諦念気味のがくぽと対照的に、カイトのほうは慌てて身を乗り出した。

「だめ、だめ、めーちゃん………がくぽいじめたら、ぜったいにだめ!!」

「カイト殿……」

前へ回って庇おうとするカイトを、がくぽはさりげなく手をやって後ろへと引き戻す。

しょちぴるり

第2部-第5話

相変わらずキヨテルの背を踏んだままのメイコは眉をひそめ、抗議する弟を見た。

「………だったら、早くしなさいよ。約束したの、おぼえてるでしょう」

「………っ」

「約束、したわよね?」

息を呑むカイトに、メイコは低く念を押す。

普段から和やかとは言い難いきょうだいでも、そのあまりにただならぬ空気に、がくぽはカイトとメイコを忙しなく見比べた。

カイトの表情は、滅多になく硬い。

「カイト殿?」

「っ」

案じて呼ぶと、カイトはびくりと体を揺らした。

潤む瞳が、心配そうながくぽを映して、すぐに伏せられる。

「カイト。わかったわよねこうやって、人間はまた入りこんだ………あんたをねらって。ここまで入りこんで、ここにいるのよ。あたしのいうこと、もうわかるでしょう!」

「………っ」

キヨテルを踏みつけたまま、メイコは鞭打つように厳しく言う。

俯いたカイトはくちびるを噛み、胸の前でぎゅ、と両手を握りしめた。

「………カイト殿」

「っのね、がくぽっ………っ」

眉をひそめて呼ぶがくぽに、カイトはぱっと顔を上げた。

潤む瞳は、完全には納得していない色を宿している。受け入れられない、それでも耐えるしかない。

そんな色を宿して、揺らぎながらがくぽを映す。

黙って言葉を待つがくぽに、カイトはしばらくくちびるを空転させ、喘いで、ようやく告げた。

「『にげて』って、ナシにする」

「………っ」

瞳を見開いたがくぽに、カイトはぐすりと洟を啜った。胸の前で組んだ手をさらにきつく握りしめ、がくぽを潤んで見つめる。

「が、がくぽ、『にげる』の、だめなんでしょにげるの、東のひとは、ぜったいだめなんだって、……この間、がくぽがケガしたの、おれが『にげろ』って、いったせいだって」

「カイト殿、それは」

否定しようとしたが、がくぽの言葉には力がなかった。

まったく違うわけではないからだ。

カイトのせいだとは一切思わないが、逃げろと言われても咄嗟に逃げることを選べないのが、自分であるのは確かだ。

「………私が、未熟で、力至らぬせいです」

「なにいってんのよ!」

忌々しそうに、メイコが吐き出す。

足の下に踏まれたままのキヨテルは、面白そうに瞳を細めた。

「………成程。おかしいと思えば、言霊に縛られていましたか」

つぶやき、踏まれたままとも思えない明るく弾む笑顔を、カイトに向ける。

「いくら激昂したとはいえ、私の如き刃を、簡単に体に容れる神威ではありませんよ。完全になにかしら好都合な邪魔が入ったものだと思いましたが――あなたが援軍でしたか」

「……っ」

「黙れっ!!」

キヨテルがわざわざ選んだ意地の悪い言葉に、カイトはますます瞳を潤ませた。

使われている言葉は、おそらくカイトが『むつかしい』と言い返すようなものだ。完全には理解出来なかったろうが、意味するところは伝わっただろう。

がくぽはキヨテルを怒鳴りつけ、しかしメイコに踏まれている相手をさらにいたぶることも出来ない。

歯噛みしながら、かわいそうな様子で震えるカイトへと向き直った。

「カイト殿、本当に、私の力不足が原因なのです。あなたのせいであることなど、なにひとつとして……」

「………っ」

ずっとカイトは洟を啜り、一度俯いた。

再び顔を上げると、涙目ながらもきっとして、がくぽを見つめる。

「でも、『にげて』って、ナシにする………っ」

「………」

正直、有り難い。戦術的に考えて一度退く、――くらいのことは出来るが、ただ痛みや怪我を恐れて逃げ回ることは、ひどく難しい。

だから解いてくれるというなら歓迎するが、単にがくぽを案じてくれただけのカイトが、哀れでもある。

くちびるを空転させて言葉を探すがくぽを、カイトはどこか必死な光を宿して見つめた。

「だから、さわらせてっ」

