走り去るがくぽを見送って、カイトは無意識に、自分の腹に手を当てた。

なにがあるわけではない。がくぽとキヨテルとの関係の誤解も解けていない。腹には蟠る思いもある。

けれど、それ以上になにか――なぜかひどく恋しい気持ちがあって、カイトは腹を撫でた。

しょちぴるり

第3部-第7話

「まるで、子を孕んだ女性のような所作ですね」

「っ!」

唐突に声が降って来て、カイトは驚いて顔を上げた。

ごく間近に、森の中に消え去ったはずのキヨテルがいる。

緊張感もない、いつもの姿勢で立つキヨテルは、腹を抱くカイトを呆れたように見下ろした。

「あなたは知らないでしょうけれどね。そうやって、思い溢れる瞳で見つめながら腹を撫でさするのは、人間の妊婦がよく取る態度なのですよ」

「……………………………………なんで」

ようやく言葉になったカイトに、キヨテルはあまりいい感じのしない笑みを浮かべて、しゃがみこんだ。

ますます近づいた顔に、カイトは仰け反る。

わずかに後ろににじって、さらに距離を開けた。

しかし、構うキヨテルではない。離れられた分の距離はきっちり詰めて、カイトへと半ば伸し掛かるような体勢になった。

「いえ、適当に森の中を彷徨おうと思っていたのですがね。手近な知り合いから情報を集めるのを、忘れていたことに気がつきまして」

「……………………しりあい?」

キヨテルの言葉に、カイトはひどく胡乱げにつぶやいた。

惚けていたりするのではなく、本気で――

「あの、まさか、……………たかが知り合いであることまで、否定しはしない、……ですよね?」

「………………」

おそるおそると放たれたキヨテルの問いに、カイトはすっと、視線を横に流した。

「………やれやれです」

ナナメを向いたカイトに、キヨテルは天を仰ぐ。

おそらく自業自得だが、穏やかで和やかな性格だと思っていた麗しの花の神は、それなりにきつさを秘めている。

がくぽがいると蕩けきっているために、誤魔化されるが――

「――子供神なんて、いないよ」

「………」

天を仰ぐキヨテルに視線を戻したカイトは、ぽつりと言う。

「なにをカンチガイしているのか知らないけど、ここのところ、だれもあたらしいいのちを、生んでない。どう見えてても、みんな、オトナだよ」

「………そうらしいですね」

命を宿す南海の瞳に見据えられて、キヨテルは再び天を仰いだ。今度は慨嘆ではない。

ふっと顔を戻すと、感情の窺えない表情で見つめるカイトへと、笑ってみせる。

「だからこそ、好都合というものではありませんか存在しないものなら、貰っても構わないということでしょうあなた方の心も痛まず、私の懐も命も潤う。まさに一石二鳥の良案とは、このこと」

「………」

微笑んで言われたことに、カイトは困惑して眉をひそめた。

いないものを、どうやって連れて行くというのだろう。

いないということは――

「………でも、いないのに」

「ええ。あなた方にとっては、ね」

重ねて言ったカイトに、キヨテルは穏やかに頷いた。その瞳が、森の中を軽く見やる。

「――泡を食って、駆けて行きましたね。まさか現時点でもって麗しの花の神の傍を離れるとは、いつものアレらしくもない。おそらく、心当たりがあるんでしょう」

「………がくぽ?」

つぶやきを聞いたカイトの表情が、強張った。腹を押さえていた手に、ぎゅっと力が込められる。

冷えるな、ひえるな――

腹に溜まる幸福を凍えさせまいと、カイトは懸命にキヨテルを見つめた。

自分にはわからない、がくぽの機微を読む。

そうできるのはなにより、繋がりが深い証拠。

けれど、さっき言ってもいた――カイトは、がくぽの特別だと。

がくぽならば、隠密衆の言葉を信じるなどどうかしていると言うだろうが、カイトは神だ――言葉を、耳だけで聞いているわけではない。

そこに含む思いを、必ず感じ取っている。

キヨテルは、嘘を言っていなかった――がくぽの揺らいだ気配も、そうと言っている。

なんらかの形で、がくぽはカイトを特別と思っている。それがどういう特別なのか、未だカイトに理解が及ばないだけで。

だから――だから。

「訊きたかったのですよ、神威の麗しき花の神」

「……」

腹を押さえて激情を堪えるカイトの瞳を、キヨテルはまじめに覗きこんだ。

「いつもいつも、あなたは神威と共に在って、まともに言葉を交わすことも出来ませんからね――いい機会ですから、答えてください」

「なに?」

望まれれば、叶える。

訊かれたなら、答える。

それが、神だ。

カイトという、願い叶える神だ。

ほとんど反射で訊き返したカイトに、キヨテルは軽く首を傾げた。

「――神威がね、あなたのことを気に入るのは、わかるのですよ。とにかくね、神威の理想は高嶺で、有り得ないものでした」

「……?」

「それでも、剣士が一度そうと心に描いたなら、折れることも曲げることも出来ません。ですから私は、ああこいつは一生涯、誰とも生を分け合う気がないのだと、こいつは一生涯、誰にも膝を折らず、心を与えずに生きていくつもりなのだと、思っていたのです。――あなたを見るまではね」

