ぺたりと野辺に座り、カイトはぼんやりと景色を眺める。

昨日の冷たい雨が嘘のような、春だとしても珍しいほどにきれいな快晴だ。

しょちぴるり

第2部-第18話

雨の名残りがないのは、ある意味当然だ。

雨を呼んだのが、カイトだからだ。そうと意識したわけではないが、荒れる心が雨雲を呼んだ。

――その冷たい雨の中、がくぽに抱かれた。

カイトを何度も極みに落とした男は、己もまた、何度も極みに達するまで剣を抜く気がなかったようだ。

気がついたときには絶望の雨は止んで、雲も去っていた。

春の雨は、冬の雪と変わらないほどに冷たく厳しい。

幾度も幾度も攻め立てられたせいで意識を朦朧とさせながらも、カイトは懸命に<精霊>を呼び、濡れた自分とがくぽから、余計な水分を取り去った。

気が利いていると言えばいいのか、<精霊>は水のみならず、カイトとがくぽの体を汚していた諸々の体液もすべて、取り去っていった。

――歩けますか?

乾いた服と髪に、がくぽはようやく理性を取り戻したように見えた。

ぐったりして、瞳を虚ろにしているカイトを丁寧に抱き上げると、住処に連れ帰った。

そう、理性を取り戻したように見えた――が、起き上がる力もないほどに疲弊しきったカイトを寝台に横たえると、がくぽはそこでまた。

「…………っ」

カイトはほわりと薄く染まり、そっと顔を上げて野辺を見た。

冷たい雨に打たれたことで心配だったのだが、がくぽは風邪を引くこともなく、元気いっぱいに動き回っている。

カイトは未だに熱に浮かされたように思考がはっきりせず、体の節々も痛いのだが、がくぽは平然としたものだ。

いや――もしかしたら、森に来てからもっとも元気で、溌剌としているかもしれない。

今日も外へ行くと言ったものの、満足に歩けないカイトを、がくぽは丁寧に抱いて運んでくれた。

そんなことは気恥ずかしいし、なにより、『歩き方』がそもそも、守護術のひとつとなっているカイトだ。運ばれたのでは、意味がない。

それでも、足がもつれてうまく歩けもせず――

がくぽは腰に剣を提げて野辺に立ち、なにかを探すように歩いている。

昨日、突然に鍛錬を中止させた。なにか落し物でもしたのかもしれない。

ぼんやりと考えながら、カイトの瞳はがくぽを追い続ける。

来て欲しい。

痛烈に、思った。

自分だけ、見ていて欲しい。

「………がくぽ」

呼んだ。小さなちいさな声――風に乗せることも出来ないほどに、かそけき。

カイトの気配が感じ取れないのが悩みなのだと、常々言うがくぽは、ふと立ち止まった。くるりと踵を返すと、すたすたと大股歩きで、カイトの元へ向かってくる。

「………っ」

通じた、のか。

瞳を見開くカイトの前に来たがくぽは、微笑んで膝をついた。

「辛くなど、ありませんか?」

「………ん、うん」

訊かれて、カイトはほとんど反射で、こくんと頷いた。

がくぽは笑みを浮かべたまま、ごく自然と手を伸ばす。

頬を撫でられる。

「っっ」

「………」

思った瞬間に体が竦んで、カイトはきゅっと瞳を閉じた。

がくぽの手は、熱が伝えられても直接に触れる寸前で止まり、ややして静かに引いていく。

引かなくていい。

叫ぶ。

さわって!

