カイトの気配が、常に感じ取れないのががくぽの悩みだ。

傍に来られることに気がつかないのが、問題ではない。

もしはぐれたら、二度と見つけられないかもしれないという危惧が、いちばん嫌なのだ。

そのためにこれまで様々な方法を試したが、結局現在まで、がくぽはカイトの気配を感じられるようにならなかった。

しょちぴるり

第2部-第10話

「っ!」

「…っ」

体に圧が掛かった瞬間、深く寝入っていたと思えたがくぽは跳ね起きた。その手が一瞬の淀みもなく、流れるように剣を掴み、きつい瞳が向けられる。

一瞬後には緩んだものの、支えを失って床に手をついたカイトを認めた切れ長の瞳は、驚きを示して最大限に見開かれた。

「……っカイト、殿?!」

「……」

小さな驚声が漏れ、言葉も継げずに呆然と見つめられる。

刹那ののちに、がくぽは慌てて剣を下ろし、浮かせた腰を落とすとカイトへ頭を下げた。

「すみません、あなたに剣をっ」

「………」

狼狽えて謝るがくぽに、カイトは恨みがましげな瞳を向けるだけだった。

どうしたらいいのかわからず、がくぽは気まずくカイトと視線を合わせる。

「どうしましたかなにか、異変――おかしな、ことでも」

自分が束の間、深い眠りに落ちこんだことは自覚がある。

そのわずかな間に、なにか神経に引っかからない異常があったのかと、がくぽは冷や汗もので訊いた。

暖炉の火は消えているが、熾火が残っている。

あまりに小さな火だが、部屋がまったくの暗闇に沈んでいるわけでもない。

暗視に慣れている目は、人間であってもがくぽに多少は視界を与え、そしてカイトがひどく恨みがましく自分を見ていることも映し出した。

「………カイト殿」

「………」

戸惑いながら呼ばれて、カイトはきゅっとくちびるを引き結ぶ。

陽の光の下で見れば、カイトの瞳は南の海を思わせる色だ。北の、夏であっても寒々しく凍える海とは、持つ空気が違う。

そもそも神は、北の地方にいたわけではない。

長きに渡る人間との闘争の末に追いやられて、少しずつ北上し、そして現在の、最後の安息地にして棲息地としての、北の森への定住だ。

定住したのは、がくぽが生まれるより遥かに昔のことだ。人間の代替わりも進み、本来は神がどこにいたのかも歴史に紛れ、定かではなくなっている。

当の神たちとて語らないし、故郷にこだわる様子もない。

けれどがくぽは、カイトはもともと南の生まれだったのかもしれないと思っている。

生まれた場所の特徴を身に宿すことが、神の特性だ。

だとすれば、南の海を想起させるカイトは――

遠く、遠く。

まったく環境の違う場所へと、追いやられた。

それでもカイトは恨みがましい様子もなく、森の中を楽しげに巡る。

雪の中で寝ることを厭うこともなく、冷たい空気を嫌がる素振りもない。

楽しくて、幸せそうで――

鷹揚なのだと、その言葉だけで片づけられないほどに、カイトの心は広く、寛大なのだと。まさに神とは、人智で計れない存在なのだと――

そのカイトが、恨みがましさを隠すこともなく、がくぽを見つめている。

指が伸びて、着物の裾をきゅっとつまんだ。

どこか縋るようなその動きに、がくぽは避けることも思い浮かばず、カイトを見返す。

「……………いっしょに、ねて」

「………っ」

震えながら吐き出された要望に、がくぽは瞳を見張った。

答えないがくぽに、カイトは顔を歪める。

「………いっしょに、ねて………っ」

苛立ちをそのまま吐き出す声に、がくぽは息を呑んだ。

カイトが怒りをあらわにすることは、滅多にない。それこそ、メイコががくぽを『虐めた』ときくらいのものだ。

がくぽがどんな振る舞いに及んでも、カイトは怒りの表情を閃かせたり、苛立ちを叫ぶことはなかった。

そのことに、甘えないように。

自制こそが、がくぽにとって常に最大の鍵だった。

「………カイト殿」

「ぎゅってして、いっしょのおふとんで、いっしょに寝て。がくぽがねむれなくても、おれのことちゃんとぎゅってして、ずっといっしょに、寝てっ」

「………っ」