「………」

キヨテルの言葉は特別難しいものではなかったが、易しいわけでもない。

眉をひそめるカイトに、キヨテルは笑った。

「あなたは神威が抱いた、有り得ないまでの高嶺な理想を、あまりに自然と体現している。さすがは神です」

「………うれしくない……?」

褒められたようだが、カイトは微妙な表情でつぶやいた。

相手がキヨテルだからなのか、そこに含まれる邪気を感じるからなのか、うれしさが胸にこみ上げない。

つれないカイトの返答に一度、がくりと肩を落としてからすぐに復活し、キヨテルは身を乗り出した。

そうでなくても伸し掛かり気味だったカイトを、ほとんど押し倒しているような形になる。

「わからないのは、あなたです。あなたは神威のなにをそうまで、気に入っているのです失われる恐怖に、世界の滅びを願うほど」

「………」

カイトは瞳を見開き、間近にあるキヨテルの瞳を見つめた。

揺らぐこともない、茶化すこともない。

真剣で、強い色。

あたたかさはないけれど、そこには冷たさもない――

「まさか人間の女性のように、アレの美貌に落とされたとは、言わないでしょう?」

問い。

落ちる――

墜ちる。

堕ちる。

カイトが初めてがくぽを見たとき、彼はほとんど、肉塊と言って差し支えのない状態だった。

ぼろぼろとはよく言ったものだが、息があるのが不思議な状態だったのだ。

それでも生きているから、訊いた。

――いきたい?

人間には不可解でも、力ある神とはそういうものだ。

敵対し、一瞬後には自分の喉笛を噛み切るかもしれない相手であっても、己の力と役目に基づいて、問いを落とす。

カイトもまた、命繋ぐ神の責務として、問いを落とした。

――いきたい?

それまで、問いを最後まで答えきることなく、尽きると思われていた、いのちが――

魂が、音を立てて、炎を巻き返した。

吹き出した、風。

吹き上げた、熱。

カイトの身を捲いた、激しい想い。

あまりの熱に体も心も爛れて蕩け落ち――繋がれた。

息を吹き返し、燃え盛って立ち上がった炎に。

炎纏う、いのち。

魂。

轟と叫んだ。

逝けというなら逝く。

行けというなら行く。

生けというなら――

あなたは、わたしに、なにをのぞむ。

「………いろ」

「え?」

ぽつりとつぶやいたカイトに、キヨテルは瞳を瞬かせた。

カイトは伏せていた瞳を上げ、キヨテルを見つめる。

その顔が、陶然と微笑んだ。

「いろが、すき。いろをみたときに――好きになった。色をみるたびに、好きになった。おれは、がくぽの、色が好き。きれいな、きれいな――あの、色が」

「………色?」

訝しげに、キヨテルはくり返す。

思い返す――幼馴染みが、それほど特別な色を纏っていた記憶はない。

美貌こそ並外れていたが、際立たせるような色など――

見下ろすカイトは、これまでの険しさが嘘のように、幸福を浮かべてキヨテルを見つめている。

その瞳は、南の海の青。

その身が宿す、永遠のいのちの色。

「――ま、神ですからね」

キヨテルはその一言で、理解の及ばないカイトの答えに決着をつけた。

「見え方が違うのでしょう――感じ方も」

つぶやいて、立ち上がる。

警戒する様子もないカイトに、少しだけ呆れたようにため息をついた。

「――やれやれ、まだ神威は現れませんか。どうしましょう、ここは欲をかいて、あなたを連れ去るべきでしょうかね?」

「おれ?」

拐す相手に相談を持ちかけたキヨテルに、カイトはぱちぱちと瞳を瞬かせる。

自分を指差して首を傾げたカイトに、キヨテルは善良そのものの顔で微笑んだ。

「ええ、あなたです。そもそも当初目的は、あなたでしたしね。神威が無敵状態に入ったので別の手を探しましたが、こうして機会が巡って来たなら、別にそれはそれで構わない。――というのが、隠密衆の柔軟なところなのです」

ここにいない相手をわざわざ石頭と罵って、キヨテルはカイトへと手を差し伸べた。

「いかがです人間の世界に行って、首輪をされて飼われませんか?」

「………」

カイトは瞳を瞬かせて、差し出されたキヨテルの手を見る。

さらに首を傾げると、不可解さを隠しもせずに、キヨテルに問いを放った。

「おれを、連れてくのがくぽにナイショで?」

「………ぅーわーあ」

キヨテルはぶるりと震えて、小さく呻いた。

差し出した手はそのままに、天を仰ぐ。

「悪鬼もかわいくて頬ずりしたくなるような形相で、地獄の果てまでしつこくねちっこく諦めることなく追いかけてくる絵が、ごく当たり前のように浮かびましたよ。まったくもって、本当にうんざりしますね、アレには!!」