求める――心だけが。

実際には言葉にならず、カイトの体は強張って、まるでがくぽを拒絶しているようだ。

せっかく、がくぽから触れてくれるようになったのに――自分から、抱きしめてくれるようになったのに。

こんなことでは誤解して、また触れてくれなくなってしまう。ぎゅってしてと命令しないと、抱きしめてもくれなくなってしまう。

焦るのに、焦れば焦るほど、カイトの体も心も統御を失う。

言葉は形にならず、空転して発されずに終わり、気まずい空気だけが残る。

朝目覚めた瞬間から、ずっとこんなことが続いている。

カイトがそろそろなんとかしなければまずいと焦っても、一向に改善出来ない。

がくぽはまったく、いつも通りなのに――

「カイト殿」

内心、焦りに満ちて狼狽えているカイトに、がくぽが掛ける声はあくまでもやさしい。いつものとおり、労わりに満ちている。

「次は、――」

「?」

言いかけて、がくぽはふっと顔を上げた。

やわらかな空気が霧散して、カイトも慌てて顔を上げる。

がくぽが睨むのは、カイトの背後、森の中だ。

「………メイコ、殿」

「めーちゃん?」

硬い声に振り向いて、カイトはわずかにほっとした。

森の中から現れたのは、身に纏う色も中身も火のような姉、メイコだ。使い古した矢筒を背負ったその足取りは軽く、今日は機嫌も悪そうに見えない。

そして少なくとも、メイコだ――キヨテルではない。

今、幼馴染み同士によって醸し出されるあの疎外感を味わったら、さすがにカイトも心理的にどん底に落ちそうな気がする。

現れたのがメイコで、本気で安堵した。

和むカイトとは対照的に、がくぽのほうは気配を硬くし、わずかに体を退く。

そう警戒しなくてもとカイトはがくぽを見たが、すぐに、仕方のないことかもしれないと思い直した――メイコときたら、がくぽと会うたびに『いじめて』いる。

傷を踏んだり、踏まないまでも殴りたそうにしたり、厳しいことを言ったり。

いい思い出がないのだから、警戒するのも無理からぬことだ。

間近に来た姉へ、カイトはがくぽの分も微笑みかけた。

「おはよ、めーちゃ……」

「荒れたわね」

「………」

開口一番に言われて、カイトはきゅっと口を噤んだ。浮かべた笑みも強張り、消える。

言いたいことは、明らかだ――がくぽに嫌われたかもしれないと思って、カイトの心は絶望に染まり、あっさりと『滅び』に傾いた。

少しでも傾けば、封じられたうたは飛び出したがる。

飛び出したい不吉のうたの予兆は、森を怯えさせ、狂わせる。

轟々と恐怖に哭く<森>の影響から、そこに棲む神が逃れられようはずもない。

「………っで、でも……っ」

ぶたれるのか、それとも蹴られるのか、さもなければもっとひどいお仕置きをされるのか。

怯えて身を引いたカイトを視界に捉え、忠実な守り役がさっとメイコとの間に割り入った。

「………」

視界を覆う広い背中を見つめ、カイトは無意識に腹へと手を当てた。

警戒する二人を見下ろすメイコのほうは、今日に関して言えば上機嫌のようだった。

きつく睨み上げないまでも、反抗的な目で見据えてくる守り役と、庇う背中を蕩けた瞳で見つめる弟とを見比べ、性質の悪い笑みでくちびるを裂く。

「あたしは済んだことは、四の五のいわないの」

「えー……」

思わず素直に不審を露わにすると、メイコは機嫌よく瞳を細めた――しかし爪が尖ったのが、見えた。

カイトはわずかに仰け反って、手を当てて自分の口を塞ぐ。

「メイコ殿」

「おたのしみだったようね」

「…………」

カイトが『いじめられている』と見たのか、低く声を上げたがくぽへ、メイコは滴るように告げた。

がくぽは黙りこみ、メイコを睨み上げるだけになる。

それでも、威勢がわずかに衰えたことはわかった。なにかしら、弱いところを突かれたらしい。

カイトのほうは、メイコの言う意味がわからない。

「『おたのしみ』?」

首を傾げると、メイコは腰を折って、座るカイトへと屈みこんだ。

庇うがくぽに構うこともなく手を伸ばすと、カイトの肩を軽く弾く。

「みせつけてるじゃない」

「みせつけて………?」

言われる意味がさっぱりわからず、カイトは自分の体を見下ろした。

いつもの通り、身にまとうのは肌の透ける薄絹だ。

今日もそれなのかと、寝台から出るときにがくぽに問われたが、特に考えもせず、頷いた――これを着ろというのは、目の前にいる怖いこわい姉からの厳命だ。

衣装へのこだわりがあるわけでもなし、不便を感じたこともない。

どうして今さらにがくぽがそんなことを問うのかが不思議で、首を傾げた。

冬場は、見ていると寒いと、遠慮しいしい言われたこともあるが、春になった。

そもそも神が外気温に影響されないことも承知しているはずだし、なにが言いたいのかと――

「………?」

改めて己の体を見直し、カイトはさらに首を傾げた。

脱ぐまでもない。

薄絹は、体の線を浮かび上がらせ、肌の色までもうっすらと透かして映す。

その、透かされた肌に――

「メイコ殿」

カイトの姉だということで、気を遣っているのだろう。いつもどこか遠慮気味にメイコと話すがくぽが、珍しくも声を尖らせた。

その違和感を追うことも出来ず、カイトは呆然としていた。

白い肌。

いつもならそこに見えるのは、男である自分にとって意味があるのか、常々疑問に思っている胸の突起だ。それから、浮くあばら。

そこから腰骨へと、ゆるやかに筋が通って――

今日、その白い肌には、赤い『花』が縦横無尽に咲いていた。

がくぽが虫に刺されたときに、そうなっていたのを見たことがある。この虫は刺されると痛痒いのですと、言って――

けれど、カイトは虫に刺されてもそうはならないし、そもそも刺されたこともないが、今のこれは痛くもなく痒くもなく。

なんだこれはと考えながら、カイトは無意識に自分の体を撫でた。

ひとつ、ひとつ――

「………ぁ……」

「カイト、殿」

意識が蘇って、カイトは顔を赤くした。顔だけではない。肌のすべてが、薄紅に染まっていく。

そうなっても埋もれることなく、いっそう鮮やかに浮かび上がる、その花びら、は。

昨日、がくぽがくちびるを落とした、そこを正確に――

「ぁ………っあ………っ!!」

蘇った記憶にカイトは真っ赤になって、わなわなと震えた。

がくぽは、カイトの体に隈なく触れた。それこそ足先、爪先に至るまで。

それは大概、熱さと痺れを伴って灼き爛れるような心地だったけれど、その中でたまに、牙が突き刺さるような痛みを与えられることがあった。

肌が吸い上げられて、瞬間的に牙を打ちこまれるような、微細な痛み。

痛みと共にあった、紛れもない――

「ぁ……っあ……っっ」

「カイト殿っ」

カイトは真っ赤になるだけで治まらず、震えながら自分の体を抱いた。

がくぽのくちびるが、肌を辿った証。

胸から腹、いや、足に至るまで、満遍なく散らされた、歪ツな花びら。

カイトの体を暴き、がくぽが楔を打ち立てた。

その、証左――

それが、誰の目にも明らかに、こんなふうに。

「ぅ……っえ、ひ………っ」

「あら、泣くことないでしょうに!」

狼狽えたあまりに泣き出したカイトに、メイコは楽しげに笑った。

がくぽは一度きっとメイコを睨んでから、カイトへ手を伸ばす。

「カイト殿、だ」

「さわらないで!!」

「っ」

伸ばされた手が熱を与える前に、カイトはかん高い声で叫んでいた。

涙に歪みながら、己の体を抱いてうずくまり、震えて拒絶する。

がくぽの手は中途半端に止まり、表情を空漠が覆っていた。