「ぼくはかえりましぇぇえええええんっっ!!」
オラクルにひっしとしがみつき、ちびはあらん限りの力を振り絞って絶叫した。
101
ちびの声は大きい。
所は、オラクルのアパートだ。壁の厚さは大したことがない。
ご近所迷惑も甚だしいがそれ以前に、当のちびを抱いたオラクルと、叫ばれたオラトリオに被害が甚大だ。
冗談でも比喩でもなんでもなく、きぃいんと耳鳴りがする。
床に座り込んでいたから大過なかったものの、オラクルはくらくらと目を回して倒れかけた。その前に仁王立ちしたオラトリオも、軽く耳を押さえて眩暈と戦う。
一応、オラトリオはちびの兄だ。日常的に面倒を見ているから、多少の慣れはある。
しかしそれでなんとかなるほど、甘いちびの声ではない。
「あの知らないひとたちがどっかいっちゃうまで、ぼくはかえりましぇんったらかえりましぇえんっ!!オラクルくんのおうちにいますぅうううっ!!」
「ぁああもう、叫ぶな!叫ばなくても聞こえるっ!!」
耳を押さえながら、オラトリオも負けじと叫び返す。
くわんくわんと目を回しつつも、オラクルは宥めるように、しがみつくちびの頭を撫でた。
「知らないひとって………」
オラクルが記憶している限り、従兄弟の家には今、『知らないひと』など来ていないはずだ。
いや、むしろ――
「自業自得なんだけどよ、あのひとらの」
「…………つまり、『忘れて』るのか…………………」
さくっと吐き出したオラトリオに、オラクルはため息をついた。駄々を捏ねるだけでなく、ベソを掻きながら懸命にしがみつくちびの頭をよしよしと撫でる。
従兄弟の家に現在、『知らないひと』など来ていない。
きょうだいの両親が、久しぶりに帰って来ているだけだ――そう、久しぶりに。
仕事忙しさに年単位で家を空ける、存在感なきに等しいご両親が。
珍しくも帰省した彼らはしかし、子供たちのことを愛していないわけではない。
しっかり者の長女に正座でこってり絞られつつもうはうはし、微妙に醒めた空気を醸し出す長男や、親がいようがいまいがどうでもいい次男、割と素直にうれしい三男に、これでもかと構いつける。
もちろん、かわいい盛りの末っ子、ちびにも。
が、悲しいかな――肝心のちびのほうは、あまりに不在の期間が長かったために、両親のことをすっぱんと忘れ果てていた。
そもそも、大きい兄がすべての家事を完璧にこなし、生活に不自由はない。その他のきょうだいにしても、なんだかんだとちびと遊んでくれるし、外にも老若男女問わず、たくさん友達がいる。
ちびの世界は、広い。
両親不在であることが、一般的な不自由と繋がらないほどに、この幼児の世界は広大で鷹揚だった。
ために、ちびは実の両親恋しさに駄々を捏ねることもなく、どころかすっぱんと忘れ去った。
おとーさんですよおかーさんですよと言われても、ちびにとっては知らないひと。
知らないひとなのに、なんだかべたべたしてくる。いっしょにお風呂に入ろうとか、寝ようとか!!
基本的に懐っこい子なのだが、なにかしらいろいろと耐えかねたらしい。
ちびは齢わずか三つにして『家出』を敢行し、歩いて五分の距離にあるオラクルのアパートへと転がり込んだのだ。
それをオラトリオが連れ戻しに来た、と。
「ちび………お父さんとお母さんだろう?」
宥めるように頭を撫でつつ言ったオラクルに、ちびはさらにきゅううっとしがみついた。ぐりぐりと、オラクルに擦りつく。
「僕のおとーさんとおかーさんは、オラトリオおにーさんとオラクルくんなんですぅっ!」
「あああ……………」
ちびのことは抱きしめつつも、オラクルはがっくり項垂れた。両親不在の弊害が、こんなところにも。
「ごはんつくって、おそーじおせんたくして、おかーさんみたいですけど、オラトリオおにーさんはおとーさんで、オラクルくんはおかーさんなんです。ちゃんとカルマくんに教わりましたっ!」
「なにを教えてるのかな、あの保父さんはっ!」
――まあ主に、否定しようもない家庭の現状というものだ。
子供相手に言うべきでないことも存在するが、隠しておくほうがまずいこともある。
上手い具合にそれを見極めて、オブラートに包みつつも包み隠さず子供に明らかにするのが、有能かつ優秀なカルマという保父さんだった。
なによりも、オラトリオとオラクルの仲は、いわば町内公認だ――末っ子ひとりが知らないというほうが、いっそどうかしている。
オラトリオといえば、連れ戻しには来たものの、親に合わせろと無理強いしたいわけではなかった。ちびの反発心もわかるし、戸惑う気持ちも十分に理解できる。
とはいえ、このままにするわけにはいかないのも確かだ。
「まあ、おまえの言い分もわかるけどよ。じゃあ、いっしょにお風呂だの、寝るだのいうのは止めさせるから、せめても夕食をいっしょに食うくらい」
幼子の妥協点を探ろうと放たれた言葉に、ちびの体が膨らんだ――一部比喩で、一部現実に。
