疑問があった。些細な、ほんの小さな。

気がつくと指に刺さっていた、そんな程度の棘のような。

わずかで、微細で、けれど痛い。

『悪しき』とは、なんだ?

しょちぴるり

第4部-第11話

――冥府の女王が、命じるものである。

たまごの誕生に際し、冥府を総べる女王、すなわちすべての『不吉』を配下とする神が、祝福を与えた。

新しいいのちが無事に生まれるまで、如何なる災厄も疫禍も、このたまごに触れることがないようにと。

すべての悪しきものが、たまごに害を与えることなかれ、と。

親として、がくぽもカイトも歓んだ。これ以上ない、祝福だからだ。

しかしがくぽの心には、指に刺さった棘にも似た、小さなちいさな疑問があった。

『悪しき』とは、なんだ?

冥府の女王は、己を不吉そのものと号した。

不吉は、悪しきと言い換えられる。ならば彼女は悪しきものであり、たまごに触れられないだろう。

たまごを守るために、これ以上ない祝福を与えてくれた善意の神が、その祝福によりたまごに触れられない。

父親であるがくぽは、日常的にたまごに触れる。

常に抱いているのはカイトだが、そのカイトを抱えたおりや、用事によってはおくるみごと、完全に受け取って抱き、あやす。

がくぽはイクサに生涯のほとんどを費やした、剣士だ。

腰に差した剣で打ち倒した、斬り伏せた、吸い上げた命は、敵兵のものだけとは限らない。

時として、ただその場を通りがかっただけの隊商、旅人、――もしくは、迷い込んだ無辜の子供。

襲いくる獣の群れを滅ぼしたこともあれば、敵軍に力を与えるイクサ神に――

幾多、数多の罪を犯し、血のにおいが鼻について取れなくなった。

それががくぽだ。

彼はたまごを抱く。悪しきが触れることなかれと、不吉を治める絶対の神によって祝福されたたまごを。

『悪しき』とは、なにか。

なにをもって悪しきと言い、選別し、区別し、弾き、拒むのか――

「っく………っっ!」

世界に轟く『違う』の絶叫に脳髄を絞られながら、がくぽは眩む視界を凝らし、懸命に剣を振るった。

不調で相手を出来るような、甘い相手ではない。

壮絶な怨みに囚われてがくぽと対していながら、その命を奪うことに固執するような性格でもない。

いくつか掲げた目的の、そのうちどれか、もっとも達成が容易いものへ、身軽に思考を切り替える。

軌道の揺らぐ剣を躱し、キヨテルはがくぽの背後に庇われたカイトへと肉薄した。

「っ!」

万事おっとりしたカイトだ。戦いの経験もなく、たとえ相手の動きを見切れても、対処の仕様がない。

がくぽを越えて目の前に立った相手に、びくりと竦んだ。たまごを抱く手に、力が込められる。

けれど咄嗟に逃げを打つことも出来ず、ただ、見つめる――

隠密衆の中でも、若頭を任されるほどの腕を持つキヨテルだ。非戦闘員からの略奪など、赤ん坊の手を捻るよりも容易い。

がくぽが剣を構え直す間もなく、カイトの前に立ったキヨテルはその勢いまま、たまごへと手を伸ばした。

「っぃっ!」

「っっ!」

カイトは咄嗟に体を丸めたが、キヨテルはたまごを奪えるはずだった。どんなに厳重に隠された宝だろうが、スリ取ることは隠密衆の技の基本だ。

しかしキヨテルの手はカイトにすら触れることが出来ないまま、激しい火花と炸裂音とともに弾き飛ばされた。

「つ……っ」

剣を構え直して振り返ったがくぽも、眩い火花の余波を受けて瞬間的に瞳を眇める。

眇めたものの、そこで止まることもない。

火花と炸裂音はおそらく、ミクがたまごに与えた祝福――悪しきもの触れることなかれに従って起こった『禁忌』の反応だ。

祝福はキヨテルを『悪しき』と断じ、触れられる前に弾き飛ばした――

が、効果がいかほどのもので、いつまで続くかもわからない。

眩む目に頼ることはあっさりと捨て、がくぽは瞼を落とすと探った気配に向かって、回転によって重さを増した足蹴を飛ばした。

「っぐっっ!!」

小さく呻く声と、なによりも踵に掛かる重み。

「………っ」

まさか剣士の自分の体技がキヨテルに当たるとは思わなかったがくぽだが、いちいち驚きで止まりもしない。

そのままさらに踵に圧を掛けると、引っかけた相手を容赦なく飛ばした。

素早く体を反すとカイトの前に立ち、ようやく眩みの治まった目を開く。

「っげほっ!」

剣の間合いぎりぎりの地面に、キヨテルが転がって咳き込んでいた。上手く腹に入れられたらしく、顔を歪めて鳩尾を押さえ、うずくまっている。

自分の踵が入ったこともそうだが、うずくまる動きすらも鈍い。火花と炸裂音は、単にキヨテルの干渉を弾いたのみならず、体を痺れさせたらしい。

「カイト殿。ご無事ですか」

「ん、ぅん……っ」

ちらりと後ろを振り返って訊くと、まだたまごを抱えて丸くなったままのカイトが、わずかに顔を上げてがくぽを見た。表情は強張って硬いが、なにかしらの不調を抱えているふうではない。