叫んで、カイトはがくぽへと素早く手を伸ばした。

「っ、カイっ!」

されることの予想がついて、がくぽは思わず身を躱す――なにしろここにはカイトの姉がいて、敵対する幼馴染みがいて、その環視の中だ。

しかしカイトのほうがわずかに早く、がくぽの頬を撫でた。手が後頭部に回り、強く押される。爪先立って顔を寄せるカイトの必死さに、がくぽは抵抗しきれなかった。

「ごめんね」

「……っ」

触れ合う寸前、くちびるが吐息のように謝罪をこぼす。

謝ることなど、なにもない。

どうしてあなたに謝らせたいものか。

すべてすべては、自分の不徳の致すところだというのに――

反論や制止の声を上げるより先に、くちびるを久しぶりに冷たさが覆った。

吹きこまれる、薄荷。

甘いあまい、望郷と郷愁と、満たされて飢える、冷たい薄荷水――

いつもなら、それは体の中を吹き回って、力を与えて沁みこんでいく。

しかし今日は違った。

体を巡った息吹は、そのまま回ってカイトのくちびるへと吸い上げられる。

「………っ」

実際に、音がしたわけではない。

けれどなにかが外れたような、かちりという音を、聞いた気がした。

雁字搦めに縛り上げられていた、そのクサリが解かれ、体が浮く。

「………っ、ふっ…………っっ」

あまりに心地よく、爽快で、心が弾んだ。

力が湧きあがり、興奮に息が荒くなる。

「………っ」

甘いあまい薄荷水。

体の中を吹き巡り、傷ついた場所を癒し、そして軛を取り去り――

興奮は際限がなく、果てもなく、滅多にないほどがくぽを高揚させた。

寄り添う体を、抱きしめたい。

潰れるほどにきつく抱きしめて、このくちびるを存分に堪能したい。

冷たく甘い薄荷を吹きこむ口の中に、熱く粘る舌を差しこんで、隅々まで隈なく蹂躙したい。

熱さに蕩け爛れて、体から力が失われたなら――

地に押し伏せて、薄絹を開き、凍えるような肌を撫でさすり、舐め回して、熱を――

「………呆れた忍耐力ですね」

「まったくだわ」

カイトに吸いつかれたまま、凝固して微動だにしないがくぽに、傍観しているキヨテルとメイコがぼそりとつぶやく。

同性、同じ『男』に吸いつかれたことで凝固しているならまだしも、その体が堪えているのは欲望だ。

自分から誘いを掛けているとしか思えない相手への、乱暴で凶暴な。

「東の人間って、みんなああなの?」

「みんなというか………まあ、大体あんなもんですけれど。神威は中でも、特別製ですね。もはや人智を超えたとしか、言えません」

「ち……っ」

キヨテルの答えに、メイコは舌打ちして爪を咬む。

延々と口づけを――カイトからの一方的な口づけを受けて、ひたすらに己の欲情を抑えこむがくぽを、壮絶に顔を歪めて睨み据えた。

男が論外だという相手なら、まだしも。

がくぽはあからさまに、確実に、カイトへ不埒な思いを抱いている。

人間がどれだけ欲望に弱い生き物か、メイコはよく知っている――人間が思っているより、余程メイコは知っている。

だから、すぐのことだと思った。

すぐにもがくぽは白旗を揚げて、カイトに傾くと。

だというのに、この現状。

「クスリでも飲ませようか……」

物騒なことをつぶやくメイコに、足の下のキヨテルが笑う。

「協力申し上げましょうか東の隠密衆特製の媚薬は、それはそれはよく効くと評判です」

「……」

胡乱な目で見下ろしたメイコに、キヨテルは悪気もなく笑い返した。

「癖になって廃人続出♪」

「………」

「あただっ!!」

メイコの足に力がこもり、背中が容赦なく踏みにじられる。

キヨテルはわざとらしく悲鳴を上げたが、メイコが斟酌してくれることはなかった。

「………がくぽ」

「………」

ようやくくちびるが離れて、しかしがくぽは安堵の息を吐くことも出来ない。

気を抜けば、カイトに襲いかかりそうだ。

イクサ場よりよほど気を張って、がくぽはカイトを見つめていた。

瞳を揺らして見返し、カイトはがくぽの胸へ、そっと顔を埋める。

「………ごめんね」

「………」

言葉にもならないままに、がくぽはカイトをきつく抱きしめた。