口早に吐き出し、カイトは両手で顔を覆った。ずっと、洟を啜る音がする。

「ひとりに、しないで…………っっ」

「っカイっ………っ」

堪えきれない涙声に、がくぽは言葉にならなかった。

考えることもなく、咄嗟に手を伸ばし、ひとり泣くカイトを抱きしめる。

抱きしめればいつも緩やかにほどけた体は、しかしほどけることなく、頑固にひとりきりで泣いた。

「カイト殿」

「…………っゃだ、よぅ………っ、やだよぉお………っこんな、こんな…………っこんな、ひどいこと、いいたくないぃ…………っっ」

「カイト殿!」

引きつる声で、カイトは吐き出す。

ひとり強張って泣くカイトが抱える思いに、がくぽは己の迂闊さと鈍さを呪った。

自分のことにかまけ過ぎた。

自分のことばかり考えて、カイトがどう考えているかに思い及ばせることを、怠っていた。

守る守ると言いながら、守ればいいのは体だけだと。

それがひいては、心を守ることになると。

がくぽを甘えさせてはくれても、端々の片鱗に、甘えたな部分が垣間見えたカイトだ。

きっと、甘やかすことと同じくらいに、甘えることも好きだろうと――

そう、思っていながら。

触れ合うことが好きだと、わかっていた。

それが甘えることに繋がるから、安心するのだろうと。

わかっていたのに、突き離し続けた。

甘えることを与えて、教えて、覚えたそのときに――

「カイト殿……」

「ぃやだ………っぃやだ、こんなの、ぃやだぁあ………っっ」

「カイト殿っ」

カイトの声は涙に塗れて、あまりに悲痛だ。

悪いのは、カイトではないのに。

己の勝手な欲情に負けて、その勝手さに付き合わせたがくぽこそ、責められてしかるべきだというのに。

「カイト殿!!」

「ぃやだぁあ………っ」

呼んでも呼んでも、泣きじゃくるカイトの耳には届かない。

くちびるを噛んだがくぽは、カイトを抱く腕に引きつるように力を込めた。

いつもならきっと、いたいと、苦情が上がる。

けれど今、カイトはあまりにも心が痛いのだろう。

元々がやさしい性質で、他人を思いやりこそすれ、我が儘を言うことは滅多にない。自儘に振る舞っているように見えても、根底には他者への思いやりと心配りがある。

だというのに、がくぽにひどいことを言ったと――おまえが眠れることより、自分が安心することのほうが大切だと、言い切った己が嫌で赦せずに、惑乱している。

「カイト殿……っお赦しあれ」

「ゃ、っん、んんんっっ?!」

『自分』を嫌い、厭う言葉を吐き出すくちびるに、がくぽは己のくちびるを押しつけた。

唐突に熱に覆われて、カイトは瞳を見開く。強張っていた体が身じろいで、驚きの反射でがくぽを跳ね飛ばした。

いくら神でも、カイトの膂力は大したことがない。

がくぽがその気なら、跳ね飛ばされることもなく、楽々と堪える。

それでも、がくぽは素直に突き飛ばされた。

「っぁ、がくぽっ!!」

離れた熱に、カイトははたと我に返って瞳を見開いた。

「がくぽ……っ」

床に無様に転がったがくぽを映し、愛らしい顔が盛大に歪む。

その声が、己のしたことに再び悲痛に染まりかけるのを聞きながら、がくぽは素早く体を起こした。

ようやくがくぽの存在を思い出したカイトの体を、抵抗の間も与えずに抱え込んで後頭部を抑える。

「がく……っ」

「カイト殿、お赦しを…」

「んん…………っ」

やわらかに呼びながら、がくぽは再び、カイトのくちびるを塞いだ。

今度は触れるだけでなく、開いたくちびるから舌が伸びて、カイトのくちびるを舐める。

水ぶくれが出来そうな熱さに、カイトは半ば苦しさからくちびるを開いた。

そこに、がくぽは躊躇うこともなく舌を差しこむ。

「ん………っんんぅ…………っふ、ん………っ」

口の中を弄られて、カイトはがくぽに縋りつく。震える手はがくぽを突き離すことなく、むしろ強請るように着物を引いた。

「ん………んん………………っ」

長くしつこい口づけに、縋りつくカイトの体から力が抜け、とうとう手が落ちる。

ぐったりとしたカイトの全体重が腕に掛かったことを確認して、がくぽはくちびるを離した。

