくれる指先すらも。

「………つめたいの、いたいって、きいたことある………いたくない、がくぽ?」

両手を取って合わせ、さすりながら訊いたカイトに、がくぽは微妙な笑みを返した。

「………大したことは、ありません」

「………」

答えは予想済みだ。がくぽはカイトに頼ろうとしない。

なにも望まない。

望まれなければ、願い叶える神であるカイトは、なにも与えられない――

カイトはわずかにくちびるを尖らせ、手の中に預かった拳を弄んだ。

「カイト殿。次の野辺に行かなければ……」

「がくぽ、さわるね」

「っ」

訊かずに宣言して、カイトは伸び上がった。拳を弄んでいたはずの手は、用意よくがくぽの後頭部に回されて、押さえこんでいる。

「かい………っ」

「ん……」

がくぽが拒絶の言葉を紡ごうとしたのを、カイトは素早くくちびるを塞ぐことで封じた。

そのまま、がくぽの口の中に『神気』を吹きこむ。

「………っ…っ」

こくりこくりと咽喉を鳴らして、がくぽは息吹を飲みこむ。

それでも、これまでなら腰に回された手は、宙にあるばかりだ。

与える神気を、飲みこんではくれる。

だから、まったく拒絶されているわけではない。

けれど、抱きしめてもくれない――

「ん………っ」

カイトはくちびるを離し、がくぽの胸にぶつかるように埋まった。厚くなった衣装を、爪を立てるほどに引っ張る。

邪魔だ。距離が開く。開いた。

「カイト殿?」

首を傾げて訊くがくぽの声は、やさしい。

やさしいけれど――やさしい、から。

抱きしめられたい。

憤るほど望む自分の心を持て余し、カイトはがくぽの胸に埋まったまま、くちびるを噛んだ。