不在の空漠に耐えられず、手を伸ばす。
麻薬の名は、煙草。
煙に巻かれると、ほんの少しだけ。
この煙草を、家に置いて行った従兄弟が、傍にいるような気になるから。
「…今日は、なにを描こうかな」
つぶやきながら、吐き出す煙。
滲む涙は、煙のせい。
そういうことに、しておいて。
スイート・ジャンキー
インターフォンの音に、わずかに遅れて絵筆を止めた。ぼんやりと音の意味を考えてから、慌てて絵筆を置くと立ち上がる。
鍵が開かれる音がした。
この家の合鍵を持っているのは、ただひとり。
「オラトリオ」
「よぉ」
勝手に鍵を開けて入って来た従兄弟は、それはそれはひどい顔をしていた。
目の下に濃い隈、わずかにやつれて青い頬。
完璧に徹夜明けだ。
「終わったのか?」
「さっきな」
答える言葉が、饒舌な彼らしくもない単文節。とてつもなく疲れている証拠。
それもそうだ。
オラトリオはここ数日、単品の仕事の締切りに追われていたのだから。
オラクルと組む仕事だとオラクルの家に泊まりこむのだが、今回は単品の仕事だからと、自分の家で缶詰になっていた。
自分の家にいては、家事をもやらずにはおれないから、忙しさは倍々だとわかっているのに。
「さっきって…。もしかして、休んでないのか?なんでそれでうちに」
「ん」
答えにもなっていない答えとともに、力強い腕が伸びてきた。腰を抱かれ、寝室へと連れ込まれる。ベッドにもつれるように倒れこんだ。
「オラトリオっ」
「なんか呼ばれた気がした」
「そんなの、んっ」
嘆息とともに、くちびるが降りてくる。
やさしく触れあうというより、飢えのままに貪られるような、乱暴なキス。息もうまく継げないほど深く潜りこまれ、全身に電流が走って、爪先まで痺れた。
わずか数日の不在だったけれど。
ほんの数日だって、寂しかった。辛かった。このぬくもりを、重みを、においを待ち望んでいて。
「お、らと、りお」
懸命に息を継ぎながら、オラトリオの背に腕を回そうとした。
「…ちょい、オラクル」
「ふぁ?」
なのに、オラトリオは唐突にキスを止めると、からだを起こした。疲れているだけでなく尖った顔が、オラクルを厳しく見下ろす。
「オラトリオ?」
どうして?
瞳を潤ませて見上げるオラクルに、オラトリオは濡れたくちびるを舐めた。
「…おまえ、煙草吸ってね?」
「…」
隠しごとに向かない性格のオラクルは、あからさまに口を噤んだ。そろり、と視線まで逃せば、吸いましたと白状しているも同じだ。今時、中学生でもここまで素直ではない。
厳しい表情のオラトリオは、そんなオラクルの頬を撫でる。
「だれに虐められた?」
「…」
「じゃあ、どんな厭なことがあった?」
「…」
オラクルが煙草を吸うのは、精神的に極限まで追い詰められたときだけだ。
それも、盛大にぷかぷか吹かすのではなく、ひとりきり、隠れてひっそりと。手負いの獣が、身を癒すのにも似て。
長年の付き合いでそこらへんが筒抜けの従兄弟の追及に、オラクルは瞳を揺らす。
おまえに会えなかったからだよ。
そう言えればいいが、たかが数日の不在で、そんなふうにぐずぐずに崩れる自分を晒すのはいやだ。
プライド云々より、それによって、この繊細な従兄弟が被るであろう加害意識がいやなのだ。
悪いのは自分、弱いのも自分で、耐えられないことがなにより問題なのに。
「オラクル」
「…もう、解決した」
甘やかす声音の彼に、オラクルはそれだけ絞り出した。
そう、ことは解決済みなのだ。こうしてオラトリオがここにいる時点で。
だから、嘘は言っていない。
「…」
くちびるを引き結ぶオラクルに、オラトリオは小さく嘆息する。
人当りのやわらかさに騙されがちだが、この従兄弟は強情だ。曲者揃いの親戚の中にあっても、いちばんを取れるほど。
彼がしゃべらないと決めたら、それはだれにも覆せない。こうして、からだを重ねてこころを通わせる自分にすら。
「…もう、大丈夫なんだな?」
確認したオラトリオに、オラクルはこくんと頷いた。
斜めに見上げる瞳が、不安に潤んで揺れている。それでも、決して口は割らない。
中学生より素直なくせに、そういうところは頑固爺も真っ青だ。
「わかった」
無駄な労力はさっさと放棄して、オラトリオはそう諦め、オラクルの額にキスをすると立ち上がった。
