クリーム・パイ

突然の夕立に、即応できたのは運が良かった。

ベランダいっぱいに広げた洗濯物を慌てて取りこんで、家じゅう開け放していた窓をちびと、遊びに来ていた信彦とともに閉めて回って。

夕立に即応できたのも、このふたりのおかげだ。外で遊んでいた彼らが、いち早く雨粒に気がつき、パソコンに向かっていた自分を呼んでくれたのだ。

「よっしよし。良い子のおふたりさんには、おにーさんがご褒美をやろう♪」

大量に干した洗濯物を無事に取りこめて、オラトリオは機嫌よくちびっこたちの頭を撫でた。

「きゃー、ごほうびーぃ!」

「やったあ、ごほーびごほーびっ!」

ちびと信彦がぱちんと手を打ち合わせてはしゃぐ。

オラトリオは笑って、ふたりへのご褒美である、ほんの少しグレードアップしたおやつを用意するためキッチンへ回った。冷蔵庫を覗き、たまごと牛乳を取り出す。

「…」

わずかに眉をひそめると、給湯器のスイッチを入れた。バスルームへ行き、蛇口を捻る。

真新しいバスタオルを一枚持ってキッチンに戻り、にわとりさんのタイマーを湯が満杯になる時間にセット。

がしがしと頭を掻き、老けこみそうな深いため息をついて肩を落とした。

「オラトリオー、ご褒美なあにっ」

「パンケーキ、おにーさんすぺさるばーじょんですよん♪」

待ちきれないのか、キッチンに飛びこんできた信彦とちびに、一瞬で態勢を立て直したオラトリオは明るく告げる。

「チョコー、チョコソースですよ、オラトリオおにーさんっ」

「オッケィオッケィ。おにーさん特製すぺさるソースをお見舞いしてあげよう」

「俺おれ、クリームいっぱいホイップクリーム山盛り!」

「ご褒美だからなー。なんでも言うこと聞いちゃうぜ」

ちびっこ二人を足元に纏わりつかせたまま、オラトリオは器用に動き回ってパンケーキの種を用意していく。

フライパンに種を流したところで、にわとりさんがじりりん、と鳴いた。

「わ、なに?」

「あー、信彦。悪ぃ。バスルーム行って、お湯止めてきてもらえるか」

「いーけど」

年の差はかなりあるのだが、とことん仲良しな信彦とちびは連れだってバスルームへ行く。

オラトリオは時計を見て、まだ激しく雨降る外を見て、またため息を零した。

「早く来いよ~、あ~のあほんだらぁ」

小さく罵倒し、ぷつぷつと泡立ってきた種をひっくり返す。

「止めてきたよー」

「きたですよー」

「おう、さーんきゅっ」

連れだってちびっこたちが帰ってきたときには、いつもの「おにーさん」だ。

「でもなんで風呂まだシグナルたち帰って来ないだろ?」

「うう~んふふんまあなー。あ、それより好きな皿出しな。トッピングたっぷりだから、でかめのがいいぞー」

信彦の素朴な疑問に、返答になっていない返答で誤魔化し、気を逸らす。ついでに、フライ返しをマイクにおうたなどもうたうサービス。

コンロ二つにフライパン二つを器用に操って、三人分のパンケーキを手早く焼き上げた。

「信彦はー、ホイップクリーム山盛りに、メープルシロップとフルーツミックス。ちびは特製チョコレートソースとチョコアイストッピング」

「わーーーいっ♪」

「きゃーーーっ☆」

食卓についてフォーク片手に今か今かと待っていたちびっこたちは、こちらもうれしくなるような素直な歓声を上げ、きらきらと瞳を輝かせて目の前に給仕された皿を見た。

「いただきまーすっ」

「よーし、食えっ」

笑ってちびっこたちを見つめたオラトリオだが、すぐさま時計に目をやって渋面になる。

雨は止まない。

「オラトリオ?」

口いっぱいにホットケーキを詰めこんで、信彦が不明瞭な声音でオラトリオを呼んだ。

「オラトリオは食べないのつか、オラトリオ食べるの?」

「ん?」

「三人分焼いたじゃんオラトリオ、甘いもの食べたっけ?」

素朴な疑問をぶつける信彦に、オラトリオは苦笑いを浮かべた。

「やだなー、信彦。それはおかわりですよぅー」

食い意地の張っている末っ子が、口の周りをチョコで真っ黒にして得意げに言う。

オラトリオはわずかに渋面になって、ナプキンを取ると末っ子の顎から滴るチョコレートを拭った。

「違うっつーの。えーとだな」

なんと言って誤魔化そうか。

胡散臭い笑みを浮かべて口を開こうとして、その表情が固まる。暁色の瞳を見開くと、椅子の背に掛けておいたバスタオルを掴んだ。

「ふや?」

「ほえー?」

信彦とちびがきょとんと顔を見合わせた瞬間。

ぴんぽん、と玄関のチャイムが鳴る。オラトリオは風のように玄関へ飛んでいき、誰何もせずに扉を開いた。

「あ、おらとり」

「おっせーよ!」

ずぶ濡れの姿でいつもと変わらぬ調子でおっとりと笑う従兄弟に、オラトリオは不機嫌絶頂でバスタオルを投げつけた。そのまま、大きなからだを家の中に引き込んでがしがしと拭う。

