「……あのですね、麗しの花の神」

「っっ」

唐突にごく間近から声が降って来て、カイトはびくりと顔を上げた。

どこか呆れたような顔のキヨテルが、カイトの前にしゃがんで目線を合わせようとしていた。

がくぽはどうしたのだと、血の気とともに身を引いたところで、キヨテルの姿は掻き消えた。

しょちぴるり

第3部-第5話

「近づくなっっ!!」

「だから、近づかせるなって言っているでしょうがっ愚も過ぎると死にますよ、神威、ほんっとぉに!!」

がくぽの足蹴が目の前を払って行って、カイトは胸を撫で下ろした。

間合いを避けて懐に入りこむことはキヨテルの得意で、もちろん、懐に入らずに相手の背後を取ることも可能だ。

己の身の安全を考えると安心している場合ではないのだが、がくぽになにかあったわけではないらしいとわかって、カイトの表情は和んだ。

そのカイトを背後に庇い、がくぽはきりきりと奥歯を軋らせてキヨテルを睨みつける。

キヨテルは肩を竦め、がくぽに庇われているカイトへ、遠くから目線を合わせた。

「あのですね、麗しの花の神。神威のしあわせを応援するようで、私にとっては血を吐くというよりもはや、脳みそを絞っているくらいに苦痛なのだと察したうえで、話を聞いてください」

「聞く必要はありません!!」

キヨテルの言葉を、がくぽが即座に叩き落とす。

カイトは怒りのあまりに空気を揺らがせるがくぽの背を見つめ、それから少しだけ首を傾げて、キヨテルと視線を合わせた。

幼馴染みの怒気など慣れっこで、まったく気にしないキヨテルは、カイトへ仄かに笑いかける。

「あなたほど、特別な相手を、私は見たことがありませんよ」

「………」

カイトは瞳を瞬かせ、キヨテルと、向かって行きたくてもカイトから離れられずに、ひたすら殺気を噴出させるがくぽの背とを見比べる。

そんなカイトへ、キヨテルの笑みは珍しくもやさしさを伴った。

「この男はね、麗しの花の神――笑わないのですよ。いえ、相手を嘲弄したりすることは、あります。戦術的な意味でね。ですが愛想笑いの類は、一切しないのです。初めに主と仰いだユキさまは、神威に剣を与えたとき、未だ齢三つの幼子でした。誰もが幼子を怯えさせまいと表情を緩めたというのに、この男ときたら、不承不承の仏頂面のまま、剣を拝命したんです」

「余計なことを言うな!」

「がくぽ」

「……っ」

吐き出したがくぽを、カイトが呼ぶ。

キヨテルはいつものように性質の悪い笑みになって、まずいものを突っ込まれた顔で口を噤んだがくぽを見た。

「あなたにとって余計なものが、誰かにとっても余計であるとは限らない。――いい格言ですね!」

「よし、話は終わったな」

「やれやれ、短気な!」

剣を構えたがくぽに、さらに飛び退って距離を開け、キヨテルは手を振る。

「神威は、あなたに笑顔を見せますね。いいえ、常に笑みを浮かべて、あなたを見つめている。そんな相手、私の知る限り、あなただけですよ、麗しの花の神それもまあ気持ち悪いことに、愛想笑いではなく、本心から和んで笑っているこの男が和みきって笑顔を浮かべる日が来るなんて、私は思いませんでした………そのうえ相手を尊重し、礼を取ることが出来るだなんてねいったいどういう手妻を使ったのか、根掘り葉掘り訊きたいところです」

「訊かせるか!!」

がくぽが怒りに任せて叫んだところで、遠く離れていたキヨテルの姿が、陽炎のように揺らいだ。

はっとして身を固くしたがくぽは、すぐに振り返る。

きょとんとしているカイトは、がくぽを見つめていた。

そのカイトの背後、ごく間近から、キヨテルの声が降ってくる。

「そんなこんなでですね、今の神威ってもう、しあわせ無敵状態なんですよ。どう考えてももはや、正攻法だと勝てる要素がありませんので、これからは隠密衆らしく、陰に徹します。卑怯技てんこ盛り♪」

「国に帰れ、貴様!!」

がくぽが怒声を放ち、拳を飛ばす。

カイトが振り返ったときには、キヨテルの姿は陽炎のように揺らいだところだった。

がくぽの拳はもちろん、空を切る。

振り返ったカイトの視界の端に、森の木の枝に立つキヨテルの姿が映った。

「そうは言いますけどね、任を果たせずに帰れないのは、むしろ剣士より隠密衆ですよそこのとこの厳しさは、まさに地獄の悪鬼も絶叫です。私は、なんとしても神を連れ帰る必要がある」

