その鐘の音は、降るが如く、振るが如く、震えるが如く――
福音か、それとも慰撫の、はたまた弔問の音色か。
全身を押し包み、息苦しさとともに与えられる、安堵感。
吐息とともに顔を上げ、オラクルは気づく。
安堵――それもそのはず。
全身を押し包み、空間を満たすこの鐘の名は――
Oranges & Lemons
「…………またか」
賽銭を投げ入れるところまでは順調にこなしたものの、そこから止まってしまって動かない従兄弟に、オラトリオは小さくため息をこぼした。
毎年のことだ。
小さなころからずっと、なんだかんだと都合をつけては、いっしょに初詣に行っていた。
その初めのときから、ずっと、変わることなく。
オラクルは、鈴を鳴らした段階で動きが止まってしまう。
いつも穏やかに凪いだ表情をうっすらと不審に歪め、鈍い音を立てる鈴をじっと見つめて。
違和感があるのだという。
この音じゃないと。
だからといってなにも、毎回まいかい、睨みつけて考えに沈むこともないはずだ。
しかしこの従兄弟が何事もなく手を合わせ、神頼みに行きつけたことはない。
――そもそも神頼みを必要とするような性格である気も、まったくしないのだが。
「仕様のねえ………」
オラトリオは腕まくりし――実際には寒いので、服もコートもまくっていない。あくまでも心理的な持ちようの話だ――、じじぃっと鈴を睨んで動かないオラクルの肩を掴んで揺さぶった。
「おーらーくーるーさーんっ!二礼二拍手!」
「っゎっ?!」
はたと我に返ったオラクルは、オラトリオに言われるまま、ぺこぺこと二礼し、ぱんぱんと二回、拍手を打つ。
そこまでやってから、夢から覚めたばかりのきょとんとした顔をオラトリオに向けた。
「え?オラトリオ?なんだ?」
――神頼みを必要とするような、性格の気がしない。まったく。
堪えることなくため息をこぼし、それでもオラトリオは軽く首を傾げてみせた。
「願いごとはちゃんとしたか?」
「ねがいごと?」
「………やれやれだ」
――神頼みを必要とするような、性格ではないのだ。
儀礼的に、習慣として、初詣に行くだけ。
ある意味でもっとも、神泣かせではないかと思う。
捧げられるのは、祈りを込められもしない、祈り。
願われることもない、願い。
「で?今年もまた、『違和感』か?」
「ああ、うん」
オラクルの腕を掴んで参拝の列から抜けつつ、オラトリオはさっさと話題を変えた。
おまえに願いはないのかと突っ込んでも、意味がない。
だって私が願っても願わなくても、おまえが全部叶えるしと、非常にあっさりとお答えくださる。
そこまで万能のカミサマであったつもりはない、ただびとたるオラトリオだ。
けれどオラクルは、磐石の信頼とともに本心から、そう吐き出す――
「違うって、思うんだ。この音じゃないって。でもこの間、教会で聴いた鐘の音も違うし――」
「どうしてそんなに、鐘の音色にこだわるのかが、わかんねえ」
記憶を漁らせると人ごみだろうが綱渡り中だろうが、構うことなく上の空になるオラクルだ。
近所の小さな神社は、どこそこの有名神社ほどの混み具合ではないが、それなりに人出が多い。
このオラクルを引っ張って歩くのも並大抵の苦労ではないため、オラトリオは素早く周囲を観察し、人通りの少ない場所へと抜け出した。
そこで立ち止まり、考えこんで現実を見ていないオラクルの瞳を覗きこむ。
「いっそのこと、イギリスでも行ってみるか?」
「イギリス?なんで?」
オラトリオは、オラクルの発想は常に飛んでいると言う。飛躍も甚だしいと。
しかしオラクルに言わせてもらえば、オラトリオの発想もかなりすっ飛んでいる。
瞬きして現実に戻ったオラクルの瞳を確認し、オラトリオは撓めていた背を伸ばした。
ひょいと、適当な方向へ顎をしゃくる。
「♪Oranges & Lemons, Say the bell of St.Clement's. ………」
「ああ」
口ずさまれて、オラクルもようやく頷いた。示された適当な方角へ顔を向けてから、オラトリオに向き直る。
「鐘がたくさんあるから、聴き比べようってことか」
「うたになるくらいだしな。のど自慢が多いってことだろ」
「のど自慢って」
オラトリオの言いようにぷっと吹き出してから、オラクルは再び社へと目を向けた。
がらんがらんと、ひっきりなしに鈴は鳴らされる。
