ふわり、目が覚めて。
どうしてだろう、と考える。
考えて、気がつく。
傍らに、ぬくもり――あったはずのそれが、ない。
Dream Field
「………ったく」
自分の家ではない、けれどひどく見慣れた従兄弟のアパートの天井。
睨みつけて、オラトリオはがりがりと頭を掻きながら、からだを起こした。
布団から出ると、なにも着けていないからだに、放り出してあったパジャマを引っかける。
部屋の中は暗い。時計を見れば、まだ三時――空が白みもしない、もっとも暗い時間帯。
「寝かせろっての……」
ぼやきながら、寝室から出た。扉を開いて、アトリエにもなっているリビングに出た途端、吹き抜ける冷たい風――
こんな涼しい場所にいたら、風邪を引く。
考えて、それはこっちの話か、と少しだけ肩を落とす。
昔から、繊弱に見えて丈夫なのが従兄弟で、頑丈に見えて脆弱なのがオラトリオだった。
悲しいかな、季節の変わり目に毎回のように倒れる自分の看病を、していた従兄弟が熱に倒れたのを見たのは、長い付き合いでも片手の数に事足りる。
「……」
くん、と鼻をひくつかせ、オラトリオは眉をひそめる。
冷たい風。
混ざって届く、嗅ぎなれた香り。
「………風邪引くだろ」
低い声で言いながら開け放されたベランダに行くと、コンクリに挟まるように小さくうずくまって座り、煙草を咥えた従兄弟が、ほんわりと笑った。
「だれが?」
「俺が!」
問いに、自信たっぷりに返す。オラクルはさらに笑って、煙を吸った。
オラトリオは目を眇め、そんなオラクルを見下ろす。
オラクルは、シャツにジーンズという姿だ。寝たときには同じように、なにも着ていなかったからだに、着直したのがパジャマではなく普段着。
ということは、もう寝る気がない。
だから、まだ三時、草木も眠る、丑三つ時だというのに!
「いやな夢を見たのか」
ベランダに出ることなく、窓辺に仁王立ちして訊いたオラトリオに、オラクルは曖昧な笑顔で俯いた。煙を吸って、上を向く。ふ、と吐き出される、白く染まった吐息――
暗くても、そんな色はわかるのか。
ふと気が逸れたオラトリオに、オラクルは笑った。
「絵を描きたいと思ったんだ」
ぽつり、告げる。
「目を覚ました。たぶん夢を見ていた。おまえがいた。起きて隣にはおまえが寝ていて、ああ、私は絵を描かなければいけないんだと思った。絵を描く、絵を描くこと。見せることじゃない、描くこと。意味があるのは描く、描いて描いて描く。描くことが私なのだと思った」
小さなちいさな、こんな深夜の静寂の中ですら聞き取れないほどに、小さなつぶやき。
オラクルは高速で言葉をこぼし、暗い空を見上げる。
その指には、赤く光る煙草の火。かすかで、けれど確かな明かり。
「起きて布団を出て服を着て、部屋を出た。暗いから電気を点けないといけないと思ったけれど、点けられなかった。仕方がないから暗い中でカンバスに向かったけれど、色がわからない。描きたいと思った絵も闇に呑みこまれて見えない。どうしようかと途方に暮れていたら煙草が目に入って。吸ってみたけれど――」
つぶやきながら、オラクルは上を向くくちびるに煙草を咥える。す、と吸いこまれる煙。
しばらくの沈黙ののちに吐き出して、オラクルは煙草を振った。
「嗅ぎ慣れないにおいで、ちっとも落ち着かなかった」
オラクルが吸ったのは、オラトリオの煙草だ。銘柄はいつも同じ。吸い出したときから、一回も変えたことがない。料金が値上がりするたびに、安い煙草に変えたらどうかと言われて、それでも頑固に。
だからいつも傍らにいるオラクルにとっては、この煙草のにおいは嗅ぎ慣れた、親しんだもの――嗅ぎ慣れないにおいなわけがない。
同じ銘柄の、同じ煙草。
いつもと同じ、なにも変わらないそれのにおいが、嗅ぎ慣れないと感じる――
「オラクル。来い、阿呆」
