「ど、うして?!」

寝台に座らせられたカイトは、傍らの床に膝をついて見上げてくるがくぽへ叫ぶ。

「どうして、そうなるの?!」

しょちぴるり

第3部-第14話

その瞳には、涙すら浮かんでいた。

理不尽だ、と。

そんなような思いだけが、心に渦巻いていた。

叫ばれたがくぽのほうは、表情を苦渋に歪めている。歪めてはいても、くちびるには幼子をあやすような笑みを浮かべて、カイトを見つめていた。

花色の瞳には愛おしさが溢れて、カイトのことを好きだと、絶え間なく告げているように見えるのに――

「どうして、もう、さわらないなんて、いうの………?!」

とうとうしゃくり上げてぼろりと涙をこぼしたカイトに、床に膝をついたがくぽは手を伸ばした。頬を濡らす涙を掬い、目尻を撫でる。

「触らない、とは申し上げて………言って、いません。今まで通り、寝台に……いっしょに、寝ますし、抱きしめも、します。ただ、体を繋げることだけは、止めようと………」

「やだわかんないっ!!」

穏やかに言い聞かせようとするがくぽに対し、カイトは泣きながら叫ぶ。しゃくり上げ、その咽喉が悲痛に鳴った。

「やだ、どうして………どぉして、そんな………だって、がくぽ、くるしいって…………つらいって……」

「ええ、カイト殿」

もつれる舌で懸命に取り縋るカイトに、がくぽは笑みも刷けなくなって、くちびるを引き結ぶ。

ことの初めは、カイトががくぽに嫌われたと、誤解したことだ。

嫌っていない、欲情が募って苦しいだけだと告げて、強引に体を開いた。

カイトはその後、がくぽが求めるままに体を開いたし、自分から求めてくることすらもあった。

だから、うっかり失念していた――いや、考えないようにしていた。

くちびるを引き結んで激情を抑えこみ、呼吸を整え、出来るだけ心を鎮めると、がくぽは泣き濡れるカイトへ微笑んでみせた。

苦しさを隠しきれない、歪ツな。

「………私が、あなたを愛していることを、どうか疑わないでください。どう振る舞おうとも、私はあなたを愛しています。必ず、誰よりも――比べるものもないほどに」

「っでも」

「ですが、カイト殿。あなたはどうなのです?」

「っ?」

静かに落ちた問いに、カイトは瞳を見開いた。

がくぽが、訊きたくて訊いた問いではないと、わかる。その声の、弱さ。掠れ方。沈んでいく気配。

呆然と見つめるカイトに、がくぽは微笑みを向け続ける。歪ツで、形を崩していても。

「あなたが、私に向けてくださる好意を、疑いはしません。あなたは、私に好意を持っていてくださる。あなたが好意から私に為してくれたすべてのことを、疑いも忘れもしようはずがない」

カイトのことを見つめながら、がくぽの瞳は霞んで、景色を映さなくなっていく。すべての景色が色を失くし、褪せて、意味をなさないものに。

絶対の主――剣を捧げるべき相手だと、見定めた。

剣を捧げ、身命を捧げ、一心に。

あるじじゃないと、カイトはよく叫んだが、別にその形が『主従』であってもなくても、構わないのだ。

剣を捧げる。

それにこそ意味があって、結ぶ関係が主従でも、恋仲でも、夫婦でも、友人でも――なんでも、まったく構わない。

ただ、相手のために剣を振るえれば。

捧げたひとの笑顔のために、幸福のために、剣と成って生きられるなら。

そのひとが笑顔になれるなら、この胸に募る想いも殺そう。

そのひとが幸福になれるなら、この身にいくらでも罪業を背負おう。

それで悔いもなく心から大笑してみせるから、東の剣士は狂っていると、理解出来ないと頭を抱えられる。

主と――剣を捧げると、思い決めた。

見定めた、その相手に。

疑念を、ぶつける。

人間ならば誰でもある当たり前の行為が、東の剣士にとっては自殺行為に等しかった。

呼吸は止まらず、心の臓が動いていても、心が死ぬ。

世界が意味を失って、輝きを消し、褪せて枯れ――

「ですが、今一度。考えてください。その『好意』は、体を繋げるほどの、繋げる必要のある、好意ですか私が求め、願い、苦しむから、それゆえに神として、応えた――そうではなく、『あなた』が求め、願い、欲して繋げたい、繋げる必要があるものなのですか?」