小さな子供は親にせがんで抱いてもらい、それでも太い綱に半ばぶら下がるようにして、重いおもい鈴を振る。
しあわせな光景だ。
これが、悪いというのではない。
ただ、違うのだ――オラクルが求める、音と。
願いこめ、祈りこめ、こめられた思いの分だけ、重くおもく鳴る鈴の音。
違うのだ。
その音は、降るように振るように、震えるように空間を満たしてオラクルを包み込む。
身動きも取れなくなって、逃げ場を失う。
逃げ場を失い、押し包まれる息苦しさとともにある、究極の安堵感。
「………胎内回帰に、似ているかな」
「ん?」
吐息にも似たオラクルのつぶやきは小さすぎて、ひとでごった返す外では、さすがにオラトリオも聞き逃したらしい。
訝しげに眉をひそめるオラトリオに、オラクルは微笑んだ。
「世界のどこに行っても、存在しないような気がする。おまえと同じ音なんて」
「は?」
無明の闇の中。
響くのは、鐘の音。
オラクルを閉じこめ鎖す、檻の音。
それでも厭わしさを感じることなく、むしろ安堵に包み満たされてしまうのは、その『音』が=オラトリオだからだ。
小さなころから、くり返し見る夢。
くり返しくり返し見る、白昼の残像。
説明しろと言われても、曰く言い難い。
言い難いけれど――
それはオラトリオという音。
自分の絶対守護者。
確信があって、初めて会ったときからずっとずっと――
あの安堵感に、現実でもくるまれてみたいと、願って祈って渇望して、ついつい探してしまうけれど。
未だ、同じ音に巡り会ったことがない。
「さて、無事に初詣も済ませたし!さっさと家に帰って、こたつに篭もってぬくぬくだらだらしよう!」
「あーのーなぁ………!」
自由にも程がある。
切り替えの早さが、オラクルだ。
他人を幻想に巻き込んで惑乱しておいて、自分はあっさりと抜け出し、現実に還ってしまう。
何年経っても慣れることなく脱力し、オラトリオはきれいに整えた自分の髪をくしゃりと掻き混ぜた。
それがオラクルで、そのオラクルを愛し、傍にいたいと願って祈って渇望し――
すべては望むべくもなく最上の形で叶えられて、ここに在る。
従兄弟で、気の置けない親友で仕事の相棒で、人生の伴侶だ。
逃げ場のないそんな関係でよく続くと、周囲は呆れ顔だが、オラトリオにとってはこれ以上、望むべくもない最上の形。
だからこそ、思う。
願い、祈る。
オラクルにとっても、そうであればいいと。
理想の音を探して上の空になるオラクルが、自分の傍らにあることで満たされればいいと――
神頼まない、オラクル。
だっておまえが全部叶えてくれるからと、無邪気に笑う。
ずっとそうであってくれと、オラトリオは神に祈る。
祈り願い、――
「………まあ、いいや」
思い切ると、オラトリオはのびのびと笑うオラクルに笑い返す。
「じゃあ俺も、おまえの隣でこたつに入って、ぬくぬくだらだらの寝正月を満喫するか」
「それは無理だ」
「あ?」
きっぱりと即答され、オラトリオは軽く目を見張る。
オラクルはそんなオラトリオを真顔で見つめ、首を横に振った。
「いっしょのこたつに入って、おまえがだらだらするわけがない。ぜっっったいになにかしら、私にちょっかいをかけてくる」
「ぁあ………?!」
非常に固い信念とともに言い切られ、オラトリオは瞳を瞬かせた。
なんたる揺るぎない信奉ぶり。
そうとしか言えない、強い光がオラクルの目にはある。
が。
「…………そんなに信頼されると、応えないことには男が廃るよな?」
恐る恐るといったふうに訊いたオラトリオに、オラクルはぶんぶんと勢いよく首を横に振った。
「廃ってもいい!今日だけは!私はこたつでぬくぬくだらだらしたい!正月気分を満喫したい!!」
「まあ、そう言うなって!」
言うだけでなく、オラクルはじりじりと後ずさっていく。オラトリオは打って変わって、上機嫌な高笑いを迸らせた。
「終われば、いやでもだらだらすることになるって!ちょっとした順番の問題だけだ、オラクル!」
「『終わる』?!終わるっておまえ、なにをどこからどうまでする気だ?!」
自分が藪を突いたことに気がつかぬまま、オラクルは震撼して叫ぶ。
突かれて素直に顔を出したオラトリオは、晴れやかな日に相応しい明朗な笑い声とともにウインクを飛ばした。
「そんなこたぁ、まさか神社の境内で、この人ごみの中では言えないな!」