「んー?」
のんびりとした目で見上げるオラクルに、オラトリオは近寄ることなく、手を伸ばす。暗くても、夜に慣れた目なら見えるだろう。差し出された手、そこに続く渋面。
「言ってんだろ、風邪引くって」
「オラトリオが?」
「俺が」
「ははっ」
オラクルは声を上げて笑って、ゆっくりと立ち上がった。どっこらせ、などと年寄りくさい掛け声を上げて、大きくひとつ、伸びをする。
ベランダのコンクリに火を押し付けて消し、吸殻を持ったオラクルがやって来る。
吸殻をまず取って植木鉢の水に浸け、オラトリオはオラクルを抱きしめた。
冷たい。
冷え切って、ぬくもりを忘れたかのようだ。
おそらく自分からも大分、ぬくもりは失われているだろうと思う。けれど、このからだよりは、ずっとましだ。
「…………オラトリオは、いつもあったかい」
やわらかく凭れるからだが、甘くささやく。夢の中から、ようやく現実に戻ってきたように。
「おまえだって、俺があっためてやればあったかくなるだろ」
「うん」
頷いて、オラクルはねこのように額を擦りつけた。
「オラトリオは、いつでも私にあたたかさを分けてくれる」
「おまえは熱くなりすぎる俺を、冷ましてくれる」
オラクルが小さく笑う。
「冷ましてしまうのか?」
「冷静さを取り戻して思う。ああ、俺はおまえがいないと駄目なんだ。おまえがいなければ、ひとり立つことも出来ない。そしてよりおまえに傾倒していく」
淡々と、紡がれるオラトリオの言葉。
オラクルは嘆息し、垂らしていた腕をオラトリオの背に回した。抱きつけば、応える弾力があり、ぬくもりがある。
このぬくもりが、自分のこころに「人間」を取り戻させる。
人間を取り戻させて、思う。
ああ、私にはおまえがいないと駄目なんだ。おまえがいないと、息をすることすら覚束ない――
それなのに、一瞬で、忘れてしまう、この存在。奪われる、絵を描くという行為。
忘れて、けれどなにかを忘れた焦燥感に駆られていると、現れて、またぬくもりを分けられる――
「さて、寝るぞ、オラクル」
「でも」
「いいから布団に入れ。おまえたぶん、風邪引きかけてる」
「え?」
きょとんと顔を上げたオラクルの額にくちびるを落とし、そのまま頬をつけて、オラトリオは頷いた。
「煙草の味がおかしいんだろ?俺が風邪引いたとき、なにが我慢ならねえって、煙草の味が変わることだから」
「え、そうなのか?」
ぱちぱちと瞳を瞬かせるオラクルの腰を抱き、オラトリオは寝室へと誘う。
「でも、全然怠くないし…」
「だから、引きかけなんだよ。今が肝心なの。なのにこんなにからだを冷やしやがって」
「そうなのか……?」
不思議そうなままのからだを引きずって、ベッドに倒れこんだ。シングルだ。どちらかというと規格外の二人で寝るサイズではない。
けれど布団を分けることなどわずかも考慮に入れず、オラトリオはオラクルを抱きしめた。
「俺がこうやって、きっちりとあっためておいてやる。明日の朝になったら、元気になってろよ」
「…………元気なんだけど…」
首を傾げながらも、オラクルはオラトリオに擦りつく。そのくちびるから、安堵のため息がこぼれた。
「…………まあ、いいや。今夜はなにを描きたかったかも、よくわからないし………」
「熱が出そうになるときってな、夜中に突然、目が覚めたりするもんだ」
「おまえが言うんだから、そうなんだろうな」
風邪に慣れないオラクルは素直に頷き、瞳を閉じた。そのくちびるから、すぐに漏れる寝息。
聞きながら、オラトリオはさらにきつく、オラクルを抱きしめた。
隣で寝ていても、意識を保っていなければ、絵に奪われてしまう従兄弟の心。
愛している、と笑っても、次の瞬間に描くことに乗っ取られてしまう、偏狂な精神。
「……………………傍に、いてくれ、オラクル」
ささやいて、オラトリオは瞳を閉じた。