「え……………え?………」

重ねられるがくぽの問いに、カイトの涙は止まった。ただひたすらに、呆然とがくぽに見入る。

見つめる先で、がくぽの瞳が光を失っていくのが、わかる。瞳だけではない、体を包むように轟々と盛っていた命の炎が、逆巻く熱風が――

「が、くぽ………」

「考えて、ください――どうか、カイト殿。御身大事に、いちばんに。私の願いを叶えるのではなく、私の欲求を満たすのではなく、御身のこと第一に。どうか…………どうか」

言いながら、がくぽは項垂れていく。カイトは反射でその頭を抱き寄せ、戦慄くくちびるで吐き出した。

「わ、わかんない……………がくぽ、わかんない………むつかしい……………なに、なにいってるか、わかんない………………!」

こぼれる声は悲痛に掠れ、震えていた。

腹に頭を抱きこまれたがくぽは、小さく笑みを刷く。

そうかもしれない。がくぽのほうも手一杯で、カイトにもわかる易しい言葉を選ぶ余裕がない――もう、思いつかない。

抱きしめられる。

掻き抱かれて、きつく締め上げられる。

必要だと、全身で叫ばれている心地に浸った。

閉じていく世界が、褪せていく色が、それだけでいいと思う。

体など、二次的なものだ。カイトが存在し続けること――なにものにも煩わされることなく、思うが儘に野辺を歩き、うたい、踊り。

時として獣や魚、草木と戯れ、小さな命を掬い上げ――

その傍らに存在を赦されるなら、それでいい。それだけでいい。

欲深に、ものを望み過ぎた。

カイトの体に、神の禁忌に触れる痣を刻んだのは、がくぽの堪えきれなかった欲だ。

わるいものではないと、言われた。

いいものだとは言い切れない、と。

カイトはそれで、良しとした。

わるいものじゃないなら、いいじゃない、と。

がくぽはそうまで、割り切れない。自分の体に、変調を来し続けていることもある。それは不快な変化ではないし、おそらく能力の底上げを図っている。

神であるカイトのことを守るために、人間である自分には、力などいくらあっても足らない。いくらあってもいい。

自分の変化はだから、受け入れる。受け止める。以降にそれが命を奪う原因と化そうとも、恨みはしない。自分の選択であり、決定だ。

しかし、カイトは――

カイトは、望んだだろうか。

いつもいつも、がくぽの心にはそれが引っかかっていた。

体を求められて、強請られて、だから良しとして、目を瞑って来た。

目を瞑って、問題から顔を背けて。

好きだとは、言われた。

嫌わないで、とも。

嫌わないでくれるなら、なんでもすると――

そこまで思われて、疑念を抱くのもどうかしている。

どうかしているが――その『好き』は、体を繋げたい、情を交わしたい、『好き』なのか。

嫌わないで欲しいのは、体を繋げたい、情を交わしたい相手だから、なのか。

無邪気で、無垢。

それが、カイトだ。

身に纏う薄絹は、どこまでも扇情的に男を煽りながら、本人は気が抜けるのを通り越して、詐欺だと叫びたくなるほどに、幼い。

その『好き』は――

「…………が、くぽ……がくぽ、ね…………わかんない。わかんないよ………むつかしい……………むつかしいの…………むつかしくって、いってること、わかんないの………」

「………」

咽びながら求める声に、がくぽは抱かれたまま、怠い瞼を下ろした。肌に触れれば、かすかに薄荷が香る。

胸が透くのに、甘く満たす。

蘇る郷愁――願いたくても、口に出せなかった、幼い心。

切なく痛む、その痛みをも抱えて想いを満たす、甘いあまい薄荷水。

痛みで、呼吸が痞える。

思考が閊えて、体に力が入らない。

「………………あなたが、好きです、カイト殿。おそらく、初めに出会った――あなたが、私に、問いを落とした、そのときに。訊いてくださった、そのときに――」

神獣との戦いに敗れて転がったがくぽは、虫の息だった。いや、もしかしたらもう、呼吸も止まっていたのかもしれない。

だからカイトは、訊いた。

――しんでるの?

問いに、答えられなかった。

咽喉が潰れているということもあったが、がくぽには自分でその答えがわからなかったのだ。

生きているのか、死んでいるのか――ずっと、もうずっと、神獣に倒される前から、わからなかった。

得られない、主。

剣を捧げる相手。

無闇と振るう剣は、血を吸って重くなり――

生きているのか、妄執の中に死者と成り果て、人の世に仇なしているだけなのか。

判然としないまま、禁域である北の森に足を踏み入れた。

――いたい?

痛い。痛くない、いたい、いたくない――

なにも答えられないがくぽに落とされた、最後の問い。

――いきたい?

その瞬間、これまで狂おしく求め求めて得られなかった答えが、得られたと思った。

主を持たないままにイクサ場に生き、長年剣を振るってきたがくぽだ。国にそういう剣士の存在は珍しくとも、イクサ場にならば珍しくはない。

そもそもろくに国に帰らずイクサ場に生きるのは、見つけられない主をイクサの中に探す剣士たちばかりだからだ。

しかし数年前、がくぽは家の事情でやむを得ず、主を持つ必要が生じた。

初めて剣を捧げ、膝をついて拝命した東の国の幼い公主は、決まり通りにがくぽに告げた。

――妾が為に、生きて行きて逝け。息尽きるその時まで。

ちがうと、思ったのだ。そこで。

彼女が幼いとか、言葉が決まり通りであったとか、そういうことではなく――

ちがう、と。

これはちがう、ちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがう……………――

主がために、生きて行きて逝くのが、剣士だ。東の剣士の望みであり、最上の命題だ。

だというのに、望むがままに告げられた、その言葉が、違った。

違うとしか、思えなかった。

そうではない、そうではなく――

思いながらも、確と説明できない感覚と感情に、惑乱し、混乱し、気を狂わせて放浪し、彷徨し、その果てに。

落ちた、問い。

――いきたい?

訊いて欲しかったのだと、悟った。おまえの頭で考えて、自ら答えを出せと。

いきたいのか――

生きたいのか。

行きたいのか。

逝きたいのか。

息尽きるそのときまで、我が為、己が為に、生きて行きて逝きたいのか。

「……………あなたが、好きです、カイト殿。好きです…………好きです。あなただけが、あなたが、あなたのことが、…………あなたを、好きです、カイト殿」

ささやきながらがくぽのくちびるは力なく笑みを刷き、抱えこまれたカイトの腹にそっと擦りついた。