カイトには、なにも害がなかったようだ。

弾いたのはあくまでも、キヨテルのみ――

――その基準は、なんだ。

仄かに兆す疑問にくちびるを引き結び、がくぽはキヨテルへと向き直った。

世界が叫んでいる。

違うちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがう………………

「っ、やかましいっ、わっ!!」

「がくぽっ?!」

頭を掻き毟り、脳髄を直接に絞り上げ、内腑を掻き混ぜられる。

いっそ頭を開いて神経を引き千切りたい、不快にして耐え難いまでの違和感。

近くにいるのだ。神の総意を持って世界に存在を禁じられた、異端の子供神が。

いるが、今わかるのはその気配、<世界>が狂ったように叫ぶ『違和感』だけだ。野辺全体に走らせた視界に、彼らの姿は捉えられない。

見つかったところでどうなるものでもないが、それにしても今は時が悪い。

主に八つ当たりや、妬みやっかみといった私怨から、仕事に本気になった幼馴染みの対応中だ。

私怨から遊びを排したが、どちらにしろキヨテルはがくぽを倒し、もしくは神を捕えて国へと連れ帰らなければならない。

以前にこぼしていたことがあるが、任務を果たせずに帰れないのは、むしろ隠密衆だ。剣士は情によって酌量されることがあるが、隠密衆は違う。

世界は成功か失敗、完全に二極分化され、曖昧な決着など存在しない。失敗の先にあるのは死の一字で、そこに言い訳の余地もない。

すでにキヨテルは、時間を掛け過ぎている。剣士でありながら、あまりに隠密衆の相手に長けた裏切り者、がくぽの討伐は、幾人もの隠密衆の犠牲の果てにキヨテルへと一任された。

対して生きているのが、キヨテル一人だからだ。

これ以上の犠牲は損益甚だしいとしてキヨテルに一任されたが、それと時間を掛けてもいいこととは別だ。

たとえ手強かろうと、がくぽ一人にかかずらっていれば、その分の任務がこなせずに損益となる。若くして頭目格を務めるほどのキヨテルとなれば、一働きで上げる成果は大きい。

それすべて、がくぽにかかずらうことで、投げることになるのだ。

時間を掛ければ掛けるだけ、いくらがくぽを倒したところで、失敗という評価に繋がる――死という道に。

そろそろどうあっても、キヨテルは本気にならざるを得ない。

がくぽも理解しているが、だからといって首をやれるわけでもない――それこそ、それはそれで、これはこれだ。

「がくぽねえ、いたいの苦しいなんで?!」

「……っ大丈夫、ですっ」

たまごを抱えたまま、カイトはがくぽへ涙目を向ける。その涙は情人を案じるもので、不調のゆえではない。

カイトに異変はないのだ。

がくぽが苛まれ、他の神も襲われたこの感覚――『存在を禁じた』異端の神が、<世界>に入り込んだと警鐘を鳴らす激しい違和感を、カイトは感じない。

それは、悪しきを弾き拒むたまごを抱いているからなのか、それとも別の作用からなのか、判然とはしない。

判然とはしないが、だからといって経験させたい苦しみでもない。

無事ならそれに越したことはないが、そのせいでかえって、この感覚の説明がし難い。

「すみません。危険な目に、遭わせました。次はありません」

「そんなのっ!」

軋る歯の隙間からこぼしたがくぽの唸り声に、カイトは体を起こす。腰も浮かせたが、その体の前にがくぽが立った。

背中からすら圧が吹き出して、ようやく回復して起き上がったキヨテルを見据える。

「………っ」

カイトは腰を戻し、地面に座り直した。たまごを抱く手に、ぎゅっと力を込める。

自分たちの存在が、がくぽの邪魔になっていると思う。思うが、だからこそ迂闊に動けない。

これまで見てきたキヨテルの動き――いくら神ゆえの視覚で見切れても、戦いに不慣れなカイトでは避けることが出来ない。逃げきれず、かえってがくぽの足を引っ張る。

ならばがくぽが動く軸となるべく、意識を分散せずに集中出来るよう、一所に大人しくしているのが、もっとも無難。

非力な自分が恨めしくても、役割というものがある。

がくぽは守り役で、カイトは守られると『信じる』ことが役目――当然守るのだろうと、疑いもせずにいてやることが、なによりもがくぽの力になる。

「………っ」

きゅっとくちびるを噛んだカイトの前で、キヨテルはいつも朗らかさを混ぜている顔を忌々しさだけに歪め、手を振った。

「守護術ですか。まあ、それくらいの対応は取りますよね」

だからといって、臆した様子もない。

がくぽは剣を構え、揺らぐ視界で懸命に相手を睨み据えた。

火花で目が眩んだのとは違う。目を閉じればいいという視界の揺らぎではない。

かえって、目を閉じたほうがまずい。世界が狂ったように叫ぶ違和感に取り込まれ、呑みこまれる。

「す………っふ………っ」

「………」

意識して呼吸法をくり返し、正気を保とうとするがくぽを、キヨテルは眇めた目で観察した。

手強い相手だ。

正攻法でぶつかったなら、決して勝機などない。キヨテルはあくまでも、隠密衆――影から、背後から、策を弄して対するのが正当だ。それでこそ真価を発揮し、最強無比となる。