「させるとでも?」

凍りついたがくぽの声に、キヨテルは空を仰いだ。

春の陽気だ。冬の間途切れることなく空を覆っていた重苦しい雲は晴れて、青い空が覗く。

けれどその青さは、どこか白っぽい。

すぐにも冬へと逆戻りしそうな、不安定な青さだ。

がくぽが庇う神が身に宿す青とは、まったく違う――カイトが纏うのは、永遠の青。

失われることのない、生命の根源たる南の海の色。

「――困難さが増したら即方針転換。………が、隠密衆の頭のやわらかいところでしてね、神威」

暗に石頭と罵られたが、がくぽは気にしなかった。それが剣士だ。その生き方しか選べないから、剣士であるともいう。

「他に獲物を定めたか」

「いいのを見つけたんですよ。まだ子供でしてね、だったら『調整』も楽じゃないですかそれにユキさまと年も近ければ、遊び相手にもなれるかもしれない」

「……っ」

がくぽは息を呑んで、キヨテルを見つめた。

珍しくもキヨテルは上の空の風情で、寒さを失わない青空を眺めている。

「………しかしどういうわけか、ここ最近、姿を見かけないのです。冬の間はずっと、私と遊んでいてくれたのですけれどね。そろそろ餌付け成功かなーと思ったところで、逃げられまして。捕まえてやると約束して、果たしてもいないのに……おかげで未だに私は、『鬼』です」

意味不明なことを言って、キヨテルは顔を戻した。

表情を強張らせているがくぽへと笑いかけ、手を振る。

「そういうわけで、ちょっと森の中を探索します。他の神によろしくお伝えください」

「っ!!」

勝手なことを言って消えたキヨテルに、がくぽは一歩、足を踏み出す。

踏み出してから、はたと気がついてカイトを見下ろした。

キヨテルが来たあとは、どうしても不安定になりがちなカイトだ。なにをどう誤解したものか、未だに解けない自分に責があるが――

しかしカイトはいつもとは違って穏やかな顔で、消えたキヨテルのことはもう、こだわりがないようだった。毒を含まないあっさりした声音で、つぶやく。

「むつかしくって、いってることがさっぱり、いっこもわかんない」

「ああ………」

堪え切れずに慨嘆し、がくぽは微妙にカイトから視線を外した。同情したくなどないが、犬猿の幼馴染みに対してそこはかとない憐れみの念が、どうしても湧き上がってしまう。

無邪気かつ無垢なままに人間を叩き落とすことを得意としているカイトはひたすら、訝しそうに首を傾げた。

「それに、子供の神さま……………そんなの、いないのに………もうとっくにみんな、オトナになっちゃったもの。なにとカンチガイしたんだろ」

「………」

がくぽはくちびるを噛んで、惚けているでもなく、本気でつぶやくカイトを見下ろした。

がくぽは、知っている。

子供神は、いる。

神が総意を持って、存在を禁じたという、異端の双ツ神。

異端ゆえに存在を禁じられ、時系から弾き出された、一ツ体に双ツ心と双ツ性、双ツ頭を持つ、幼い少年少女の神――

神の総意で持って存在を禁じたから、神は彼らを見ることはない。聞くことも、話すことも、そして記憶に残しておくことすら――

確かに一ツの体に双ツを詰め込んだ存在など、異端ではあるだろう。

けれど、あんな幼い存在を孤独の淵に追いやらねばならないほど、禁忌なのか。

誰とも触れ合えず、誰とも関われず、それはもう、いくら無垢に生まれたとしても、歪めと言っているも同然だ。

体を撓めて、狭い箱に詰め込んで生育するような、残酷なやり方。

「………っ」

「……がくぽ?」

激情を堪えるがくぽを、カイトは無垢な瞳で見上げる。

神の総意は人間であるがくぽにとっては理解不能で、時として吐き気を禁じ得ない。

それでも決定を下した神のひと柱であるカイトを見て、愛おしいと思う気持ちは尽きず、枯れることもないから、がくぽはすべての感情を胸に仕舞う。

「………すみません。少しだけ、離れます」

「がくぽん……っ」

屈んだがくぽにくちびるを塞がれ、カイトはぴくんと震える。

この体を今すぐ暴きたい欲求に駆られながら離れて、がくぽは微笑んだ。

カイトを見つめれば、自然と笑みが浮かぶ。己をなにひとつとして偽ることもなく、ただカイトに受け入れられたいと願う心ゆえに。

「アレがなにを誤解しているにしても、迷惑を掛けずには済まないでしょう。メイコ殿に、進言………注意するよう、言ってきます」

「めーちゃんそれなら………んっふ」

がくぽはなにか言いかけるカイトのくちびるをもう一度塞ぎ、絡めた舌から唾液を啜り上げた。口の中に甘い薄荷の香りが広がり、鼻腔を通って胸を透かせる。

さすがに精液は薄荷の香りがしなかったが、唾液はどうしても薄荷の香りを残している。

舌だけ抜いて触れ合ったまま、がくぽはごく間近で微笑んだ。近過ぎて見えないだろうとは思いつつも、胸に募るのは愛しさとやさしくしたい思いだけだから、構うことなく微笑む。

一瞬荒れた心も、落ち着いた。

カイト以上に、自分に必要なものも、考えるべき相手もいない。

そうとわかっていても、がくぽはカイトから離れた。

「ご加護を」

頬を撫でられて、カイトは瞳を細め、頷く。

「ん。ここに、いるから。はやく、帰ってきてね?」

「………………………………………はい」

押し倒してからでも良くないか。

素直過ぎる自分の本能を罵倒しつつ、がくぽはカイトに背を向け、走り出した。