「ぁ………」

いくら闇に馴れていても、がくぽにはカイトの肌色や、薄絹の下の体の状態は見えない。

なにより、がくぽの体も――

そのことに安堵しながら、がくぽは意識も定かでなく、力なく崩れるカイトの髪をやさしく梳いた。

「カイト殿…………私から、お願いしようと、思っていました」

「………」

長い口づけの余韻で、がくぽの言葉もわずかに舌足らずだ。

ひどく甘さが増した声が、ぼんやりと霞むカイトの意識をやわらかに包みこむ。

震える手を伸ばしたカイトに、がくぽは見えないとは思いつつ、微笑みかけた。

「意地を張ってひとり寝をしましたが、やはり寒さは堪えます。あなたのぬくもりを抱いて、共に寝たい」

「………」

落とされる言葉に、潤む瞳がゆるやかに見張られる。

がくぽはカイトの頭を胸に抱いて、宥めるように髪を梳き続けた。

「………どうか、我が儘ばかり言う私を、赦してください。あなたと寝たくないと言ったばかりなのに、やはり共寝がいいなどと、我が儘身勝手なことばかり」

「………がくぽ」

カイトは口を開いたが、言葉がうまく出ない。

自分がなにを言いたいのかもわからないし、未だに痺れきって、舌が動かないのだ。

結局、縋りつく指に力を込めただけのカイトを、がくぽもまた、強く抱き返した。

それだけで、カイトは満たされる思いがする。

「………ん」

すんと洟を啜ったカイトを、がくぽはますます強く抱いた。

力が強くて痛くて、けれどカイトは笑う。

痛いと思える。熱くて、火傷をするかもしれないと。

その危惧はなにより、がくぽが触れてくれている証左。

「――呆れましたかこんな我が儘ばかり言って、あなたを振り回す私が、赦せませんか?」

「っがくっ」

静かに落ちた問いに、カイトは慌てて身を跳ね起こした。

「そんなことっ!」

素直にカイトを離したがくぽは、掴みかかられて微笑みを返す。

人間の目とは違う。

カイトの目には、がくぽが浮かべた微笑みがつぶさに映って、息を呑んで見入った。

「私は、あなたのやさしさにいつも、甘えてしまいます。だからたまに、怒ってやってください。そうそう身勝手ばかり言うなと」

「そんなの」

戸惑って手を緩めたカイトへ、がくぽは微笑んだまま、首を横に振った。

「人間は、愚かな生き物です。怒ってもらわなければ、道を間違えていることに気がつけない。誰よりも守りたいと思うあなたを、苦しめる道を選んでいることに気がつかないまま進むのは、私にとってはこれ以上なく恐ろしい――」

表情は微笑みでも、瞳が浮かべる色は真摯で、声音はあまりに真っ直ぐだった。

カイトはひたすらに見入って、がくぽの言葉を聞く。

固まるカイトへ、がくぽは手を伸ばした。

「あなたを苦しめる道を進んでいたことに、気がつけなかった。その結果としてあなたを失うことが、なによりいちばん、私にとっては辛く厳しいことです。だからどうか、叱ってやってください。あなたがどんなに厭でも、私を救うと思って」

「………」

招かれるままに大人しく、カイトはがくぽの胸の中に戻った。

心音が聞こえる。

少しだけ、早い。

体温が高い――熱があるほどでは、ないけれど。

冷えたと言っていたから、気をつけてあげないと、風邪を引くかもしれない。

人間は繊細で、びっくりするくらいに脆弱だ。

神を北の果てに追いやって地上の覇権を握ったというのに、個々人はあまりにあっさりと死んでしまう。

恨もうにも、恨むことも出来ないほどに、あまりにも人間は淡く儚い――

縋りついていた手を、カイトは己の口元にやった。

はあっと、息を吹きかける。

元から上げていた体温をもう少しだけ上げて、がくぽに擦りついた。

がくぽはさらにきつくカイトの体を抱きこんで、肩口に顔を埋める。

「………あたたかい」

安堵の含まれるつぶやきに、カイトは瞳を閉じた。

荒れ狂っていた心が静かで、あれほど厭うていた自分ががくぽの役に立っているのだと思うと、なにもかもを赦せる気になる。

体温を上げたことで腹が軽く疼いたが、構うことはなく、カイトはひたすらにがくぽの腕の中を堪能した。