わかっていても、この男相手には正面からぶつかっていくのは、キヨテルの遊びでもあるし――

「ふん」

鼻を鳴らすと、キヨテルは体から力を抜いた。

どこかで、思い切らなければならない。道が分かれる前から、そもそも決まっていたことだ。

どちらかがはぐれたなら、どちらかが追い、どちらかが――

「………ふん」

もう一度鼻を鳴らすと、キヨテルの姿は陽炎のように揺らいだ。柔らかく揺れて、気配が散じる。

真っ向から殺気や怒気、闘気をぶつけて相手を圧し、押し潰すのが剣士だ。彼らは戦いに際して、その『やる気』を散じさせることは、滅多にない。

隠密衆は違う。あっさりと、『やる気』を失くす。失くしながら、まるで街をぶらつくついでのように、攻撃に転じる。

闘気も含めて相手の姿を構成する剣士の視覚には、相手の体が揺らいで、もしくは消えたように見える。

視覚が闘気を持たない姿を捉え直す、その前に――

「っシっ!」

「ふっ!」

他の相手ならば対応不可能な動きで懐に入り込んだキヨテルに、がくぽは素早く剣を振るって応戦した。

突き出した刃が弾かれ、高い金属音が鳴り響く。剣の上手の一手は重く、弾かれた剣は握っていられずにキヨテルの手を離れ、落ちた。

「………」

痺れている。

剣を落とした手に、キヨテルは冷徹に判断する。

「シっ!」

「ふん!」

深く考える余裕もなく、間断なく振るわれた剣をどうにか避けて飛び退り、幾度もの跳躍をくり返して剣の射程から逃れながら、キヨテルはくちびるを歪める。

たまごに触れようとした手は、激しい火花と炸裂音とともに弾かれた。

同時に全身に、雷にでも打たれたかのような痺れが走った。咄嗟に動けなくなったキヨテルは、体技で己に劣るがくぽの踵を、まともに腹に受けるという屈辱を味わった。

その、痺れ――

未だにしつこく、残っている。

キヨテルは隠密衆だ。中には神学を修めて、簡単な魔法を使う者もいる。しかしキヨテルはそういった手妻に頼らず、体技と薬学、心理学をひたすらに修めて、のし上がった。

だからたまごを守る術がどんなもので、どういった効果を己に及ぼしたのか、正確には図れない。

図れないことには、こだわらない。

こだわらず、図ることの出来る己の体を、冷徹に分析に掛けていく。どの感覚が使えて使えず、どの技が可能で不可能なのか。

今の状態で、目の前の男に勝つすべはあるのか。

――勝機は、ある。

カイトから大きく離れることなく、剣の射程から逃れた相手を追ってこないがくぽに、キヨテルは断じる。

がくぽは守りに徹している。攻撃に夢中になって『主』から離れれば、隠密衆はその隙を逃さない。

カイトから大きく離れず、攻撃しなければ攻撃に転じない。

そのうえ今はなにか、具合も悪いようだ。意識的に呼吸法をくり返して体勢を保っているが、足がふらついている。数多の女性を虜にしたきれいな瞳も顔も、濁りを浮かべて歪んでいる。

突然だ。最初からこうではなかった――

「どうでもいい」

己にすら聞こえない小さな声で吐き捨てると、キヨテルは新しい剣を抜く。全身武器庫は、隠密衆の基本だ。

剣一本飛ばされたところで、なにほどのこともない。

痺れて覚束ない手に剣を握ると、キヨテルはがくぽを見据えたまま、体から力を抜いた。相手へのもろもろの感情をすべて捨てて、足を踏み出す。

陽炎のように、キヨテルの姿が揺らぐ――

「………っ」

剣を構え直したがくぽだが、ふいにその瞳が見張られ、キヨテルから逸れた。

致命的な隙だ。

逃してやる義理もなく、単に『隠密衆』という物体と化したキヨテルは反射で攻撃へと踏み出した。

踏み出しながらも、己に不利な異変の可能性を考え、がくぽの視線の先をちらりと確認する。

「っっ!!」

踏み出した足が無理な制動を掛け、キヨテルの体は止まった。

「リン!!レン!!」

――くちびるから迸った声は隠密衆らしからず、ひどく悲痛に響いた。