「ちょ、オラトリオ、痛い」

「うるせえ、このすかぽんたんこんだけ雨降ってんのに、傘も差さねえたあどういう了見だ!」

「え、だって、気持ちいいから。ていうか、痛いいたいっ」

全身濡れそぼったオラクルの水気をある程度拭ってしまうと、オラトリオは首根っこを掴んでバスルームに投げ込んだ。

「いいか、ちゃんとあったまるまで出てくんじゃねえぞ首まで浸かれよ!」

「はいはい」

「『はい』は一回!」

小うるさく世話を焼き、オラクルの置き服を用意してやって、キッチンに戻る。

なにをどうしてそうなったのか、口の周りだけでなく顔中チョコレート塗れになった末っ子と、最後の一切れを口に運ぶ信彦が、微妙な空気で出迎えた。

「相変わらずなんだね、オラトリオ…」

「かわりようがねーですよ、オラトリオおにーさんは」

「なんの話かな?」

微妙な空気を威圧感でねじ伏せ、オラトリオはちびを小脇に抱えてシンクに持って行った。

「ほれ、顔洗え。なにをどうするとこうなるのかおにーさんに教えてみ」

「チョコアイスの中に顔突っこんで、べろべろしたんだよ、ちび」

「さいごのひとしずくまできれいになめとるしょぞんであります!」

だいごみでありますと得意満面に主張するちびの躾に頭が痛くなる。

人類ならばスプーンとフォークを操れ、とこんこんと言い諭し、残しておいたパンケーキにホイップクリームとチョコレートソースをたっぷり乗せた。

「お風呂ありがとう、オラトリオ」

「おう」

髪の毛からぽたぽたと雫を落としながら顔を出したオラクルに、オラトリオは仏頂面でパンケーキを差し出す。

「余ったから食わせてやる」

「わあ」

わあ、が幾重もの色を纏って発せられる。

喜色満面で食卓につくオラクルの口からは、歓声として。

そして、信彦とちびの口からは、思いきりなにかを含んで。

「つかおまえ、髪はちゃんと拭け」

「んうん」

早速パンケーキを頬張るオラクルは、聞いているのかいないのか、とろんと蕩けた顔だ。

ため息をついたオラトリオが、バスタオルを取りに行く。

「オラトリオってさー…」

信彦がつぶやき、しあわせそうな顔でパンケーキを頬張るオラクルを見た。

「約束してたんなら、普通に用意しといたって言えばいいのに」

「約束?」

きょとん、とオラクルが信彦を見る。その口の端には、子供のようにホイップクリームをつけている。

「約束って?」

訊き返されて、信彦は口を尖らせた。

「だからさ。オラクル、今日来る約束してたんだろだったら、普通に…」

「してないよ?」

不思議そうに、オラクルが答えた。今度は信彦のほうがきょとんとする。

「えだって」

「今日は個人的に打ち合わせだったから。そのあと、飲みに行くっていう話だったんだけど、相手のほうに急用ができて、流れてね。じゃあどうせだからオラトリオの顔でも見て帰ろうとちょっと思っただけだから」

「思っただけ?」

「うん?」

話の流れが見えていないオラクルは、無邪気に首を傾げる。信彦は眉間に縦皺を刻んで背を引いた。

「じゃあ、オラトリオに電話とかメールとか」

「してないよ。そうでなくても、携帯持つの忘れたし」

「げ~…」

「なんの擬音だ、信彦?」

バスタオルを持って帰ってきたオラトリオに訊かれて、信彦は微妙な表情で椅子から降りた。

「さーむーいー」

「ココアでも淹れるか?」

「飲むけどー」

さむいーと連呼して、信彦はちびを抱えた。三歳児にしてはおませっこなちびはぬふふん、と笑う。

「それがオラトリオおにーさんですよぅ」

「あなんだ、悪口かねおにーさん特製ココアがいらねえと、おふたりさん?」

「飲むけどー」

信彦はちびを抱えたままずりずりと後ずさりしていく。

「おら、淹れたら持ってってやるから。部屋で遊んでな、ふたりとも」

「うう~」

さむいーとまだつぶやく信彦にしっしと手を振り、オラトリオはオラクルの頭にバスタオルを掛けた。

「風呂であったまってもこれじゃあ、風邪引くだろ。んっとにおまえはよぉ」

「んー」

ぶつぶつ言いつつ世話を焼くオラトリオに、オラクルはされるがままだ。

信彦はほらさぶいぼさぶいぼ、とちびに見せながら、そっとキッチンから出た。それでも怖いもの見たさでつい振り返って、激しく後悔した。

「クリームつけて。子供かおまえは」

甘いもの嫌いのオラトリオが、溶けた砂糖のような声でつぶやく。ひょいと身を屈めると、オラクルのくちびるを舐めた。

オラクルはわずかに瞳を細めただけで、嫌がる素振りもない。

「ほら、さぶいぼ…」

「ほんとだー、すごいです、信彦―」

力無く言う信彦に、ちびはきゃらきゃらと明るく笑った。