「いーやーでーすぅうっ!!」
鼓膜がきぃいんと鳴って、オラクルは軽く目を回した。
ご家庭内でいろいろあった結果、どうやら現在のちびは完全にへそを曲げている状態らしい。
いつもなら簡単に頷いてできる譲歩が、さっぱりできなくなっている。
「あのなあ、ちび!」
「僕はきょぉは、オラクルくんちにおとまりですっ!オラクルくんとおふろはいって、だっこだっこでいっしょにねるんですぅっ!!」
「やれやれ………」
ため息をついたオラクルは、苦笑しながらちびの背中をぽんぽんと叩く。
きゅううっとしがみついて喚く幼子は、どうも一度、頭を冷やす時間が必要なようだ。
おそらく一晩経てば、多少の落ち着きを取り戻すはずだ。その間にオラトリオが両親に、ある程度の節度を言い聞かせておけばいい。いや、事情を知ればおそらく、ラヴェンダーから正座で説教が再び下るだろう。
双方ともに落ち着けば、明日にはちゃんと家族水入らずで過ごせる。今日一日で両親がまた、仕事に出てしまうわけでもない。
ここは、焦らないことが肝心――
『当事者』ではない分、冷静にそう見切ったオラクルは、ぐすぐす洟を啜る幼子の頭にぽへんと頬を乗せた。
「わかった。いいよ、ちび。今日はうちにお泊まりして」
「おらく」
「そーぉーはーいーくーかーぁあ…………」
表情をぱっと喜色に輝かせたちびがなにか言うより先に、ひどく不穏な声が落ちてきた。
ぎょっとして顔を上げたオラクルは、ちびを抱いたままわずかに後退さる。
暗雲背負った大魔王さまが、ご降臨なさっていた。
「オラトリオ……」
「オラクルと風呂入っていっしょの布団で、抱っこ抱っこでねんねだぁ?んなこたぁ、一千万年早いんだよ、ちびっ!!」
「意味不明だぞ、オラトリオ!」
齢わずか三歳の弟に本気で凄む成人の兄に、オラクルは呆れて叫んだ。
三歳だ。相手は。
一千万年早いというより、普通に考えると、今だから赦されるのではないか。
しかしオラトリオは、聞く耳を持たなかった。きっぱり頭が飛んでいる。
「ちびっ!俺とオラクルを取り合う気か?!ヤんのか、おまえさん!」
「おーらーとーりーおぉおおっ!相手は三歳児だぞ!なにを本気になっているんだ、恥ずかしいっ!」
ちびをぎゅうっと抱いて、オラトリオから半ば体を背け、守りの態勢に入ってオラクルは叫ぶ。
腰を浮かせて、いつでも逃げられるようにもしての、抗戦だ。
明後日に頭を飛ばしてしまったオラトリオといえば、めげもしなければ怯みもしない。残念至極な感じで、むしろふんぞり返った。
「恥ずかしかろうがなんだろうが、知ったことか!俺はこの点でだきゃぁ、誰にも譲らねえぞ!」
「どうしてそう、偉そうなんだ!」
オラクルは跳ねるように立ち上がると、ちびを抱いたままオラトリオの前に行った。片手を伸ばすと、オラトリオの鼻をぎゅむむっとつまんで捻り上げる。
「ひょんなことしても…………っ」
「おーらーとーりーおーぉおっ………っ」
「はふぅん」
きりきり睨み合う恋人たちの間から、微妙に過ぎるため息が上がった。
オラクルに抱かれたちびだ。
さっきまではベソ掻きの、非常に幼児らしい態度だったちびだが、今はなにかひどく大人臭いと言うか、似非臭い詐欺師の雰囲気を漂わせていた。
思わず黙って見つめたオラトリオとオラクルに、ちびは抱っこされたまま、ひょいと肩を竦めてみせる。
「オラトリオおにーさんは、ほんとにオラクルくんが好きですねえ」
「ちび…………」
「おうよ。好きだとも!」
がっくりと項垂れたオラクルに対して、腐された兄、オラトリオのほうは自信満々に胸を張った。
「だからおまえさんが、オラクルと風呂だの抱っこ抱っこでねんねだの、ぜってぇに認めらんねえの。いくら三歳児でもだ!というわけで、ちび」
「ぼくはかえりましぇええんっ!!」
――油断していたところで、音波攻撃が来た。
思わずふらついたオラクルの腰を、オラトリオが咄嗟に抱いて支える。
図らずも『おとーさん』と『おかーさん』にサンドされる形になったちびだが、構わない。『おかーさん』にしがみついて、『おとーさん』にべえっと舌を出した。
「ぼくはきょぉは、オラクルくんちに泊まるんですぅっ!オラクルくんちの子になるんですぅっ!!」
「ちび………」
くわんくわんくらんくらんと世界を揺るがせつつ、オラクルは諦めのため息をついてちびの背中をあやすように叩く。
オラトリオのほうは、オラクルの腰を抱く腕に力を篭めた。
感触にオラクルがはっとして顔を上げるのと、同時。
「だったら今日は、俺も帰らねえっっ!!」
――ぐらんぐらんぐわんぐわんと世界を揺るがせつつ、オラクルは考えていた。
あとで、ちびとオラトリオとを引き連れて、隣近所にお詫び行脚に行かなければならない。さもないと大家さんから呼び出しのうえ、正座でお説教を食らう。
それはまんま、男夫婦に子供一人な光景だったが、オラクルがそのことに気がつくことはなかった。