「オラトリオ?」
「ちょい待ち」
不安げなオラクルに軽く言って、オラトリオは勝手知ったる他人の家、甘いもの好きのオラクルの宝箱を漁る。
手にしたのは、小さなチョコレート、一欠け。
包装紙を剥きながらやって来ると、身を起こしたオラクルの口にそれを押し入れた。
訳が分からないまま、オラクルはただ、与えられるままにチョコレートを咥える。
ほろろ、と口の中で溶けて広がる、チョコレートの甘み。
「うまいか?」
「ぅん」
「よし」
ひとり頷くと、オラトリオはチョコを食むオラクルの口に舌を伸ばした。
「ちょ、っと、待て、おらと、んん」
慌てて身を引くオラクルに、甘いもの嫌いは躊躇なく迫ってきた。再びベッドに押し倒し、チョコ塗れの口を貪る。
粘度を増した唾液が甘いチョコ味なら、なけなしの抵抗を試みる舌も甘いチョコ味。
「…ぅあま………っ」
「だから待てって言ったのに!」
大して持ちもせずに離れると、口を押えてうずくまったオラトリオに、オラクルは癇癪を起こして叫ぶ。
なにをしたいのか、わかりやしない。
筋金入りの甘いもの嫌いなんだから、チョコレートを食べたばかりの口とキスしたら、地獄を見ることになるのはわかりきっていたはずだ。
疲れの滲んだ顔をさらに渋面にして歪めて、オラトリオは口の中に移ってきたチョコの滓と闘っている。
オラクルは呆れながら手を振った。
「口濯いで来い」
「やだ」
「は?」
まさかの駄々っ子の返事が返ってきて瞳を丸くするオラクルに、紫雷の瞳に涙すら滲ませたオラトリオが、再びくちびるを寄せてくる。
「って、ちょっと待て。だったら私が、口を濯ぐから」
「却下」
「はあ?!」
再びまさかで、オラトリオは抵抗するオラクルと強引にくちびるを合わせた。うっかり開いてしまったくちびるの中に、躊躇もなく舌が伸ばされる。
「おら、と、りお」
抵抗するのはオラトリオのためで、キスがいやだからではない。なのにオラトリオはますます力を込めて、オラクルに深くふかく潜ってくる。
「んん…っ」
つなぎ目もなく融け合うくらいに貪られて、オラクルは抵抗を止めた。というより、貪られ過ぎて酸欠で、気が遠くなった。
「…おまえは、子供舌なんだからさ」
「…?」
眩む頭に、オラトリオがぶっきらぼうに囁く。
「厭なことがあったら、甘いもの食いに来いよ。俺に言えば、おまえの憂さが晴れるような、スペシャルスイーツ、作ってやるんだからよ」
「…」
酸欠の頭は、オラトリオの言葉の意味がよく理解できない。
「…忙しかったくせに」
絞まる咽喉で、ようやく吐き出した。
「邪魔なんて、出来るわけないだろう」
遊んでいるわけではないのだから。
コンビの仕事ももちろん大切で、それこそがメインだが、単品の仕事だとておろそかにしていいものではない。そこから次へと繋がっていくものだし、すべては補い合っていくものだから。
オラトリオが、笑った。懸命に息を継ぐくちびるに、軽くくちびるを落とす。
「おまえが邪魔になるわけねえだろ、相棒」
「…そんなこと言って…」
声が甘すぎて、酸欠のせいだけでなく頭が眩む。甘いもの嫌いなくせに、どうしてこう囁く声が、微笑む顔が、触れる手が甘いのか。
「甘いもの嫌いなくせに…」
悔し紛れに吐き出した言葉に、オラトリオはくちびるを舐めた。
「でも、おまえは好きだ。どこもかしこも甘いけど、食うのを止められねえ」
「…」
沈みこんできたからだが、抵抗もしないオラクルを押さえこむ。器用な手が服を肌蹴ていって、ざわめく皮膚がべろりと舐め上げられた。
「だから止めとけよ、煙草なんかよ…。俺のほうが、ずっといいだろ」
「…ふ」
思わず笑った。
もちろん、オラトリオのほうがずっとずっといいに決まっている。
その、オラトリオの代用品としての、煙草なのだ。
ヘビースモーカの、従兄弟の身代わりとして。
言わない限り伝わらないそんな想いを、やはり言葉にはせずに、オラクルはオラトリオのからだに腕を回した。
「はやく、おまえでいっぱいになりたい」
つぶやくと、オラトリオはちょっと動きを止め、それから俄然イキイキしだした。
「俺も、甘いもので英気を補給したい」
疲れきっているはずなのに元気いっぱいに言って、オラトリオはオラクルに埋まった。